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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第十章 樹海反転迷宮

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第四十八話 鹿が踏んだ空

 傾いたのは、空洞だけではなかった。


 床代わりの蔓へ置かれていた鉗子が、榊の頭側へ滑る。壁の寝床も一斉に斜めへ垂れ、琥珀色の樹液に包まれた男が神崎の腕からずれた。


 灯が先に男の肩を受け止める。


「寝かせて。そこ、榊さんと離して」


「樹液が固まってる」


「分かってる。だから剥がさないで」


 神崎と村瀬が、男を空いていた蔓床へ移した。樹液は胸から両脚までを覆い、救助服と皮膚の隙間へ入り込んでいる。呼吸で動くはずの胸も、ほとんど上下していなかった。


 灯は首筋へ指を入れようとして、樹液に阻まれる。鋏の先を表面へ当て、薄く一枚だけ削った。


 琥珀色の膜がめくれ、その下の皮膚まで一緒に持ち上がる。


 手が止まった。


「くっついてる。服だけじゃない」


 別の場所を探し、顎の下に残ったわずかな隙間へ指を当てる。灯の目が腕時計へ移ったまま、しばらく戻らなかった。


「脈はある。遅すぎるけど、生きてる」


 安心した声ではなかった。


 榊の呼吸を見て、樹液の男へ戻り、また榊を見る。灯は腕時計を確かめた。


「榊さんは、あと九分」


 二人ともここへ置いて先へ進める状態ではない。それでも、空洞の傾きは少しずつ強くなっていた。


「三人とも、あれに包まれてたんですか」


 千紘が神崎へ聞く。


「角に二人、首の横に一人だ。枝をくぐった時に下の塊が引っかかった。村瀬と切って、ここまで引いた」


「切ったら追ってきた?」


「たぶんな。止まったのは一度だけだ」


 神崎はそこで俺を見た。正確には、額の角へ目を止めた。


「お前、その頭」


「竜人になった」


「そうか」


 聞いたくせに、それ以上は触れなかった。残った右手で救助ロープを解き、樹液の男が滑らないよう蔓床へ結び始める。


 村瀬が自分の腰から短いロープを外した。片端には黒い根の切れ端が絡み、琥珀色の滴が乾かず残っている。


「角にいた二人も、これで巻かれてます。鋸は入らなかった。神崎さんと体重を掛けて、細い一本だけ裂きました」


 俺は切れ端へ左手を近づけた。


 触れる前に、ガルが間へ鼻を入れる。匂いを嗅いだ途端、耳を伏せて歯を見せた。


 首輪に使われていた黒い帯とは形が違う。それでも、何かを縛って運ぶためのものだという点は同じだった。


「大月、それ切れるか」


「本体につながってるなら分からない。細いところなら、たぶん」


「たぶんか」


「見てないものを切れるとは言えない」


 神崎は短く息を吐いた。文句ではなかった。


 低い木の実の音が、すぐ頭上で鳴る。


 千紘が片耳のイヤホンを外し、壁へ掌を当てた。


「次の鐘を使う。残り二十」


「根が寄らないか」


「もう向こうから鳴らしてる。私が新しく音を出すよりはまし」


 灯は榊の傷から顔を上げずに言った。


「やるなら早くして」


 黒い根が木の実の底を押した。


 鈍い音が空洞を満たす。


 千紘の肩がわずかに上がり、すぐ止まった。返った音が壁の外へ広がり、俺には聞き分けられない細かな反響になって戻ってくる。


「音界地図」


 千紘は目を閉じなかった。壁、樹皮の蓋、天井の順へ顔を向け、最後に俺たちが入った入口を見る。


「大きい。四本脚。こっちへ来てる」


「二人は」


「上……違う。今は左。枝みたいなところに二つある」


 空洞がさらに傾いた。


 木の実が壁へ触れたまま横へ滑る。榊の担架を留める蔓が伸び、コボルトたちは空いている寝床を外し始めた。


 逃げるためだと思ったが、外した蔓床を二枚重ね、空洞の中央へ張っていく。片耳の個体は村瀬の短いロープを指し、その端を網の四隅へ結ぶよう身振りで示した。


「受ける気だ」


 村瀬が先に結び始める。


 神崎も説明を求めず反対側へ回った。人間用の結び目ではなく、コボルトが使っていた輪へロープを通す。方向が変わっても、網のどこかが底になる作りだった。


 空洞の外で枝が折れた。


 白い靄の中から、黒い蹄が現れる。


 枝へ下りたのではない。


 何もない空間へ、硬い蹄底が置かれた。


 その瞬間、身体が蹄の下へ引かれた。


 安全帯が腰を止め、背中から壁へ叩きつけられる。衝撃を受ける位置と、背中に触れている生木へ意識を向けた。


「衝撃分散」


 背中の熱が壁へ抜ける。生木の内側で何本もの筋が鳴ったが、前に使った時のように足裏から腰まで痺れは上がってこなかった。


 代わりに胸の奥を回っていた熱が濃くなる。


 《竜脈》の影響かもしれない。確かめている余裕はなかった。


「今の足」


 千紘が壁へ肩を押しつけたまま言う。


「踏んだ場所が下になった。次、後ろが上がる」


 白い靄を割り、鹿の頭が現れた。


 頭だけで俺の身長に近い。濡れた樹皮のような灰白色の毛を持ち、首から肩へ黒い根が血管のように這っている。


 角は枝分かれした一本の木だった。


 その左右へ、琥珀色の塊が一つずつ吊られている。片方から救助服の腕が出ていた。もう片方は樹液にほとんど沈み、靴底だけが見える。


 鹿の左後ろ脚が浮く。


「来る。右の壁が下!」


 千紘の声と同時に蹄が空を踏んだ。


 空洞の全員が右へ落ちる。コボルトが張った網が膨らみ、榊と樹液の男を留めた蔓床がその上へ重なった。灯は二人の間へ身体を入れ、榊の首と男の顎を両手で押さえる。


 鹿の角が入口を擦った。


 樹皮が裂け、黒い根が三本入ってくる。根は最初に榊へ向き、途中で樹液に包まれた男へ曲がった。


 傷より、生きているものそのものへ寄っているように見えた。


 ガルが一本へ噛みついた。


 俺の指示は待たなかった。根を外へ引きながら、鹿の鼻先へ向かって枝の上を走る。片耳のコボルトも骨の鉤を鹿の角へ投げた。


 鹿が頭を振る。


 角の左側にいた人間の塊が、空洞の入口近くまで下がった。


「一人だけでも取る」


 神崎が短いロープの端を俺の安全帯へつないだ。


「戻せる長さじゃない」


「戻る分は村瀬が出す。お前は根まで行け」


「蹄が替わったら落ちます」


 千紘がロープを握った。


「私が言う。音が消えてからじゃ遅いから、上がる音で動いて」


 鹿の右前脚が軋む。


「まだ。……今!」


 入口から飛び出した。


 足の下には何もない。それでも鹿が踏んだ空間へ身体を預けると、一瞬だけ、透明な斜面を滑るように角へ落ちた。


 着地で右膝が崩れる。角は丸く、樹皮より滑った。


 片手で枝分かれをつかみ、身体を引き寄せる。竜人になっても右側は見えず、樹液の塊が肩へ当たるまで位置を読み違えていた。


 腰から伸びたロープは角の分かれ目を一周し、空洞へ続いている。


「大月、もう一つ先!」


 村瀬の声が下から来る。


 角へ巻きついた黒い根は、隊員の胸、腰、両脚を別々に留めている。全部を切る時間はない。


 三本が角へ集まる根元へ左手を当てた。


 生き物の骨に似た感触の奥で、迷宮の境界だけが薄く硬い。切れる場所は一本しか見えなかった。


「断界」


 灰色の線が根元へ走る。


 黒い根が弾け、隊員を包んだ塊が角から離れた。


 落下方向が変わる。


 琥珀色の塊は空洞ではなく、鹿の前脚が踏んだ白い靄の底へ落ち始めた。


「そっちじゃない!」


 俺が叫ぶより先に、コボルトたちが受け網の片側を外した。神崎と村瀬が結んだロープを引き、網全体を空洞の外へ振る。


 網の端が隊員の脚へ触れた。


 一度は滑る。


 灯が榊から離れ、網へ飛びついた。身体を安全帯に止められながら両腕で琥珀の塊を抱え、空洞側へ押し返す。


 片耳のコボルトが骨の鉤を樹液へ突き立てた。


 神崎と村瀬がロープを引く。


 塊が網へ収まり、空洞の中へ戻った。


――――――――――


樹海反転迷宮管理個体を確認しました。


《天根鹿》


対象情報

種族ランク:未判定

個体分類:管理個体

レベル:45

HP:28,000/28,000

MP:4,800/4,800

筋力:2,600

耐久:3,200

敏捷:2,300

器用:1,000

感覚:1,800

精神:2,200


――――――――――


 竜人になって増えたはずの数値が、横へ並べると小さく見えた。正面から押し返せる相手ではない。


 文字が出た時には、鹿はもう次の足を上げていた。


 角の上で空気の向きが変わる。


 残った一人を包む黒い根が太くなり、角のさらに奥へ引き寄せた。


 ガルが鹿の首へ飛び乗る。


「ガル!」


 呼んでも、こちらを見ない。


 天根鹿は何もない空へ蹄を置き、その身体ごと白い靄の上へ駆け出した。


 安全帯のロープが角へ巻きついたまま、俺の腰を強く引いた。

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