第四十六話 言葉のない取引
蔓の担架を挟み、誰も先に手を伸ばさなかった。
片耳の欠けた一体は骨の鉤を枝へ置いたまま、俺、灯、横たわる榊の順に鼻先を向ける。息を吸うたび黒い鼻が動いた。
ガルの唸りだけが低く続いている。
「これ、使えってことかな」
千紘が担架を見た。
「ただで、とは限らない」
灯は榊の首へ指を当てたまま答えた。処置用の鋏は枝へ置かず、右手に残している。
先頭の一体が後ろを振り向いた。
左腕を吊っていた個体が、蔓の輪へ足を掛けて近づく。痛むのか、枝を渡るたび耳を後ろへ倒した。それでも前の一体に引かれてはいない。自分から俺たちの前まで来ると、胸へ吊っていた腕を差し出した。
巻かれた布の下から、甘く腐った匂いがした。
「交換か」
「たぶん。担架と治療」
千紘が言うと、灯は鋏を下ろした。
「勝手に治せるって決めないで。見てから」
相手に通じるはずのない声で言い、空いた手を見せる。負傷した個体は身を引いたが、片耳の一体が自分の腕を指し、次に灯の手袋を指した。
灯は榊から離れなかった。
「この人を先に固定する。待てるなら待って」
腕時計を指で叩き、掌を相手へ向ける。
意味が通じたかは分からない。三体は短い鼻声を交わしたあと、担架の両端へついた蔓を枝へ掛け始めた。
人を寝かせる布のように見えたが、表裏の両方に身体を通す輪がある。枝から落ちる方向が変わっても、患者だけが担架から離れない作りだった。
先頭の一体が榊へ近づこうとする。
灯がすぐ間へ手を出した。
「触らない。私が動かす」
声ではなく手の動きで止まったらしい。そいつは牙を見せたが、それ以上は来ず、代わりに担架の輪を一つずつ広げて見せた。
「在真、肩」
「上がる」
「上がるかじゃない。今、持っていいか」
「左なら」
「じゃあ左だけ。三枝さんは腰。首と腿は私が持つ」
榊の身体を枝から数センチ浮かせる。
左腕へ予想以上の重さが来た。地上と同じ方向へ持ち上げるのではなく、白い靄へ落ちようとする身体を横へ滑らせるため、足裏で枝を踏めないぶん腕だけが引かれる。
千紘が榊の腰を抱え、先に担架の輪へ通した。俺も救助服の背を左から支える。灯は傷のある腿を動かさず、担架そのものを少しずつ榊の下へ送った。
片耳の一体が、俺の右から蔓を引いた。
見えない場所へ急に毛のある腕が入り、白樫の棒へ手が動きかける。
そいつも同時に牙を剥いた。
二人とも止まる。
千紘が間へ手を入れ、俺の腰に余っていた蔓を取った。
「これを引こうとしただけ」
「分かってる」
「今、棒を持った」
言い返せなかった。
片耳の一体は俺の左へ回り、同じ蔓を引き直した。榊の身体が担架の中央へ収まり、表側の輪が胸、腰、両腿へ重なる。
最後に灯が首の下へ畳んだ布を入れた。
「これなら動かせる。揺らさなければ」
コボルトたちは先に担架から離れた。灯が頷くまで手を出さない。
今度は灯が、負傷した一体を指さした。
「腕、見せて」
言葉は通じなくても順番は伝わったらしい。そいつは枝へ腹をつけ、吊っていた布を自分で外した。
左前腕は途中から倍近く腫れ、毛の間へ黒い棘が埋まっている。傷の周りだけ緑がかり、触れていないのに筋肉が小さく痙攣していた。
灯は鼻を近づけず、傷から少し離れた毛へ指を当てる。
「根とは違う。毒。骨はたぶん折れてない」
相手へ自分の腕を見せ、折る仕草をしてから首を横へ振る。次に黒い棘を指し、抜く動きをした。
負傷した個体が耳を伏せた。
片耳の一体がその肩へ手を置く。押さえつけず、逃げるなら逃げられる程度だった。
「痛いよ。大丈夫とは言わない」
灯は鉗子で棘の根元をつかんだ。
一気には抜かない。皮膚を押し、棘を入った角度へ少し戻してから外へ引く。個体の脚が枝を蹴り、骨の鉤が揺れたが、声は上げなかった。
黒い棘の先から、濁った緑の液が糸を引く。
灯が反対の手を傷へ重ねた。手袋越しに淡い光が集まり、緑色だけが皮膚の下から細い筋になって浮かび上がる。
「《毒性分離》」
光の筋は灯が当てたガーゼへ移り、白かった布を暗い緑へ染めた。腫れは残っている。それでも痙攣だけは少しずつ弱くなった。
「全部は抜けてない。水を飲ませて、腕は動かさない」
通じないと分かっていても、灯は省かなかった。
千紘が水筒を出し、自分で一口飲んでから負傷した個体へ見せる。すぐ渡さず、足元の枝へ置いた。
そいつは匂いを嗅ぎ、片耳の一体を見る。短い鼻声が返ると、水筒を両手で持った。
飲み口へ舌をつけず、少し離して水を口へ落とす。
「人の使い方、知ってる」
俺が言うと、千紘は水筒ではなく、個体の腰を見た。
「あれも」
蔓帯へ、黄色い小さな物が結ばれている。
樹脂製のペンの蓋だった。
神崎は胸へ現場用のペンを二本差し、片方の蓋をよくなくす。久世駅でも、記録板へ書き込んだあと蓋のない一本をそのままポケットへ戻していた。
「神崎さんに会った?」
片耳の一体が俺を見る。
名前に反応したのか、声の強さに反応しただけかは分からない。俺は自分の胸へ二本の指を当て、神崎の背丈を示すように手を上げた。次に、消防服の肩章を指す。
そいつは黄色い蓋を外した。
白い靄の下へ向ける。
榊が言いかけた方向と同じだった。
「神崎さんと村瀬さんは、あっちへ行った」
灯が決めつけるように言い、すぐ首を振った。
「違う。少なくとも、この蓋はあっちから来た」
間違いを直しても、声に恥じる様子はなかった。
片耳の一体は、さらに別の枝を指した。
そこには、太い蔓を何本も編んだ道が続いている。白い靄の中へ下るのでなく、樹冠の横を大きく迂回していた。
負傷した個体が担架を指し、編み道を指す。
「榊さんを先に運べってこと?」
千紘が聞く。
灯は時計を見た。
「神崎さんを追うのはあと。この人を二十分で安定した場所へ動かす」
俺の返事は待たなかった。担架の頭側へ回り、蔓の持ち手を自分の安全帯へつなぐ。
神崎の蓋は白い靄の下を示したままだった。
そちらへ行きたい気持ちが消えたわけではない。けれど、今ここで榊を置けば、何のために根を切ったのか分からなくなる。
白樫の棒から手を離し、担架の左側を持った。
◇
編み道は、人間が歩く幅に作られていなかった。
蔓の輪へ片足ずつ入れ、枝へ腹を寄せて進む。コボルトたちは二本の持ち手を別々の蔓へ掛け、担架を手で持ち上げず、体重を移して滑らせていた。
真似をすると榊の身体が傾いた。
片耳の一体が舌を鳴らす。すぐに手を出さず、俺の左足の輪を一つ先へ指した。
置き直すと、担架が水平へ戻る。
教えられたことへ礼を言おうとして、言葉がない。代わりに一度だけ頷くと、向こうも鼻先を下げた。
風向きが変わった。
白い靄が横へ流れ、垂れていた細い蔓が斜めに浮く。コボルト三体は足を止め、担架の裏側にある輪を枝へ掛け始めた。
「また変わる」
千紘がイヤホンを外す。
元の地面へ戻るとは限らない。今度は枝の横へ落ちるかもしれなかった。
俺たちも担架の輪を掛ける。灯が榊の首を固定し、千紘は自分の安全帯を別の蔓へ移した。ガルだけは編み道へ乗らず、太い幹の分かれ目へ身体を入れている。
落ち葉が白い靄へ落ちる途中で止まった。
次の瞬間、すべてが横へ流れた。
身体が枝から離れ、編み道へ叩きつけられる。榊の担架も大きく回ったが、表裏の輪が胸と腰を押さえ、身体だけが投げ出されることはなかった。
コボルトの一体が掛けた蔓が外れる。
負傷した左腕では届かない。片耳の一体が飛びつくより先に、千紘が安全帯を伸ばして蔓を拾った。金具へ掛け、二体分の体重を止める。
編み道が激しく揺れた。
それでも、根は来なかった。
振動を逃がすためなのか、蔓の結び目が一つずつずれ、道全体が長くたわんでいる。ここまで運ぶこと自体が、細根を避ける方法だった。
視界の端に文字が重なった。
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樹海反転迷宮における共同救助経路の成立を確認しました。
レベルが上がりました。
レベル:18 → 20
最大HP:1,600 → 1,720
最大MP:460 → 500
未配分能力値を80獲得しました。
スキルポイントを2獲得しました。
現在HP:1,600/1,720
現在MP:410/500
一次種族進化が解放されました。
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揺れている最中に読むには、文字が多すぎた。
最後の行へ意識を向けると、さらに三つの名前が開く。
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一次進化候補:
《竜人》
《魔人》
《吸血鬼》
選択は保留できます。
選択後の種族変更はできません。
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千紘が、外れかけた蔓を握ったままこちらを見た。
「私も二つ上がった」
返事をする前に、編み道の先から低い鐘の音が一度だけ響いた。
コボルトたちの耳が、同時に伏せられた。




