第四十八話 鹿が踏んだ空
傾いたのは、空洞だけではなかった。
床代わりの蔓へ置かれていた鉗子が、榊の頭側へ滑る。壁の寝床も一斉に斜めへ垂れ、琥珀色の樹液に包まれた男が神崎の腕からずれた。
灯が先に男の肩を受け止める。
「寝かせて。そこ、榊さんと離して」
「樹液が固まってる」
「分かってる。だから剥がさないで」
神崎と村瀬が、男を空いていた蔓床へ移した。樹液は胸から両脚までを覆い、救助服と皮膚の隙間へ入り込んでいる。呼吸で動くはずの胸も、ほとんど上下していなかった。
灯は首筋へ指を入れようとして、樹液に阻まれる。鋏の先を表面へ当て、薄く一枚だけ削った。
琥珀色の膜がめくれ、その下の皮膚まで一緒に持ち上がる。
手が止まった。
「くっついてる。服だけじゃない」
別の場所を探し、顎の下に残ったわずかな隙間へ指を当てる。灯の目が腕時計へ移ったまま、しばらく戻らなかった。
「脈はある。遅すぎるけど、生きてる」
安心した声ではなかった。
榊の呼吸を見て、樹液の男へ戻り、また榊を見る。灯は腕時計を確かめた。
「榊さんは、あと九分」
二人ともここへ置いて先へ進める状態ではない。それでも、空洞の傾きは少しずつ強くなっていた。
「三人とも、あれに包まれてたんですか」
千紘が神崎へ聞く。
「角に二人、首の横に一人だ。枝をくぐった時に下の塊が引っかかった。村瀬と切って、ここまで引いた」
「切ったら追ってきた?」
「たぶんな。止まったのは一度だけだ」
神崎はそこで俺を見た。正確には、額の角へ目を止めた。
「お前、その頭」
「竜人になった」
「そうか」
聞いたくせに、それ以上は触れなかった。残った右手で救助ロープを解き、樹液の男が滑らないよう蔓床へ結び始める。
村瀬が自分の腰から短いロープを外した。片端には黒い根の切れ端が絡み、琥珀色の滴が乾かず残っている。
「角にいた二人も、これで巻かれてます。鋸は入らなかった。神崎さんと体重を掛けて、細い一本だけ裂きました」
俺は切れ端へ左手を近づけた。
触れる前に、ガルが間へ鼻を入れる。匂いを嗅いだ途端、耳を伏せて歯を見せた。
首輪に使われていた黒い帯とは形が違う。それでも、何かを縛って運ぶためのものだという点は同じだった。
「大月、それ切れるか」
「本体につながってるなら分からない。細いところなら、たぶん」
「たぶんか」
「見てないものを切れるとは言えない」
神崎は短く息を吐いた。文句ではなかった。
低い木の実の音が、すぐ頭上で鳴る。
千紘が片耳のイヤホンを外し、壁へ掌を当てた。
「次の鐘を使う。残り二十」
「根が寄らないか」
「もう向こうから鳴らしてる。私が新しく音を出すよりはまし」
灯は榊の傷から顔を上げずに言った。
「やるなら早くして」
黒い根が木の実の底を押した。
鈍い音が空洞を満たす。
千紘の肩がわずかに上がり、すぐ止まった。返った音が壁の外へ広がり、俺には聞き分けられない細かな反響になって戻ってくる。
「音界地図」
千紘は目を閉じなかった。壁、樹皮の蓋、天井の順へ顔を向け、最後に俺たちが入った入口を見る。
「大きい。四本脚。こっちへ来てる」
「二人は」
「上……違う。今は左。枝みたいなところに二つある」
空洞がさらに傾いた。
木の実が壁へ触れたまま横へ滑る。榊の担架を留める蔓が伸び、コボルトたちは空いている寝床を外し始めた。
逃げるためだと思ったが、外した蔓床を二枚重ね、空洞の中央へ張っていく。片耳の個体は村瀬の短いロープを指し、その端を網の四隅へ結ぶよう身振りで示した。
「受ける気だ」
村瀬が先に結び始める。
神崎も説明を求めず反対側へ回った。人間用の結び目ではなく、コボルトが使っていた輪へロープを通す。方向が変わっても、網のどこかが底になる作りだった。
空洞の外で枝が折れた。
白い靄の中から、黒い蹄が現れる。
枝へ下りたのではない。
何もない空間へ、硬い蹄底が置かれた。
その瞬間、身体が蹄の下へ引かれた。
安全帯が腰を止め、背中から壁へ叩きつけられる。衝撃を受ける位置と、背中に触れている生木へ意識を向けた。
「衝撃分散」
背中の熱が壁へ抜ける。生木の内側で何本もの筋が鳴ったが、前に使った時のように足裏から腰まで痺れは上がってこなかった。
代わりに胸の奥を回っていた熱が濃くなる。
《竜脈》の影響かもしれない。確かめている余裕はなかった。
「今の足」
千紘が壁へ肩を押しつけたまま言う。
「踏んだ場所が下になった。次、後ろが上がる」
白い靄を割り、鹿の頭が現れた。
頭だけで俺の身長に近い。濡れた樹皮のような灰白色の毛を持ち、首から肩へ黒い根が血管のように這っている。
角は枝分かれした一本の木だった。
その左右へ、琥珀色の塊が一つずつ吊られている。片方から救助服の腕が出ていた。もう片方は樹液にほとんど沈み、靴底だけが見える。
鹿の左後ろ脚が浮く。
「来る。右の壁が下!」
千紘の声と同時に蹄が空を踏んだ。
空洞の全員が右へ落ちる。コボルトが張った網が膨らみ、榊と樹液の男を留めた蔓床がその上へ重なった。灯は二人の間へ身体を入れ、榊の首と男の顎を両手で押さえる。
鹿の角が入口を擦った。
樹皮が裂け、黒い根が三本入ってくる。根は最初に榊へ向き、途中で樹液に包まれた男へ曲がった。
傷より、生きているものそのものへ寄っているように見えた。
ガルが一本へ噛みついた。
俺の指示は待たなかった。根を外へ引きながら、鹿の鼻先へ向かって枝の上を走る。片耳のコボルトも骨の鉤を鹿の角へ投げた。
鹿が頭を振る。
角の左側にいた人間の塊が、空洞の入口近くまで下がった。
「一人だけでも取る」
神崎が短いロープの端を俺の安全帯へつないだ。
「戻せる長さじゃない」
「戻る分は村瀬が出す。お前は根まで行け」
「蹄が替わったら落ちます」
千紘がロープを握った。
「私が言う。音が消えてからじゃ遅いから、上がる音で動いて」
鹿の右前脚が軋む。
「まだ。……今!」
入口から飛び出した。
足の下には何もない。それでも鹿が踏んだ空間へ身体を預けると、一瞬だけ、透明な斜面を滑るように角へ落ちた。
着地で右膝が崩れる。角は丸く、樹皮より滑った。
片手で枝分かれをつかみ、身体を引き寄せる。竜人になっても右側は見えず、樹液の塊が肩へ当たるまで位置を読み違えていた。
腰から伸びたロープは角の分かれ目を一周し、空洞へ続いている。
「大月、もう一つ先!」
村瀬の声が下から来る。
角へ巻きついた黒い根は、隊員の胸、腰、両脚を別々に留めている。全部を切る時間はない。
三本が角へ集まる根元へ左手を当てた。
生き物の骨に似た感触の奥で、迷宮の境界だけが薄く硬い。切れる場所は一本しか見えなかった。
「断界」
灰色の線が根元へ走る。
黒い根が弾け、隊員を包んだ塊が角から離れた。
落下方向が変わる。
琥珀色の塊は空洞ではなく、鹿の前脚が踏んだ白い靄の底へ落ち始めた。
「そっちじゃない!」
俺が叫ぶより先に、コボルトたちが受け網の片側を外した。神崎と村瀬が結んだロープを引き、網全体を空洞の外へ振る。
網の端が隊員の脚へ触れた。
一度は滑る。
灯が榊から離れ、網へ飛びついた。身体を安全帯に止められながら両腕で琥珀の塊を抱え、空洞側へ押し返す。
片耳のコボルトが骨の鉤を樹液へ突き立てた。
神崎と村瀬がロープを引く。
塊が網へ収まり、空洞の中へ戻った。
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樹海反転迷宮管理個体を確認しました。
《天根鹿》
対象情報
種族ランク:未判定
個体分類:管理個体
レベル:45
HP:28,000/28,000
MP:4,800/4,800
筋力:2,600
耐久:3,200
敏捷:2,300
器用:1,000
感覚:1,800
精神:2,200
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竜人になって増えたはずの数値が、横へ並べると小さく見えた。正面から押し返せる相手ではない。
文字が出た時には、鹿はもう次の足を上げていた。
角の上で空気の向きが変わる。
残った一人を包む黒い根が太くなり、角のさらに奥へ引き寄せた。
ガルが鹿の首へ飛び乗る。
「ガル!」
呼んでも、こちらを見ない。
天根鹿は何もない空へ蹄を置き、その身体ごと白い靄の上へ駆け出した。
安全帯のロープが角へ巻きついたまま、俺の腰を強く引いた。




