第四十五話 鳴らせない命綱
白い靄から伸びたものは、杉の根に似ていた。
太さは親指ほどしかない。葉も先端もなく、濡れた灰色の表面を枝へ沿わせながら、赤いロープが最後に鳴った場所へ曲がってくる。
「喋るのは平気。木とロープを続けて鳴らさないで」
女は負傷者の腿から手を離さなかった。
「一回なら止まる。二回目から寄ってくる」
俺の安全帯が軋み、根の先がこちらを向いた。
息を止めても金具は静かにならない。身体を支えている赤いロープそのものが、外の固定へ引かれるたびに細く震えていた。
「雨宮さんですか」
千紘が声を落として聞く。
「雨宮灯。そっちはあとで」
灯は腕時計へ一度目を落とし、負傷者の顔を覗き込んだ。
「榊さん、聞こえますか」
返事はない。閉じた目の下で頬だけが小さく動いた。橙色の救助服は腿から下が暗く濡れ、止血帯のすぐ下に三本の細い根が食い込んでいる。
血の匂いへ、青臭い樹液の匂いが混じっていた。
「それ、抜けないんですか」
「二本は浅い。一本が血管の近くまで入ってる。今は《生命縫合》で閉じてるけど、治ったわけじゃない。あと十二分」
励ます言葉も、長い説明もなかった。十二分という数字だけが、枝の上へ残る。
「根だけなら切れます」
口にしてから、言い切ったことを後悔した。
《断界》が切れるのは、迷宮の拘束か境界だけだ。目の前のものが生きた植物なら、触れても灰色の線は通らないかもしれない。
灯は俺の迷いを待たなかった。
「根だけ、ね。皮膚ごとじゃないなら来て。右、見えてない?」
「見えてないです」
「じゃあ私の左から。枝を跨がないで、腹をつけて」
俺と灯の間には二メートルほどしかない。地上なら三歩で届く距離が、今は白い靄の上へ突き出た枝だった。
安全帯の金具を片手で押さえ、赤いロープへ沿って身体をずらす。左膝を枝へ載せ、腹をつけると、湿った樹皮が上着へ食い込んだ。
金具が一度、鳴った。
灰色の根が止まる。
もう一度鳴れば来る。
指へ力を入れたまま動けなくなった時、ガルが幹の向こうへ移った。爪が樹皮を長く引っ掻く。
根の先が、俺たちから外れた。
「ガル、やめて」
千紘の声にも止まらず、今度は離れた枝へ前脚を当てた。短く二度、爪を立てる。
灰色の根が向きを変えた。赤いロープを離れ、ガルのいる幹へ沿っていく。
囮になれと頼んでいない。戻れとも言えなかった。
「今。金具、持ち上げたまま」
灯に言われ、身体を前へ滑らせる。
榊の横まで来ると、腿の状態がはっきり見えた。根は皮膚へ刺さっているのではなく、細い先端を傷口の内側へ潜らせ、そこから三方向へ広がっている。
灯が持っていた鉗子で一番細い根をつまんだ。
「これは脈に合わせて動く。引くと奥へ入る」
榊の首へ触れていた指を離さず、鉗子だけを俺へ見せる。根の表面が、心臓の動きより少し遅れて縮んだ。
「どこへ触ればいい」
「それを私に聞くなら、切れるって言わないで」
怒鳴られてはいない。けれど、声から余分な柔らかさが消えた。
分からないまま触れば、榊の皮膚ではなく、内側にあるものを巻き込むかもしれない。俺は左手の手袋を外し、傷口から二センチほど外側で三本が重なっている場所へ指を置いた。
冷たい。
根から伝わる振動と、榊の脈が指先で重なる。どちらがどちらなのか、最初は分からなかった。
「千紘」
「聞いてる」
振り向くと、彼女は赤いロープを掴まず、枝へ片耳を近づけていた。
「三本じゃない。枝の中では一本。榊さんの手前で分かれてる」
「分かれるところは」
「今触ってる場所より、指二本ぶん左」
俺には傷口から遠ざかる方向だった。指をずらすと、三つに乱れていた震えが一つへ揃う。
そこだけ、薄い輪が巻かれていた。
樹皮の模様だと思っていたものが、締まるたび榊の腿を内側へ引いている。植物そのものを切るのではない。こいつが人間を枝へ留めている場所なら、《断界》の対象になる。
左手で輪を押さえた。
灰色の切断線が、指の下へ半分だけ現れる。
根が強く縮んだ。榊の身体が跳ね、灯の肩がその腰を押さえ込む。
「続けて。血はこっちで止める」
線の先が皮膚へ近づき、そこで止まった。
切る場所を狭める。
榊の身体ではない。根の命でもない。枝へ縫いつけるための輪、その一点だけ。
《断界》を押し込んだ。
音はなかった。
三本の根が同時に緩み、腿を引いていた力だけが消える。灰色の切断線は皮膚へ触れる前に途切れた。
MPを三十使い、残りは四百十。数だけならまだ使えるが、断つ場所を掴めなければ、近づいてくる根へ何度触れても同じことはできない。
「抜く。押さえて」
灯が言ったが、俺は血へ手を出しかけて止められた。
「そこじゃない。膝」
榊の膝を両手で固定する。
灯は一本ずつ、鉗子で根を引き出した。最後の一本は途中で動きを戻し、傷口の内側へ曲がろうとする。彼女は急いで抜かず、時計を見てから、根が緩むたび数ミリずつ外へ送った。
白く細い先端が抜ける。
血が溢れるより早く、灯の指が傷口へ重なった。皮膚の下で淡い糸のような光が走り、裂けていた部分を内側から寄せる。
榊が咳き込み、目を開けた。
「神崎、さん……」
「話さない。名前は分かってる」
「下、に」
「あとで聞く。今は息を吐いて」
灯は榊が伝えようとした言葉を拾わなかった。助けを求める名前より、目の前の呼吸を先にしている。
その判断に腹が立つかと思ったが、榊の唇へ少し色が戻るのを見ていると、何も言えなかった。
「十二分は」
千紘が枝の向こうから聞く。
「今ので延びた。二十分は動かせる。外まで届くかは別」
灯は血に濡れた手袋を片方だけ外し、新しいものへ替えた。外した手袋は袋へ入れ、枝の窪みへ押し込む。こんな場所でも投げ捨てなかった。
「まだいる」
千紘が枝へ耳を寄せたまま言った。
「今の根とは別。下の方で、同じ擦れる音が三つ。こっちへは来てない」
「音界地図は」
「鳴らす音が要る。今は使わない」
使えば場所は分かるかもしれない。その音で三つとも近づけば、分かった時には遅い。
ガルの爪音が止まった。
灰色の根は、幹の途中で動きを止めている。ガルは別の枝へ移り、こちらを見ていた。根との距離は二メートルもない。
「こっちへ戻せる?」
灯が俺に聞く。
「呼べます。来るかはガルが決めます」
「それでいい。あの大きさを抱えて帰る余裕はない」
ガルへ左手を見せる。声は出さなかった。
すぐには動かなかったが、灰色の根が再び縮んだ瞬間、幹を蹴った。隣の枝へ飛び移り、そのまま俺たちの上を越える。着地の振動を追って、根が枝の裏へ回った。
白い靄の奥で、別の音がした。
金属ではない。
硬いもの同士を一度だけ当て、長く間を空けて、もう一度。音へ寄る根が反応しないほど小さい。
ガルが牙を見せた。
枝の間から、小さな影が三つ現れた。
犬に似た尖った鼻。茶色い毛。人間の子供ほどの身体へ、編んだ蔓の帯を巻いている。二体は枝から下がる縄へ足を掛け、残る一体は背中に細長い籠を畳んでいた。
同じ顔には見えない。先頭は片耳の先が欠け、後ろの一体は左腕を胸へ吊っている。怪我をしていても置いてこなかったらしい。
武器らしい骨の鉤も持っている。
俺は白樫の棒を握った。灯も榊の前へ身体をずらし、処置用の鋏を逆手へ持ち替える。
先頭の一体がこちらを見た。
次に、榊の腿から抜いた根を見る。
そいつは骨の鉤を枝へ置き、空いた両手で背中の籠を下ろした。途中で蔓が枝へ擦れそうになると、後ろの一体が何も言わず手を添える。二匹とも、音を立てない動きに慣れていた。
籠を広げると、人一人を寝かせられる大きさの、蔓で編まれた担架になった。
差し出すのではなく、自分と俺たちの間へ置く。
ガルは唸ったまま、飛びかからなかった。




