第四十四話 空へ伸びるロープ
橙色は、日本列島の中央を塗り潰したまま動かなかった。
ガルだけが先に核保管室を出ていく。まだ走らず、右の後ろ脚をわずかに庇っていたが、物置へ戻る青白い境目の前でも止まらなかった。
「ガル」
呼んでも振り向かない。
地図へ触れると、指の下から新しい表示が浮かび上がった。
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地表接続流出警告
対象:未収容迷宮
推定等級:C
流出予測範囲:日本中央部
詳細接続座標:未確定
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神崎から送られた位置は、その橙色のほぼ中央にあった。
「Cって、在真より一つ上?」
直人が割れた留め具をポケットへ入れながら聞いた。
「人のランクとは別だ。推奨は十五から三十」
「お前、十八だろ」
父の声が近かった。スマートフォンを持った手首を掴まれたわけでもないのに、右肩が先に固くなる。
「だから行くって言ってない」
「言ってないだけだろ」
言い返す言葉を探したが、行かないとは言い切れなかった。
千紘の端末が震えた。神崎からではなく、見覚えのない番号から音声ファイルだけが届いている。彼女は送信者を確認し、片耳のイヤホンを外した。
「現地の人。神崎さんが、私に送るよう頼んだみたい」
再生すると、最初に風が鳴った。
山の中で録ったにしては近すぎる。マイクへ息を吹きかけたような音が続き、その奥で誰かが一度、短く呼んでいる。言葉は潰れ、名前なのか「おい」なのかも分からない。
九秒目で、赤いロープが強く擦れた。
そこでファイルは終わった。
「声、上からだったのか」
「分からない。風は右から入ってるのに、擦れた音は左と……たぶん、下にも返ってる」
千紘はもう一度聞こうとして、再生位置を戻す指を止めた。
「現地で聞く」
俺へ言ったのではなかった。イヤホンを耳へ戻し、自分のリュックから充電器を取り出している。
父は何も言わず、物置側へ歩き出した。止める言葉が来ないことの方が落ち着かず、後を追うと、外ではガルが父の車の後部扉を鼻先で押していた。
「乗せろってことかな」
直人が少し離れてしゃがむ。ガルが顔を向けると、すぐ両手を見える位置へ戻した。
「お前はどうする」
父に聞かれ、直人は七号の台座を持ち上げた。答えるまでに、割れた側を二度見た。
「行かない。今のこれ持ってっても、荷物が一個増えるだけだし」
軽く言ったが、台座を置く音は大きかった。
「代わりに店へ戻る。山用の帯と樹脂金具、使えるやつを探す。途中まで持っていくなら車を出すけど」
「俺が運転する」
父が車の鍵を出した。
「行っていいとは言ってないぞ。在真、お前は座れ。三枝さんは家へ電話しろ。話はそれからだ」
止めないのかと聞きかけた。父は後部座席から救急箱を引き出し、中身を一つずつ地面へ並べている。包帯、三角巾、消毒液。期限の切れた携帯カイロだけを脇へ投げた。
言葉では何も変わっていない。それでも、車はもう山へ向かう形になっていた。
◇
神崎が送ってきた地点へ着いた時、杉林の入口には救急車が二台と、泥で白くなった消防車が停まっていた。
午後の日差しは残っているのに、斜面へ入ると急に冷えた。濡れた杉の匂いへ、切ったばかりの草と排気ガスが混じっている。規制線の内側では、赤いロープが写真と同じ角度で空へ伸びていた。
先端は見えない。
ロープの下に立つ隊員が、何度も首を上げている。そのたびヘルメットがずれ、顎紐を直していた。
「大月在真さんですね」
東條の部下だと名乗った男が、俺たちの登録証を確認した。視線はガルへ移ったが、危険生物とも同行個体とも呼ばず、無線へ短く到着だけを伝える。
「神崎隊は二時間五十二分前に進入。四名です。最後の三十分、十五分ごとの定時連絡は二回とも受信できていません」
「四人の名前は」
「神崎さんと村瀬さん、地元消防の榊さん。それから雨宮灯さん。救急救命士です」
父が俺より先に聞いた。
「入口までの退路は」
「直線で百二十メートル。でした」
最後だけ声が落ちる。
杉の幹へ固定されたロープは、途中から土を離れ、空へ上がっている。写真では十メートルほど先だったはずだが、今は五メートルもない。斜面に沿って張られた部分が、少しずつ持ち上がっていた。
ガルが規制線の前で鼻を上げる。風ではなく、ロープの先を嗅いでいた。
「戻った人は」
千紘が聞いた。
「いません。ですが、二分前に一度だけ張力が抜けました。誰かが固定を外した可能性があります」
説明の途中で、赤いロープが軋んだ。
周囲の隊員が一斉に手を伸ばす。誰も引いていないのに、ロープは空へ向かって張り直され、杉の根元に打ち込まれた金属杭が土の中で少し動いた。
俺の足裏に残っていた痺れが、その音で戻った気がした。
「DとEでも入れるんですか」
「通常なら、ここで止めます。今回は対策班の個別承認が出ています。大月さんは迷宮核の回収経験、三枝さんは異常無線の解析記録を理由にした特例です」
「お二人は神崎隊と別の進入として記録します。中で会っても、向こうの指揮下へ入るわけではありません」
「その方がいいです」
男は何か言いかけたが、赤いロープがもう一度鳴り、そちらへ顔を向けた。
「これ、誰かを吊ってる音じゃない」
千紘がイヤホンを外した。ロープではなく、その下の地面へしゃがみ込む。
「土ごと引かれてる」
ガルが規制線を越えた。
隊員の一人が動いた時には、もう斜面を登っている。無理に速くは走らず、赤いロープの真下を避け、木の間を選んで進んだ。
「ガル!」
今度は一度だけ振り向いた。
止まる気はない。そのまま杉の陰へ消える。
父が息を吐いた。
「行くなら、あいつを追うな。帰る道を先に見ろ」
「父さんは」
「外に残る。お前らが戻った時、ここまで逆さになってたら車をどこへ置く」
返事をする前に、千紘が規制線をくぐった。自分の家へ電話したあと、母親から届いたらしい長いメッセージを、まだ開いていない。
「私は音を確かめる。神崎さんのためだけじゃない」
「止める気はない」
「まだ何も言ってない」
少しだけ睨まれた。そこでようやく、さっきから俺が彼女も来ると決めつけていたことに気づく。
「ごめん」
千紘は返事をせず、白いイヤホンの位置を直した。
父から渡された山岳用の安全帯を腰へ巻き、自転車用のものから現場で貸された白いヘルメットへ替えた。白樫の短棒は左腰へ差し、右肩へ荷重が集まらないようリュックの紐を調整する。
千紘も同じヘルメットへ替え、顎紐を引いている。俺たちの安全帯は、それぞれ別の赤い救助ロープへつないだ。ガルの分はない。
入口は、杉が二本重なった間にあった。
外から見ると、その先にも同じ山道が続いている。境目だけが水面のようにわずかに揺れ、越えた途端、排気ガスと人の声が背後へ落ちた。
湿った土を踏む。
杉林は変わらない。赤いロープも斜面の上へ続き、神崎たちの靴跡が四人分残っている。だが、頭上で鳴いていた鳥の声だけが、地面の下から聞こえた。
千紘が足を止める。
「今の、下」
答える前に、頬へ冷たいものが当たった。
雨粒ではない。靴の横に落ちていた杉の葉が一枚、俺の顔を掠めて上へ昇っていく。もう一枚、その隣の小石まで土を離れた。
腹が浮く。
膝を曲げるより先に、リュックが頭上へ引かれた。腰の帯が食い込み、靴底から地面の感触が消える。
「掴んで!」
千紘の声と、ロープへ手を伸ばしたのはほとんど同時だった。
身体が斜面から剥がれた。
土と杉の根が一気に遠ざかる。落ちているはずなのに、目の前では木の梢が近づいてきた。右側の枝へ肩を打ちそうになり、首を回した時にはもう避けられない。
左手で白樫の棒を抜き、身体と枝の間へ入れた。
棒が枝へ当たる。衝撃を逃がす余裕はなく、左手ごと弾かれた。安全帯につながったロープが腰を止め、身体だけが半回転する。
千紘の白いスニーカーがすぐ上にあった。彼女も両手でロープを掴み、枝の間で揺れている。
ガルはさらに先の太い幹へ爪を立てていた。後ろ脚が一度滑ったあと、枝の上ではなく、幹の側面へ身体を伏せる。
さっきまで地面だったものが頭上にある。
杉の根は黒い土へ食い込んだまま、その土ごと空を塞ぐ天井になっていた。下には枝が重なり、その隙間から、底の見えない白い靄が広がっている。
赤いロープだけが、その中へ真っ直ぐ落ちていた。
千紘が片手を離し、腰の金具を確かめる。俺も真似ようとして、右手がロープの向こうへ空を掴んだ。見えない側へ身体が傾き、帯が腹へ食い込む。
息が止まった。
「在真、左に枝」
声に合わせて左足を伸ばす。靴底へ樹皮が触れ、ようやく揺れが小さくなった。
その枝の下から、人の声がした。
「動かないで。そのロープ、もう鳴らさないで」
女が一人、太い枝の裏側へ膝をついていた。
消防の上着ではない。紺色の救急服の袖を肘まで上げ、腕時計を手首の内側へ回している。隣には地元消防のものらしい橙色の服を着た男が横たわり、腿へ巻かれた止血帯の下から、細い根が何本も皮膚へ入り込んでいた。
女の薄い手袋は血で濡れている。
それでも俺たちではなく、赤いロープの先を見ていた。
「音に寄ってくる」
白い靄の中で、枝ではないものがゆっくり曲がった。




