↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第十章 樹海反転迷宮

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
45/121

第四十四話 空へ伸びるロープ

 橙色は、日本列島の中央を塗り潰したまま動かなかった。


 ガルだけが先に核保管室を出ていく。まだ走らず、右の後ろ脚をわずかに庇っていたが、物置へ戻る青白い境目の前でも止まらなかった。


「ガル」


 呼んでも振り向かない。


 地図へ触れると、指の下から新しい表示が浮かび上がった。


――――――――――


地表接続流出警告


対象:未収容迷宮

推定等級:C

流出予測範囲:日本中央部

詳細接続座標:未確定


――――――――――


 神崎から送られた位置は、その橙色のほぼ中央にあった。


「Cって、在真より一つ上?」


 直人が割れた留め具をポケットへ入れながら聞いた。


「人のランクとは別だ。推奨は十五から三十」


「お前、十八だろ」


 父の声が近かった。スマートフォンを持った手首を掴まれたわけでもないのに、右肩が先に固くなる。


「だから行くって言ってない」


「言ってないだけだろ」


 言い返す言葉を探したが、行かないとは言い切れなかった。


 千紘の端末が震えた。神崎からではなく、見覚えのない番号から音声ファイルだけが届いている。彼女は送信者を確認し、片耳のイヤホンを外した。


「現地の人。神崎さんが、私に送るよう頼んだみたい」


 再生すると、最初に風が鳴った。


 山の中で録ったにしては近すぎる。マイクへ息を吹きかけたような音が続き、その奥で誰かが一度、短く呼んでいる。言葉は潰れ、名前なのか「おい」なのかも分からない。


 九秒目で、赤いロープが強く擦れた。


 そこでファイルは終わった。


「声、上からだったのか」


「分からない。風は右から入ってるのに、擦れた音は左と……たぶん、下にも返ってる」


 千紘はもう一度聞こうとして、再生位置を戻す指を止めた。


「現地で聞く」


 俺へ言ったのではなかった。イヤホンを耳へ戻し、自分のリュックから充電器を取り出している。


 父は何も言わず、物置側へ歩き出した。止める言葉が来ないことの方が落ち着かず、後を追うと、外ではガルが父の車の後部扉を鼻先で押していた。


「乗せろってことかな」


 直人が少し離れてしゃがむ。ガルが顔を向けると、すぐ両手を見える位置へ戻した。


「お前はどうする」


 父に聞かれ、直人は七号の台座を持ち上げた。答えるまでに、割れた側を二度見た。


「行かない。今のこれ持ってっても、荷物が一個増えるだけだし」


 軽く言ったが、台座を置く音は大きかった。


「代わりに店へ戻る。山用の帯と樹脂金具、使えるやつを探す。途中まで持っていくなら車を出すけど」


「俺が運転する」


 父が車の鍵を出した。


「行っていいとは言ってないぞ。在真、お前は座れ。三枝さんは家へ電話しろ。話はそれからだ」


 止めないのかと聞きかけた。父は後部座席から救急箱を引き出し、中身を一つずつ地面へ並べている。包帯、三角巾、消毒液。期限の切れた携帯カイロだけを脇へ投げた。


 言葉では何も変わっていない。それでも、車はもう山へ向かう形になっていた。


     ◇


 神崎が送ってきた地点へ着いた時、杉林の入口には救急車が二台と、泥で白くなった消防車が停まっていた。


 午後の日差しは残っているのに、斜面へ入ると急に冷えた。濡れた杉の匂いへ、切ったばかりの草と排気ガスが混じっている。規制線の内側では、赤いロープが写真と同じ角度で空へ伸びていた。


 先端は見えない。


 ロープの下に立つ隊員が、何度も首を上げている。そのたびヘルメットがずれ、顎紐を直していた。


「大月在真さんですね」


 東條の部下だと名乗った男が、俺たちの登録証を確認した。視線はガルへ移ったが、危険生物とも同行個体とも呼ばず、無線へ短く到着だけを伝える。


「神崎隊は二時間五十二分前に進入。四名です。最後の三十分、十五分ごとの定時連絡は二回とも受信できていません」


「四人の名前は」


「神崎さんと村瀬さん、地元消防の榊さん。それから雨宮灯さん。救急救命士です」


 父が俺より先に聞いた。


「入口までの退路は」


「直線で百二十メートル。でした」


 最後だけ声が落ちる。


 杉の幹へ固定されたロープは、途中から土を離れ、空へ上がっている。写真では十メートルほど先だったはずだが、今は五メートルもない。斜面に沿って張られた部分が、少しずつ持ち上がっていた。


 ガルが規制線の前で鼻を上げる。風ではなく、ロープの先を嗅いでいた。


「戻った人は」


 千紘が聞いた。


「いません。ですが、二分前に一度だけ張力が抜けました。誰かが固定を外した可能性があります」


 説明の途中で、赤いロープが軋んだ。


 周囲の隊員が一斉に手を伸ばす。誰も引いていないのに、ロープは空へ向かって張り直され、杉の根元に打ち込まれた金属杭が土の中で少し動いた。


 俺の足裏に残っていた痺れが、その音で戻った気がした。


「DとEでも入れるんですか」


「通常なら、ここで止めます。今回は対策班の個別承認が出ています。大月さんは迷宮核の回収経験、三枝さんは異常無線の解析記録を理由にした特例です」


「お二人は神崎隊と別の進入として記録します。中で会っても、向こうの指揮下へ入るわけではありません」


「その方がいいです」


 男は何か言いかけたが、赤いロープがもう一度鳴り、そちらへ顔を向けた。


「これ、誰かを吊ってる音じゃない」


 千紘がイヤホンを外した。ロープではなく、その下の地面へしゃがみ込む。


「土ごと引かれてる」


 ガルが規制線を越えた。


 隊員の一人が動いた時には、もう斜面を登っている。無理に速くは走らず、赤いロープの真下を避け、木の間を選んで進んだ。


「ガル!」


 今度は一度だけ振り向いた。


 止まる気はない。そのまま杉の陰へ消える。


 父が息を吐いた。


「行くなら、あいつを追うな。帰る道を先に見ろ」


「父さんは」


「外に残る。お前らが戻った時、ここまで逆さになってたら車をどこへ置く」


 返事をする前に、千紘が規制線をくぐった。自分の家へ電話したあと、母親から届いたらしい長いメッセージを、まだ開いていない。


「私は音を確かめる。神崎さんのためだけじゃない」


「止める気はない」


「まだ何も言ってない」


 少しだけ睨まれた。そこでようやく、さっきから俺が彼女も来ると決めつけていたことに気づく。


「ごめん」


 千紘は返事をせず、白いイヤホンの位置を直した。


 父から渡された山岳用の安全帯を腰へ巻き、自転車用のものから現場で貸された白いヘルメットへ替えた。白樫の短棒は左腰へ差し、右肩へ荷重が集まらないようリュックの紐を調整する。


 千紘も同じヘルメットへ替え、顎紐を引いている。俺たちの安全帯は、それぞれ別の赤い救助ロープへつないだ。ガルの分はない。


 入口は、杉が二本重なった間にあった。


 外から見ると、その先にも同じ山道が続いている。境目だけが水面のようにわずかに揺れ、越えた途端、排気ガスと人の声が背後へ落ちた。


 湿った土を踏む。


 杉林は変わらない。赤いロープも斜面の上へ続き、神崎たちの靴跡が四人分残っている。だが、頭上で鳴いていた鳥の声だけが、地面の下から聞こえた。


 千紘が足を止める。


「今の、下」


 答える前に、頬へ冷たいものが当たった。


 雨粒ではない。靴の横に落ちていた杉の葉が一枚、俺の顔を掠めて上へ昇っていく。もう一枚、その隣の小石まで土を離れた。


 腹が浮く。


 膝を曲げるより先に、リュックが頭上へ引かれた。腰の帯が食い込み、靴底から地面の感触が消える。


「掴んで!」


 千紘の声と、ロープへ手を伸ばしたのはほとんど同時だった。


 身体が斜面から剥がれた。


 土と杉の根が一気に遠ざかる。落ちているはずなのに、目の前では木の梢が近づいてきた。右側の枝へ肩を打ちそうになり、首を回した時にはもう避けられない。


 左手で白樫の棒を抜き、身体と枝の間へ入れた。


 棒が枝へ当たる。衝撃を逃がす余裕はなく、左手ごと弾かれた。安全帯につながったロープが腰を止め、身体だけが半回転する。


 千紘の白いスニーカーがすぐ上にあった。彼女も両手でロープを掴み、枝の間で揺れている。


 ガルはさらに先の太い幹へ爪を立てていた。後ろ脚が一度滑ったあと、枝の上ではなく、幹の側面へ身体を伏せる。


 さっきまで地面だったものが頭上にある。


 杉の根は黒い土へ食い込んだまま、その土ごと空を塞ぐ天井になっていた。下には枝が重なり、その隙間から、底の見えない白い靄が広がっている。


 赤いロープだけが、その中へ真っ直ぐ落ちていた。


 千紘が片手を離し、腰の金具を確かめる。俺も真似ようとして、右手がロープの向こうへ空を掴んだ。見えない側へ身体が傾き、帯が腹へ食い込む。


 息が止まった。


「在真、左に枝」


 声に合わせて左足を伸ばす。靴底へ樹皮が触れ、ようやく揺れが小さくなった。


 その枝の下から、人の声がした。


「動かないで。そのロープ、もう鳴らさないで」


 女が一人、太い枝の裏側へ膝をついていた。


 消防の上着ではない。紺色の救急服の袖を肘まで上げ、腕時計を手首の内側へ回している。隣には地元消防のものらしい橙色の服を着た男が横たわり、腿へ巻かれた止血帯の下から、細い根が何本も皮膚へ入り込んでいた。


 女の薄い手袋は血で濡れている。


 それでも俺たちではなく、赤いロープの先を見ていた。


「音に寄ってくる」


 白い靄の中で、枝ではないものがゆっくり曲がった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。