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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第九章 攻略者の国

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第四十話 誰が攻略者か

 目を開ける前から、右肩へ貼りついたものが増えているのが分かった。


 皮膚を引くテープ。腕の内側に入った点滴。指先を挟む硬い器具。一定の間隔で鳴る電子音だけが、地下のどの音にも似ていなかった。


 目を開けると、白い天井があった。


 右を見ようとして、枕の上で首だけが動く。誰もいないと思った直後、左側から椅子の脚が鳴った。


「起きた?」


 母だった。


 膝の上へ鞄を二つ載せ、片方から充電器のコードを引っ張り出している。足元には着替えの袋と、見覚えのある黒いゴミ袋が置かれていた。


「何時」


「五時過ぎ。痛い? 吐きそう? 水はまだ勝手に飲んだら駄目だって。先生呼ぶ?」


「平気。父さんは」


「廊下。消防の人と話してる。あんたの上着、あれもう捨てていいよね。お父さんは持って帰るって言うし、血だらけだし、肩のところ切られてるし」


 黒い袋の口から、父の古い上着の袖が少しだけ見えていた。


「捨てない」


「そう言うと思った」


 母は袋の口を結び直した。最初から捨てるつもりはなかったらしい。


 身体を起こそうとすると、左腿がシーツへ沈んだままついてこない。腹へ力を入れたところで、右脇腹のガーゼが皮膚を引いた。


 母の手が背中へ伸びるより先に、点滴台の向こうから看護師が入ってきた。


「起きなくていいです。縫い直したばかりなんで」


「肩だけですか」


「肩だけで済んでないです」


 掛け布団を少し下げられ、左手の包帯と脇腹の処置を順に確かめられる。肋骨に新しい骨折はなく、腹の中にも大きな出血はなかったらしい。ただ、開いた縫合部には迷宮の黒い砂が入り込み、洗浄に時間がかかったと言われた。


「退院は」


 看護師が体温計を脇へ差し込みながら、俺の顔を見た。


「先生が来たら、同じこと聞いてみます?」


「聞きます」


「じゃあ止めません。怒られるの私じゃないので」


 母が何か言いかけたが、先に体温計が鳴った。


 看護師は数値を見て、点滴の管を指で弾く。透明な滴がまた落ち始めた。その遅さを見ていると、転車台で止まった時計の秒針を思い出した。


「ガルは」


 母ではなく、開いた扉のところで父が答えた。


「駅にいる。獣医を呼んだが近づけない」


「捕まえようとした?」


「捕獲器具は片づけさせた。神崎がな。だが、傷を洗おうとすると牙を出す」


 父は病室へ入り、母の横へ立った。手には自動販売機の紙コップがあったが、口をつけた様子はない。


「美緒は」


「母親が迎えに来た。帰らないって揉めてたが、ガルが顔を背けたら諦めた」


 それなら、たぶん大丈夫だった。


 そう思いかけて、何が大丈夫なのか分からなくなる。ガルの脇腹は開いたままで、知らない人間と光に囲まれている。俺が今から駅へ戻れるわけでもない。


「俺のスマホ」


「預かってる」


 父がポケットから出した。受け取ろうとした左手は包帯で厚くなり、端末の縁をうまく挟めない。父は渡さず、ベッド横の台へ置いた。


「先に医者だ。そのあと話を聞きたい連中が来る」


「警察?」


「国だ」


 母が父を見上げた。


「今言う?」


「起きたら伝えろと言われてる」


「起きてすぐ全部できるって意味じゃないでしょ」


 二人の声が重なりかけたところで、廊下を走る靴音がした。病室の前で一度行き過ぎ、少しして戻ってくる。


 顔を出したのは千紘だった。


「こっちで合ってた」


 片手にスマートフォン、もう片方に透明な袋を持っている。病院の貸し出しらしい灰色のスウェットへ着替え、足元は左右同じ白いスリッパになっていた。


「靴は」


「両方、証拠品だって。片方は私のじゃないのに」


 言いながら母へ会釈し、父の横を通ってベッドの左側へ来る。俺の包帯より、点滴台の下に絡みかけた充電コードを先に足で避けた。


「寝てなくていいのか」


「それ、今そっちが言う?」


 千紘は椅子へ座らず、スマートフォンの画面をこちらへ向けた。録音ファイルが二つ並んでいる。


「最初の十秒と、最後の四秒。最後の方、入ってた」


「何の音だった」


「まだ分からない。看板が倒れた音とは違うと思う」


 再生される。


 風がマイクを擦り、近くで俺たちの靴が動く。その奥で、硬いものが長く引かれた。一度途切れ、もう一度。二回目の方が、ほんの少し近い。


 地下で聞いた列車や軌道喰らいの音とは違う。けれど、ただの崩落なら二度目だけ近づく理由がなかった。


「歩いてる?」


「そう聞こえる?」


「分からない」


「私も」


 千紘は巻き戻さなかった。スマートフォンを伏せ、透明な袋を俺の台へ置く。中には白いイヤホンが入っていた。片方の被覆が剥け、細い線が見えている。


「これも預けろって言われたけど、断った。写真と録音はコピーを渡す。原本まで持っていく理由はないでしょ」


 父が何か言おうとして、やめた。母は千紘と俺を見比べてから、空いた紙コップを片づけ始める。


 医師の診察は、そのあと十分ほどで終わった。


 少なくとも今日中はベッドから離れないこと。右肩は再縫合、左手は深い部分まで切れていないが、強く握らないこと。発熱と傷の変色があればすぐ知らせること。


 俺が退院日を聞くと、医師はカルテから顔を上げなかった。


「前回の退院日も守れなかった人と、先の予定は立てません」


 それで話は終わった。


 母は必要な物を買い足すと言って病室を出た。父は残った。千紘も事情聴取を別々に受ける予定だったが、録音の確認だけは同席したいと言い、椅子へ座った。


 六時前、紺色のスーツを着た女が一人で入ってきた。


 目の下に濃い隈があった。髪は後ろでまとめられているが、襟元から短い毛が何本も出ている。名刺入れを開き、まず父、それから千紘、最後に俺へ同じ名刺を置いた。


「東條彩芽です。国の迷宮災害対策班から来ました。十五分だけ許可をもらっています」


「十五分で終わりますか」


「終わらないので、今日は必要なことだけにします」


 東條はベッド脇の台へ薄いファイルを載せた。表紙には『久世駅地下事案・内部活動者記録』と印刷され、その下の「攻略者」という文字が二重線で消されている。


「ニュースの訂正ですか」


 千紘が聞いた。


「国から七人を攻略者と発表した事実はありません。現場無線の人数と、駅前の映像が先に出ました。個人名は止めていますが、呼び方までは止まっていません」


「美緒も入ってる」


「把握しています。本人と保護者への接触を制限するよう要請しました」


 東條はそこで説明を足さず、ファイルを開いた。七人の氏名が縦に並び、一番下に空欄が一つある。


「迷宮の活動停止に直接関わった人を確認しています。大月さんがボスを倒した、で合っていますか」


「合ってない」


「では、最後に攻撃したのは」


「俺とガルです」


「ガルというのは、黒い獣の呼称ですね」


「名前です」


 東條のペンが止まった。


「本人が、そう名乗ったんですか」


「違う。でも俺はそう呼んでる」


 父が紙コップを握り直す音がした。千紘は口を挟まず、東條の手元を見ている。


 東條は一番下の空欄へ「ガル」と書いた。その横の種別欄には、何も入れない。


「大月さんとガルが撃破した。ほかの六人は補助、という整理なら」


「それも違う」


 思ったより強く声が出て、右肩の奥が脈打った。


「音がなかったら核の位置は分からなかった。転車台も、俺とガルだけじゃ動かせない。高梨さんと美緒がいなかったら、途中で別の道を選んでた」


「分かりました」


「今ので?」


「一人の戦果として記録できないことは」


 東條は七人の氏名とガルを、一本の括弧でまとめた。横へ何か書きかけ、ペン先を上げる。


「呼称は保留します。ですが、活動と能力の記録は必要です。三枝さん、録音を複製させてもらえますか」


「コピーなら。端末とイヤホンは渡しません」


「それで構いません。村瀬さんの写真も同じ扱いにします」


 あまりにすぐ引いたので、千紘は返事をせず東條を見た。


 東條は次の用紙を出した。


「大月さん。迷宮核は、あなたの家の第零迷宮へ移った。そう聞いています」


「誰から」


「神崎さんです。見た事実と、推測を分けて話してくれました。あなたが何をしたかまでは聞いていません」


 どこまで言うか考えた時、左手がスマートフォンへ伸びた。包帯の厚みで持てなかったことを思い出し、途中で止める。


「核は第零迷宮にある。取り出せるかは分からない」


 嘘ではなかった。


「確認のために中へ入る許可をいただけますか」


「駄目だ」


「国へ所有権を移す話ではありません」


「入ってから決めるんだろ」


 口調が崩れた。


 東條は否定しなかった。父が紙コップを台へ置く。


「家の中も土地も在真の名義だ。外を固めるのは好きにしろ。中へ入れるかは、こいつが決める」


「その条件で構いません」


 父が東條を見る。今度は千紘も少し顔を上げた。


「本日中に、祖父宅の外周警備と近隣の通行整理を始めたいと考えています。中へ入らず、入口にも触れません。大月さんが退院してから、改めて範囲を決めます」


「何人」


「最初は最大三十二人です」


「多い」


「報道より先に入口の場所が広まれば、三十二人では足りません」


 東條は数字を引っ込めなかった。俺の返事を待つ間も、同意書をこちらへ押しつけてはこない。


「外だけなら」


「ありがとうございます」


「近所の家の前は塞がないでください」


「配置図を確認します」


 話を聞くと言いながら、決めることの方が多かった。


 東條が残り時間を確かめようと腕時計へ目を落とした時、俺のスマートフォンが震えた。


 神崎からだった。


 父が端末を取り、俺の左側から画面を見せる。写真には、投光器の端を歩くガルの後ろ姿が写っていた。脇腹のガーゼは半分剥がれ、駅前から山側へ続く道路を向いている。


『止めなかった。そっちへ戻ると思う』


 続けて、もう一通届いた。


『報道の車が二台ついていった』


 父が紙コップを潰した。


「車の鍵、母さんが持ってる」


 言いながら、もう病室の外へ向かっていた。


「俺も」


 起き上がろうとして、点滴の管が張った。身体より先にベッドの柵が鳴り、千紘が立ち上がる。


 父は振り返らなかった。


「お前はそこにいろ。家の外は、俺が決める」


 今までなら、その言い方だけで腹が立った。


 返す言葉を探している間に、父の靴音は廊下の向こうへ消えた。スマートフォンの画面には、道路を歩くガルと、その後ろへ落ちた小さな血の跡が残っていた。

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