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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第九章 攻略者の国

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第四十三話 訓練区画

 三度目の音と同時に、黒い刃が通路から突き出した。


 父に引かれて左肩からよろめく。刃先は俺がいた場所まで届かず、通路の入口で青白い火花を散らして止まった。


 そこに壁は見えない。


 ゴブリンは刃を引き、今度は左手を前へ出した。青白い境目へ爪が触れた途端、指先から黒い砂が崩れる。痛みがあるのか、短い声を上げて腕を引っ込めた。


 ガルが低く唸ったまま、俺の前から動かない。傷へ当てていた布には赤が広がっている。前脚は境目の手前にあり、砂一粒分も越えていなかった。


「待って。向こうからは出られない」


 千紘が入口の左へ寄った。ゴブリンの動きではなく、刃が境目へ当たった音を聞いている。


「少なくとも今は。さっき、ここで音が切れた」


 俺も近づこうとすると、父の手が左腕を離さなかった。


「そこで見ろ」


「表示を止めないと」


「見える場所にあるんだろ」


「俺にしか見えない」


「なら口で言え」


 言い合っている間にも、ゴブリンは境目の向こうを左右へ歩いた。壁を一度叩き、返った音を待ってからこちらを見る。最初に倒した個体と同じ動きだった。


 視界の文字へ意識を戻す。さっきはなかった一行が、訓練記録の下へ増えていた。


――――――――――


訓練待機中


参加者:0

参加者が開始境界を越えるまで、再構成体は訓練区画外へ移動できません。


待機状態を解除しますか。


――――――――――


「まだ始まってない。こっちから入らなければ出てこない」


「それを先に出せよ」


 直人が父の背後から言った。


 解除を選ぶと、ゴブリンの身体が足元から崩れた。刃だけが少し長く残り、それも黒い砂へ戻って通路の奥へ引かれていく。乾いた風が止まったあとも、ガルはしばらく境目を睨んでいた。


 俺が背中へ触れようとした時だけ、肩を揺らして手を避ける。


「傷、また開いてる」


「見えてる」


「在真のじゃなくて、ガルの」


 千紘はガルへ近づかず、床へずれていた布を一枚置いた。ガルはすぐには取らなかった。


 父が俺の腕を離す。


「今日は終わりだ」


「入ってない」


「だから終われる」


 反論しようとしたが、右肩を上げるだけで止まったのを、さっき父にも見られている。直人は巻き尺を出さず、境目から自分の靴一足分だけ離れた床へ、樹脂の楔を置いた。


「次に来た時、ここから先が参加扱いになるか見る。今日は扉だけ測る。それならいいだろ」


 父は返事をしなかったが、直人が物置側へ戻るのは止めなかった。


 それから四週間、訓練区画には誰も入らなかった。


     ◇


 五月最後の日、祖父宅の外に置かれた橙色の柵には、白い数字で七と書かれていた。


 最初の物より台座が低くなり、布帯は二重になっている。道路側では同じ形の柵がもう六組使われ、警備員が交代するたび、一人でも動かせるかを確かめていた。


 直人は七組目を売る前に、第零迷宮へ持ち込んだ。


「売ってない。貸してるだけ。壊れたら店へ戻す条件だから、まだ売ってないのと同じ」


「金は」


「部品代だけ。親父が請求書を三回書き直してる。行政宛てって、店の名前の横に判子を押す場所が多いんだな」


 核保管室の床へ膝をつき、七と書いた樹脂の台座を開始境界の手前へ固定している。俺の方には、古い白樫の柄を削った短い棒を寄越した。


「鉈よりはましだろ。刃物じゃないし、折れたら薪にできる」


「縁起悪いこと言うな」


「折れないとは言ってない。そこ、大事だから」


 直人は笑わず、台座を両手で揺らした。


 俺の右肩は、頭の高さまでなら上がるようになっていた。医師から許されたのは軽い運動までで、ゴブリンと戦うことではない。聞いても許可されないので、訓練区画のことは話していなかった。


 頭には自転車用のヘルメット、両手には厚手の整備手袋をつけている。千紘も同じヘルメットと前腕のプロテクターを借りていたが、どれも転倒から守る物で、刃を受けるためには作られていない。


 父には知られている。


 開始境界の外で腕を組み、いつでも止められる位置にいる。その横ではガルが伏せていた。脇腹の布はもうなく、刈れなかった毛の間に太い傷跡が残っている。歩く時の崩れは減ったが、今日は最初から中へ入る気がないのか、鼻先を前脚へ載せたまま目だけを動かしていた。


 千紘が白いイヤホンを片耳へ入れる。直人が直した部分だけ被覆が一回り太く、耳の下で少し曲がっていた。


「高い音、戻った?」


「戻った。代わりに服へ擦れる音が大きい」


「それ、直すとまた低い方が消える」


「じゃあ今はこれでいい。訓練中に触らないで」


 千紘は試作七号から伸びる布帯を受け取り、開始境界の中へ一歩入った。俺も白樫の棒を左手へ持ち替えて続く。


 足裏へ冷たさが上がり、核保管室の広い床が狭い石の通路へ変わった。


――――――――――


訓練記録:

第零迷宮第一層・初期通路


参加者:

大月在真

三枝千紘


訓練を開始します。


――――――――――


 湿った石と黒い砂の匂いが戻ってきた。


 初めて入った朝と同じ曲がり角があり、外から差していたはずの光まで再現されている。けれど、振り向いても祖父宅側には父と直人、ガルが見えた。青白い境目を挟み、数歩しか離れていない。


 壁を叩く音がした。


 一回。


 少し間を置き、二回目。


 千紘が布帯を腰の高さへ張った。反対側は境目の外に置いた台座へつながっているが、直人は手を出さない。開始前に、引かない、押さえない、助けないと決めていた。


 曲がり角からゴブリンが半身を出す。


 姿は黒い砂でできているのに、目の位置だけが薄く濡れていた。俺と千紘、斜めに張られた橙色の帯を順に見る。見えていない獣のようには突っ込んでこない。


 俺は白樫の棒で左の壁を強く叩いた。


 ゴブリンの顔が音へ向き、右手の刃が少し上がる。それでも足は止まったまま、目だけがこちらへ戻った。


「前より、音へ釣られない」


「前も、ただ釣られたんじゃないと思う」


 最初に使ったのは、スマートフォンから突然流れた人の声だった。あの個体は見えている俺を忘れたのではなく、通路に現れた正体の分からない声を先に壊そうとした。


 そう考えると、今の動きの方がつながる。


 千紘が一度、帯を指で弾いた。ゴブリンがそちらを見る。今度は俺が床を擦ると、刃を上げたまま重心だけを変えた。


 音を選んでいる。


 低い喉声と同時に、ゴブリンが走った。


 帯の手前で速度を落とす。跳ぶのではなく、刃の背で橙色の布を叩いた。張り具合を確かめるような一撃だった。


「直人、これ――」


 千紘が言い終える前に、樹脂の爪から高い軋みが出た。


 彼女は帯を離した。


 直後、境目の外で留め具が割れた。二重の帯が床を走り、ゴブリンの足元を抜けて俺の右側へ飛ぶ。


 視界から消えた。


「右!」


 千紘の声に首を向ける。ゴブリンは帯を追わず、空いた場所からこちらへ踏み込んでいた。


 振り下ろされた刃を白樫の棒で受ける。


 左の掌から肘へ、硬い衝撃が突き抜けた。身体が右へ押され、治りかけた肩の奥で筋が引かれる。


 足元へ逃がす。


 《衝撃分散》へ意識を触れた瞬間、腕へ入っていた重さが胸の内側を斜めに抜け、両足へ落ちた。黒い砂が靴底の形に沈む。膝が曲がったが、肩はそれ以上持っていかれなかった。


 受け止めたわけではない。


 逃がした衝撃が足の裏で暴れ、踵から腰まで痺れている。次も同じ姿勢で使えば、立っていられない。


 ゴブリンが刃を引く。千紘は切れた帯を拾わず、俺の左後ろへ回って壁を二度叩いた。


 反響が右から返る。


 ゴブリンの目がそちらへ動いた一瞬に、左足で踏み込んだ。白樫の棒を横から振り、刃を持つ手首へ当てる。黒い指が開き、落ちた刃を千紘が靴で壁際へ蹴った。


 もう一度、今度は顎の下へ棒を突き上げる。


 頭が壁へ当たり、黒い砂へ崩れた。湿った目だけが床へ残り、遅れて形を失う。魔石も刃も残らなかった。


――――――――――


訓練を終了しました。


成長評価:対象外

理由:既知の記録


取得物:なし


――――――――――


 石の通路が薄れ、核保管室へ戻った。


 ステータスを開く。レベル十八、HP千六百。MPだけが二十減り、四百四十になっていた。少なくとも今の打撃は、HPを削る傷にはなっていない。整備手袋の内側で左の掌は熱を持ち、足裏の痺れも残っている。


「肩は」


 父が境目を越えずに聞いた。


「開いてない」


「それを確認するために受けたのか」


「スキルを試した」


「同じことだ」


 直人は会話へ入らず、割れた樹脂の爪を拾った。断面を親指で押し、ポケットから油性ペンを出して、台座に書いた七へ斜線を引く。


「荷重だけなら持った。刃の背で叩かれて、少し捻られた時に割れてる。これ、外で人を止める柵には使えるけど、迷宮内の足止めには出せない」


「もう外に六つあるけど」


「だから人間用。魔物を止めるって書いてない」


 言いながら、直人はスマートフォンを確認した。画面には店の投稿らしい橙色の柵と、問い合わせ件数の数字が見えた。


「写真、出したの?」


 千紘が聞く。


「柵としてな。まだ七号は出してない。六号の方は……まあ、問い合わせが来てるだけで、注文じゃない」


 最後だけ少し早口になった。


 俺のスマートフォンが、簡易倉庫へ置いた上着の中で震えた。核保管室では圏外になり、外へ戻った通知がまとめて届いている。


 神崎から着信が三件。


 かけ直すと、一度目の呼び出しでつながった。


『大月、今どこだ』


「家です。そっちは」


『県境の山。曲がったバールはまだ返せない。証拠保管が長引いてる』


「その話で三回かけたんですか」


 電話の向こうで、車の扉が閉まる音がした。少し遅れて、複数人が装備を確認する声が重なる。


『別件だ。山林火災の見回りに入った隊員が三人、四日前から戻ってない。昨日の夜、一度だけ無線が入った』


「何て」


『言葉は潰れてた。呼びかけだけだ。だが、上から聞こえた』


「中継器ですか」


『木より上に中継器を置いた覚えはない』


 神崎から写真が届いた。


 杉林の斜面に、赤い救助ロープが張られている。手前は地面へ固定されていたが、十メートルほど先で土を離れ、そのまま枝の間へ伸びていた。木へ引っかかった角度ではない。重いものを吊ったように真っ直ぐ、曇った空へ上がっている。


「入口は」


『見つけた。今、その前だ』


「入るんですか」


『昨日までは待った』


 それだけ答え、神崎は近くにいる誰かへ人数を確認した。電話越しでも、もう出発前の声だった。


『大月、お前は来るな。退院してすぐ迷宮へ戻った奴に言っても無駄かもしれんが、今度は救助の人数を増やしたくない』


「何で訓練してるって」


『東條さんから、施設が開いたとだけ聞いた。中身は聞いてない。位置と現場記録は送る。じゃあな』


 通話が切れた。


 千紘が俺の左から写真を見ている。何も言わず、自分のスマートフォンを出すと、神崎へ録音データを送ってほしいと打ち始めた。


 直人は割れた留め具を握ったまま、聞き返してこない。父だけが、俺の手からスマートフォンを取ろうとした。


「まず座れ」


「写真をもう一枚見る」


「座って見ろ」


 ガルが前脚から身体を起こした。二つの迷宮核ではなく、核保管室の右壁へ鼻先を向けている。


 地表接続概況に薄く浮かぶ日本列島。その中央部だけが、さっきまでなかった橙色へ変わっていた。


「それ、前からか」


 誰も答えなかった。

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