第四十一話 家の外
父の靴音が消えたあとも、点滴の管は引かれたままだった。千紘がベッドの柵へ引っかかった部分を外す。俺は半分まで浮かせた背中を枕へ戻したが、右肩の奥では心臓と同じ速さで痛みが打っていた。
「追いついても、車から降りられないよ」
「分かってる」
「今、起きようとしたけど」
「今は起きない」
二度目は自分でも声が低くなった。
千紘は言い返さず、点滴台から手を離した。東條は病室の隅で電話をかけている。最大三十二人と言った時より、口調が短い。
「山側へ向かった報道車二台。車両番号は現場から送らせます。追跡をやめさせてください。ガルへの接近も禁止で」
通話の向こうで何か聞かれ、東條は俺を見た。
「危険性は否定しません。負傷した大型生物を追っている時点で、事故の条件は揃っています」
電話が切れる。
「止まると思いますか」
「止まらない車がある前提で、先へ人を回します」
東條はそう答えたが、祖父宅までの細い道を知らない。県道から一本入れば、車同士がすれ違えない場所もある。警備車両を三十二人分並べれば、それだけで集落の道が塞がる。
俺のスマートフォンがまた震えた。母からだった。
『鍵は渡した。澄江さんにも電話したから。ガル、何食べるの? 水は水道のでいい?』
一つずつ返す前に、次が届く。
『お父さん、病院の駐車場から出た』
そのあとに、澄江さんから着信が入った。
「もしもし」
『起きてるね?』
「病院です」
『知ってるよ。あんたんとこの前、知らない車が二台止まってる。畑の入口まで踏んでるから、軽トラ出していい?』
「出してどうするんですか」
『邪魔なところへ置く』
電話の向こうでエンジンがかかった。
「警察も行くから、無理しないでください」
『あんたに言われたくないよ』
そこで切れた。千紘が少しだけ口元を動かしたが、笑わなかった。東條は別の電話へ切り替えながら、メモ用紙に小宮山澄江の名前を書いている。
「巻き込まないでください」
「もう現場にいます。排除対象にしないよう伝えるためです」
それなら、と返しかけてやめた。澄江さんが排除されないだけで、安全になるわけではない。
父から映像通話が来たのは、十五分ほどあとだった。千紘が端末を取って、画面を俺の左側へ固定する。最初に映ったのは車の天井で、次に父の顎、最後に朝靄の残る畑へ向きが変わった。
『着いた』
「ガルは」
『まだだ』
画面の奥で、軽トラックが畑の入口を斜めに塞いでいた。荷台には土のついた籠と青い収穫箱が積まれたままで、運転席の前に澄江さんが立っている。
その向こうに白いワゴン車と銀色の乗用車が止まり、カメラを持った人間が三人、道路の端へ散っていた。
『そこ、葱を植えたばっかりなんだけど』
澄江さんの声が、父のスマートフォンにも入った。
『道路から撮ってます』
『片足、畑に入ってるよ。葱と道路の区別もつかないの』
男が足元を見て、舗装の上へ戻る。その後ろで別の一人が祖父宅へカメラを向けた。
『大月さんですか。息子さんが攻略したという話は事実でしょうか』
『道を空けろ』
『黒い獣を飼っているんですよね。普段はどちらに』
『道を空けろと言ってる』
父は端末を持ったまま、白いワゴン車へ近づいた。画面が大きく揺れ、俺の傷まで一緒に引かれるような気がした。
「父さん、警察を待て」
『待ってる間に来る』
「車で塞がってるなら、ガルが横を抜ける」
『分かってる』
返し方が自分と同じだった。
道路の先から、犬の吠える声がした。近所で飼われている小型犬だ。高く続いた声が途中で止まり、そのあとに人の足音がいくつも重なる。報道の三人が一斉に振り向き、父のスマートフォンが山側を向く。
ガルが歩いてきた。
朝靄の中では輪郭が滲み、黒い毛だけが道路から浮いて見えた。頭を低くし、右の脇腹を庇うたび歩幅が崩れる。半分剥がれたガーゼは脚へ触れ、赤黒く濡れていた。
それでも立ち止まらない。
カメラの連写音が鳴った。ガルの前脚が止まり、首が上がる。唇の端から牙が見えた。
『撮るな。下がれ』
父が言った。
『危険なら、住民へ説明する必要が――』
『怪我してるから下がれと言ってる』
父はガルへ近づかず、道路の中央へ立った。ガルと報道の間を塞ぐ位置だった。
白いワゴン車の横から、長い棒についたマイクが伸びる。黒い毛の上へ影が落ちた瞬間、ガルの肩が沈んだ。
画面の外から澄江さんの鍬が出て、棒を下から押し上げた。
『それ、畑でも使わないよ。引っ込めな』
『危ないですよ』
『だから、あんたが引っ込めるんでしょ』
マイクが戻る。ガルは飛びかからなかったが、呼吸が速くなっていた。開いた脇腹から血が一筋落ち、道路へ丸い跡を作る。
俺の左手がシーツを掴んだ。包帯の内側で傷が擦れ、指を開こうとしてもすぐには戻らない。
「ガル」
スマートフォンの小さなスピーカーから、自分の声が流れた。
ガルの耳が動いた。けれど、こちらへ来るわけでも、画面を探すわけでもない。父の横から祖父宅を見て、そのまま道路の端へ一歩寄った。
『呼ばなくていい』
父が言った。
端末を石垣の上へ置く。画面は少し傾き、家の門柱と物置の屋根、道路に立つ父の背中が一緒に入った。
『こっちは開いてる。入りたきゃ入れ』
誰へともなく言い、父は門柱の前から離れた。
ガルはすぐには動かなかった。報道の車、軽トラック、澄江さん、父。順に匂いを取るように鼻先を動かし、最後に物置の方を向く。前脚を出した時、カメラの連写音がまた鳴ったが、今度は止まらなかった。
父の横を通る。その距離で、父も手を伸ばさなかった。
庭へ入ったガルは、以前と同じ物置脇の乾いた土まで歩き、前脚から身体を沈めた。横たわる直前に傷側を上へ向ける。剥がれたガーゼが地面へ落ちた。
『水』
父が振り返ると、澄江さんがもう軽トラックの荷台を開けていた。
『金属の桶はやめた方がいいんだろ。これ、漬物に使ってたやつ。洗ってあるから』
青いプラスチックのたらいを持ってくる。ガルから五歩ほど離れた場所へ置き、水道のホースを伸ばした。
『あたしは触らないよ。怖いし』
『それでいい』
『あんたも噛まれないでよ。息子と同じ病室は空いてないでしょ』
父は返さず、車から白いボトルと包帯の袋を出した。駅に来ていた獣医から受け取ったものらしい。
「父さん、最初は流すだけでいい。押さえようとするな」
『聞こえてる』
「首の近くへ手を出すなよ」
『お前は医者の言うことを聞け』
父が物置へ近づく。ガルの目が開き、喉の奥で低い音が鳴った。父は足を止めたが、戻らない。洗浄液の蓋だけを開け、傷へ届く手前の土へ少し流すと、薬品の匂いを拾ったのかガルの鼻が動いた。
『前にもやった』
父はガルではなく、スマートフォンへ言った。
『お前が入院してた時、水も肉も俺が置いた。食うところは見せなかったがな』
もう一歩だけ近づき、ボトルを傾ける。透明な液が黒い毛を伝い、固まった血を薄めた。ガルの牙は見えたままだった。
父の手が震えているのか、映像では分からない。二本目を使い切るまで、ガルは立たなかった。
処置用の厚い布を傷の横へ置くと、ガルが自分で身体をずらした。布の端が脇腹の下へ入る。父は巻こうとせず、その上から一度だけ手の甲で押した。
低い唸りが止まる。胸の奥に溜まっていた息が抜けた。安心したはずなのに、俺のいない場所で父の手を許したことへ、少しだけ置いていかれたような感じもした。
千紘が画面を見たまま言う。
「在真がいなくても、帰れるんだね」
「ああ」
今度は、それしか返せなかった。
道路の向こうから複数の車が近づいた。白と青の回転灯が朝靄を切り、東條の電話もほぼ同時に鳴る。
警察車両のあとへ、灰色の資材車が入ってきた。荷台の扉が開き、折り畳まれた金属柵と鎖が見える。
鎖の束が地面へ下ろされ、硬い音が連続して鳴った。
物置脇で伏せていたガルが跳ね起きた。父の手から白いボトルが落ち、傷へ当てた布がずれる。
画面の中で、黒い背が大きくなる。
「止めろ!」
俺と父の声が重なった。
東條はすでに電話へ向かっていた。
「資材を戻してください。金属柵は使いません。鎖も車内へ」
『ですが、危険生物の逸走防止が――』
「家の周りを囲う許可は取っていません。道路側の人員整理だけです。今すぐ戻して」
資材車の前で隊員が止まり、落とした鎖を拾う。もう一度金属音が鳴ると、ガルの喉から短い咆哮が出た。報道のカメラが一斉にそちらを向いた。
ガルは人間へ飛びかからなかった。
身を翻し、物置の木戸へ肩をぶつける。閉まっていた扉が内側へ開き、暗い工具棚の奥から青い光が漏れた。
『あれは何ですか!』
『ダンジョンの入口ですか!』
道路から声が飛ぶ。
父がスマートフォンを掴み上げた。画面いっぱいに作業着の袖が映り、次に物置へ走る足元へ変わる。
ガルは振り返らず、工具棚の奥へ入っていった。青い光が黒い尾を呑み込む。
『在真』
「追わなくていい」
『分かってる。木戸を閉める』
父の左手が木戸へかかる。閉じる直前、核保管室へ続く黒い床が一瞬だけ映った。
東條はそれを見ていたが、画面の保存には触れなかった。電話の向こうへ、警備線を道路の分岐まで下げるよう伝えている。
木戸が閉まる。
映像には古い板壁しか残らなかったが、外からはまだ、入口を見せろという声が続いていた。




