第四十七話 竜の熱
低い音は、一度では終わらなかった。
二度目は遠く、三度目は足を入れている蔓の輪から響いた。鐘が鳴っているというより、巨大な幹の内側を硬いものが叩き、その振動だけが編み道を伝ってくる。
片耳のコボルトが牙を見せた。
俺たちにではない。編み道の先へ向けて短く吠え、榊の担架を引き始める。治療を受けた個体も水筒を千紘の足元へ戻すと、動かない左腕を胸へ寄せたまま担架の後ろへ回った。
「急げってことみたい」
千紘が水筒を拾う。
「鐘の間隔が縮んでる」
灯は榊の首を押さえたまま腕時計を見た。
「こっちも余裕ない。運ぶよ」
誰の返事も待たず、担架の持ち手へ体重を掛ける。
横向きになった重力のせいで、編み道は壁に垂らした網のようになっていた。足を蔓の輪へ差し、左手で担架を押す。右手を伸ばせば届く位置にも持ち手はあったが、見えない側へ身体を預ける気にはなれなかった。
ガルが先へ走り、急に止まった。編み道の先で太い枝が二本に分かれ、その間へ樹皮と蔓で作られた半球状の覆いが挟まっている。入口らしい割れ目まで、あと十メートルもない。
四度目の音が足裏を打った。
編み道の結び目が一斉に軋み、進行方向とは逆へ引かれる。担架が止まり、灯の安全帯が張った。俺も持ち手へ左肩を入れたが、蔓が掌を滑っていく。
「在真、左の上!」
千紘の声に顔を上げる。
頭上にあった太い蔓が、根元から裂けかけていた。あれが切れれば、編み道の半分ごと白い靄へ振られる。
片耳のコボルトが骨の鉤を投げた。鉤は裂け目の手前へ掛かったが、蔓を支えるには細すぎる。そいつ自身の身体まで、じりじりと上へ引かれていた。
今の俺では、担架を押さえるだけで左手が塞がる。文字はまだ視界の端に残っていた。
候補へ意識を向けると、得意分野だけが短く開いた。《魔人》は魔力と異常抵抗、《吸血鬼》は再生と生命感知。《竜人》は耐久と身体強化。細かな代償まで読み直す時間はないし、本当に今の状況に合うかも分からない。
選ぶなら、もっと落ち着いてからにするつもりだった。その落ち着ける場所へ、今の身体では届かない。
《竜人》へ意識を向けた。
――――――――――
一次種族進化を実行します。
《竜人》
選択後の種族変更はできません。
既存の能力、称号、負傷は継承されます。
実行しますか。
――――――――――
肯定した。
背骨へ熱した金属を流し込まれた。
息が止まり、担架の蔓が左手から抜ける。膝ではなく腰が折れ、編み道へ額をぶつけた。安全帯が腹へ食い込んでも、身体を起こせない。
「ちょ、在真!」
千紘が担架の持ち手をつかむ。灯も榊の首から片手を離し、腰側の輪を引き寄せた。
選ぶ時機を間違えた。
口に出そうとしても、歯の間から熱い息しか漏れない。肩の古い傷が内側から押し広げられ、背中で布の擦れる音が続く。閉じた右瞼の周りにも硬いものがせり上がり、眼窩の奥へ鈍い痛みが戻った。
一瞬、右側が明るくなった気がした。
目を開ける。
何も見えない。
失った右目は、そのままだった。
代わりに、見えない側の頬へ蔓が当たり、今までとは違う乾いた音を立てた。皮膚の上に薄く重なった何かが、蔓を滑らせている。
ヘルメットの内側がきつい。
額の左右を押され、視界が揺れた。留め具を外す指が一度滑り、千紘が横から顎紐を抜く。白いヘルメットを持ち上げると、髪の間へ引っかかって止まった。
「何か生えてる」
「引っ張るな」
「引っ張ってない。そっちが引っかけてる」
千紘はヘルメットを少し傾けて外し、自分の安全帯へ通した。
額へ触れると、指二本分ほどの硬い突起が左右にある。熱を持っているのに、触れた感覚は歯に近かった。
喉が急に乾いた。
息を吸うたび、胸の奥で熱が一周する。苦しいわけではない。今まで使っていなかった太い血管が開き、心臓の動きを肩と腹へ分けているような、落ち着かない感触だった。
――――――――――
種族:人間 → 竜人
種族ランク:基本種 → 一次進化種
種族特性《竜鱗》を取得しました。
種族特性《竜脈》を取得しました。
種族補正により、表示能力値を再計算しました。
筋力:200 → 400
耐久:280 → 560
敏捷:270 → 405
器用:160 → 160
感覚:130 → 130
精神:210 → 315
現在HP:1,600/1,720
現在MP:410/500
既存の負傷は回復しません。
――――――――――
裂ける音が近くなった。
表示を閉じ、左手で担架の持ち手を取り直す。数字は跳ね上がったが、裂けかけた道の上で担架が急に軽くなるわけではない。それでも皮膚が負けず、指を最後まで曲げられた。
「竜人を選んだ」
息を吐きながら言うと、千紘は俺の右目を見た。
「右は?」
「見えない」
「……そっか」
それだけ言い、俺の右側へ回った。
片耳のコボルトは、俺の額と肩を見て動きを止めていた。鼻先に皺を寄せ、骨の鉤を握り直している。
ガルも戻ってきたが、いつもの距離まで来なかった。
鼻を上げて俺の匂いを嗅ぐ。喉の奥から、ごく低い音が出た。
「俺だ」
呼びかけても近づかない。
今は待てなかった。片耳のコボルトが掛けた鉤の蔓を右手でつかみ、左肩で担架を押す。
「千紘、右の枝だけ見て」
「もう見てる」
裂け目の向こうで細い枝が折れ、こちらへ飛んでくる。千紘が先に身体を寄せたため、俺は右を振り向かずに済んだ。
灯が榊の担架へ覆いかぶさる。
枝は背中へ当たった。
服が裂け、肩甲骨の脇を硬い先端が擦る。痛みはあったが、皮膚へ食い込む前に止まった。枝が落ちたあと、背中には熱とざらつきだけが残っている。
《竜鱗》が何でも防ぐわけではない。けれど、今の一度で担架を離さずに済んだ。
ガルが俺の脇を抜け、片耳のコボルトと並んで裂けた蔓へ噛みついた。
匂いが変わっても、何をしようとしているかまでは消えていないらしい。
三人で蔓を引く。灯と千紘が担架を押し、負傷したコボルトは使える右腕で後ろの輪を持ち上げた。半球状の覆いが近づいてくる。
入口は人間が立って通れる高さではなかった。千紘が先に身体を折って中へ入り、担架の頭側を受け取る。灯は榊の腿を見たまま続き、俺とコボルトたちで足側を押し込んだ。
最後にガルが入った直後、外で太い蔓が切れた。編み道が白い靄の中へ大きく振られ、何本もの結び目が順番にほどけていく。
来た道は樹冠の横へ流されていた。もう、同じ道では戻れない。
◇
覆いの内側は、生木をくり抜いた空洞だった。樹液と湿った獣毛の匂いがこもり、壁には上下の区別なく蔓の寝床が結ばれている。
奥には小柄なコボルトが四体いた。二体は骨槍を持ち、残る二体は灯の手袋と、担架に寝た榊を交互に見ている。歓迎されてはいなかったが、片耳の個体が短く二度鳴くと、骨槍の穂先だけは下がった。
灯はそれを待たず、平らに編まれた床へ榊を移した。時計を見て傷へ手を当てる。千紘も膝をつき、さっき戻された水筒を灯の横へ置いた。
俺は壁へ背を預けた。鱗に覆われた部分だけ、湿った木の冷たさが遠い。代わりに覆われていない首筋から汗が流れ続け、喉の乾きは強くなっていた。
「見せて」
千紘がこちらへ手を出す。
「何を」
「背中。枝、当たったでしょ」
「榊さんが先だ」
「灯さんが見てる。脱がなくていいから、破れたところだけ」
返事を待たずに後ろへ回られた。右へ来られるよりはましだったが、鱗の上を手袋でなぞられると、自分の皮膚ではないものを調べられているようで肩が固まる。
「血は出てない。黒っぽい鱗。思ってたより……」
「何」
「いや。今はいい」
気になる言い方だけを残し、千紘は榊の方へ戻った。
低い音が、今度は空洞のすぐ外で鳴った。
壁へ吊られた器が震えている。鐘に見えたものは、蔓で括られた大きな木の実だった。その底を、壁の中から伸びた黒い根が押している。
片耳のコボルトが木の実を押さえ、耳を壁へつける。ガルも同じ壁へ鼻を寄せた。
次いで、空洞の下側にある樹皮の蓋が内から三度叩かれた。
骨槍を持つ二体が一斉にそちらを向く。
一度。
間を置いて、二度。
神崎が救助中に使っていた合図だった。
コボルトたちが槍を上げるより先に、俺は蓋へ手を掛けた。
「待って。向こうが神崎さんでも、後ろに何がいるか分からない」
千紘の手が俺の左腕を止める。
もう一度、三回の打音が返った。最後の一打だけが弱い。
蓋の隙間から、赤い救助服の袖が見えた。
俺と片耳のコボルトで蔓を外す。
樹皮の向こうから神崎が転がり込み、そのまま振り返った。村瀬と二人で、琥珀色の樹液に胸まで包まれた男を引いている。
救助服の胸には、四日前に消えた隊と同じ所属名が残っていた。
灯が榊から顔を上げる。
「あと二人は」
神崎は答えず、先に男の身体を中へ引き入れた。頬に乾いた血がこびりつき、左の手袋はなくなっている。
外で、木が一本ずつ倒れるような音が近づいてきた。
神崎がようやく息を吸う。
「鹿の角にいる」
空洞の重力が、ゆっくりと傾き始めた。




