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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第十章 樹海反転迷宮

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第四十九話 空を二度踏む

 腰が浮き、角の根元へ引きずられた。


 安全帯の金具が脇腹へ食い込む。白樫の短棒は手から離れていたが、器具環へ掛けた紐が張り、角の表面を跳ねながらついてきた。


 天根鹿が次の空を踏み、身体の下が横へずれた。


 角へ腹をつけ、左腕を枝分かれの奥まで回す。右側に残っていた琥珀色の塊が、視界へ入る前に背中へ当たった。


 中にいる隊員の顔は見えない。樹液から出ているのは、泥の乾いた救助靴と手袋の先だけだった。


 その手袋が、わずかに動いた。


「聞こえてるなら、動かなくていい」


 返事はない。


 救助ロープは角の分かれ目へ巻きつき、鹿が走るたび樹皮へ深く沈んでいた。このまま拘束を切れば、隊員はどの下へ落ちるか分からない。


 安全帯の予備スリングを外す。琥珀色の塊の胸下へ通そうとしても、右の端が見えず、二度続けて角へ当てた。首ごと向け、黒い根と樹液の隙間へ帯を押し込む。反対側から出た輪をつかみ、カラビナを救助ロープへ掛けた。


 それだけで、指が汗に滑った。


 鹿の首の上では、ガルが黒い根へ歯を立てていた。根は四本に分かれ、灰白色の毛の下へ潜っている。一本が前脚へ続き、蹄が空へ触れるたび、濡れた縄のように膨らんだ。ガルは隊員ではなく、そこを見ていた。


「ガル、それか」


 耳だけがこちらへ向く。


 救助ロープが二度、強く震えた。空洞からの合図だった。


「音界地図」


「次、左前!」


 千紘の声が、白い靄を割って届く。


 天根鹿の左前脚が上がった。黒い根が張り、角の上にいた俺と隊員の身体が、まだない下へ先に引かれ始める。


 今切れば、ロープ側へ落ちる。


 隊員を留める根の集まりへ左手を当てた。脈のような震えが角の奥へ続いている。前の一人より太い。それでも、樹液を避けて一本になる場所はあった。


「断界」


 灰色の線が途中で止まりかけた。


 欠けた右目の奥へ鈍い痛みが刺さる。手を離さず押し込むと、黒い根の表面が裂けた。


 拘束が外れる。


 琥珀色の塊は新しい下へ落ち、胸へ回したスリングが伸び切った。救助ロープが角を擦り、隊員だけが空洞の方へ滑っていく。


「取った!」


 村瀬の声がした。


 靄の向こうで受け網が膨らむ。コボルトたちが身体ごと蔓へぶら下がり、神崎がロープを引く。琥珀色の塊は一度だけ網の縁へ乗り上げ、そのまま空洞の中へ消えた。


 三人目まで戻った。そう思った途端、天根鹿が頭を振り、角が枝へぶつかった。


 右から来た衝撃は見えなかった。安全帯の金具が脇腹を抉り、身体が角の反対側へ投げ出される。


 左手だけが枝分かれに残った。


 肩が抜けそうになる。足先に角の細い枝が触れたが、体重を預ければ折れる太さだった。


 天根鹿の首で、ガルが根を噛み切った。黒い液が散り、鹿の左前脚が置いたはずの空を踏み抜いた。


 巨体が傾き、別の蹄が白い靄へ食い込む。二つの下が同時に身体を引いたらしく、首から角へ走る根が互い違いに張った。


 角の付け根で樹皮が割れ、琥珀色の光が一瞬だけ見えた。


「そこだ、ガル!」


 ガルは動かなかった。首へ残った根をくわえたまま、後ろ脚を毛の間へ沈めている。俺を見て短く息を吐き、空洞へ続くロープへ目を向けた。


 引く方向が違う。


「神崎さん、引いて!」


 声が届いたかは分からない。だが、腰のロープが急に張った。神崎と村瀬だけではない。靄の中でコボルトの細い腕が何本も蔓へ加わっている。


 角が空洞側へ引かれ、ガルは反対へ走る。


 前脚へ続く根と、角へ続く根が首の上で交差した。天根鹿は新しい足場を作ろうと蹄を上げるが、残った三本の根が同時に膨らみ、どれも同じ方向を向かなかった。


 空が軋んだ。


 千紘の声が遅れて届く。


「二本とも離れる!」


 足場が消えた。


 天根鹿も、ガルも、俺も、樹冠へ向かって落ちた。


 下になった巨大な枝へ鹿の肩がぶつかる。その衝撃で角が跳ね、左手まで外れかけた。


 角へ触れている足裏と、枝へ叩きつけられる鹿の身体を意識する。


「衝撃分散」


 胸を潰すはずだった力が、角を通って鹿の肩へ抜け、枝が裂けた。


 天根鹿の首が沈み、交差した黒い根がさらに引き絞られた。角の付け根から琥珀色の球が半分、押し出される。


 核そのものへ触れれば、今の《断界》では通らない。球から四本の蹄へ伸びる根。そのうち、ガルが噛み切った一本の切れ目へ手を入れると、命令を送ろうとする震えが行き場をなくして何度も戻ってきた。


「断界」


 灰色の線が切れ目から走った。一本では終わらない。交差していた根が順に白くなり、蹄の先まで震えが抜けていく。


 最後の黒い蹄が枝へ落ちた。天根鹿は起き上がろうとしたが、脚の下に新しい空はできなかった。首を一度だけ持ち上げ、角を地面代わりの枝へ押しつける。


 そのまま、動かなくなった。


――――――――――


管理個体《天根鹿》の停止を確認しました。


樹海反転迷宮の攻略評価を確定します。


レベルが20から24へ上昇しました。


HP:1,540/1,960

MP:280/580


未配分能力値:240

スキルポイント:20


――――――――――


 レベルが上がっても、脇腹へ食い込んだ金具の痛みは消えなかった。


 角から身体を起こす。ガルは鹿の首に立ったまま、押し出された琥珀色の球へ鼻を寄せ、すぐ顔を背けた。


 俺が触れるまで待っているのではない。嫌な匂いがするらしかった。


 核へ左手を置く。


――――――――――


樹海反転迷宮核への接続を確認しました。


継承候補を表示します。


《空歩》

《重心固定》

《生命感知》


この迷宮核から継承できる能力は一つです。


――――――――――


 生命感知があれば、見えない場所の負傷者を探せる。重心固定なら、次に足場が裏返っても患者を落としにくい。どちらも、今ここで役に立つ。


 それでも、切れた編み道の向こうには榊と三人の隊員がいる。鹿を止めても、間に残った空は埋まっていなかった。


 《空歩》を選ぶ。


 足裏の奥へ、硬い感触が二つ並んだ。


――――――――――


《継承》がLv.3へ上昇しました。


《空歩》Lv.1を取得しました。


一度発動すると、三秒以内に重力方向から外れた空間へ二歩まで足場を作ります。

一度の発動につき、消費MPは40です。


樹海反転迷宮核を収容しました。


保有迷宮核:3


《治療槽》

《装備工房》


第零迷宮に新しい施設が開放されました。


記録層の一部を開示します。


都市接続第一例

居住域収容――失敗


――――――――――


 琥珀色の球が手の下から消え、白い靄が沈み始める。


 森の底にあったのは、土ではなかった。


 根に押し潰された屋根が並んでいる。道路らしい灰色の帯を太い幹が貫き、横倒しになった電柱から、切れていない電線が何本も垂れていた。


 樹冠の下へ、町が一つ埋まっている。


「在真!」


 千紘の声で顔を上げた。避難空洞のある枝まで、六メートルほど空いていた。救助ロープは残っていたが、角へ巻きついた部分が裂けかけていた。これへ体重を預けて戻れば、患者ごと網を引くかもしれない。


 ガルが隣の枝を見た。


「先に行け。今度は俺が試す」


 鼻を鳴らしてその場に伏せ、俺が立っても追ってこなかった。


 短棒を器具環へ戻し、切れかけたロープを外す。空洞の入口にいる千紘が、俺のヘルメットを安全帯へ下げたまま身を乗り出していた。


「動かないで。今から行く」


「どうやって」


「二歩だけ、足場を作れる」


「二歩って」


 説明するより先に枝を蹴った。


「空歩」


 一歩目は、何もない場所へ置いた。足裏に透明な板が当たる。踏み込むとすぐひび割れ、身体が沈み始めた。


 二歩目で空洞の縁へ届く。左手を伸ばしたが、指が樹皮を滑った。


 千紘が安全帯の胸紐をつかむ。片耳のコボルトも反対側から腕へしがみつき、二人で空洞の中へ引きずり込んだ。背中が蔓床へ落ちる。


「二歩で来るなら、二歩目を崖の端にしないで」


「次は気をつける」


「次もやる気なんだ」


 千紘は怒ったまま、俺の安全帯から切れかけたロープを外した。それから少し離れた場所へ目をやる。


 ガルは俺の後を追わず、天根鹿の角を走り、垂れた電線へ飛び移っていた。たわんだ線を渡り、俺たちより低い別の枝へ着く。


「あっちの方が安全だったんじゃない」


「たぶん」


 言うと、千紘が一度だけ目を閉じた。


「私も十四になった。MPは百八十のまま」


「怪我は」


「増えてない。そっちは増えてる」


 脇腹を見られていた。


 灯は会話へ入らず、三人目の隊員の顎下へ指を当てていた。長く数えたあと、樹液へ印をつけていた時刻を書き足す。


「三人とも脈はある。樹液はまだ剥がさない」


「戻れば、治療用の施設が使えるかもしれない」


「かもしれないなら、いきなり人を入れないで。何をする場所か先に調べる」


「分かった」


 神崎が三つの蔓床を見回した。救助した隊員たちの顔はまだ見えない。それでも、一人ずつ手で数えてから、ようやく壁へ背を預けた。


 片耳のコボルトは休まなかった。切れた編み道の代わりに、空洞の寝床から新しい蔓を外している。別の個体は、低くなった枝へ骨の鉤を投げた。


 俺たちを入口へ帰すためなのか、自分たちがここを出るためなのかは分からない。どちらでもよかった。


 薄くなった靄の下で、埋もれた道路の信号機が見えた。そこへ続く電線は途中で切れ、支柱も半分まで根に呑まれている。


 それでも赤い灯だけが、消えずに点いていた。

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