第四十話 誰が攻略者か
目を開ける前から、右肩へ貼りついたものが増えているのが分かった。
皮膚を引くテープ。腕の内側に入った点滴。指先を挟む硬い器具。一定の間隔で鳴る電子音だけが、地下のどの音にも似ていなかった。
目を開けると、白い天井があった。
右を見ようとして、枕の上で首だけが動く。誰もいないと思った直後、左側から椅子の脚が鳴った。
「起きた?」
母だった。
膝の上へ鞄を二つ載せ、片方から充電器のコードを引っ張り出している。足元には着替えの袋と、見覚えのある黒いゴミ袋が置かれていた。
「何時」
「五時過ぎ。痛い? 吐きそう? 水はまだ勝手に飲んだら駄目だって。先生呼ぶ?」
「平気。父さんは」
「廊下。消防の人と話してる。あんたの上着、あれもう捨てていいよね。お父さんは持って帰るって言うし、血だらけだし、肩のところ切られてるし」
黒い袋の口から、父の古い上着の袖が少しだけ見えていた。
「捨てない」
「そう言うと思った」
母は袋の口を結び直した。最初から捨てるつもりはなかったらしい。
身体を起こそうとすると、左腿がシーツへ沈んだままついてこない。腹へ力を入れたところで、右脇腹のガーゼが皮膚を引いた。
母の手が背中へ伸びるより先に、点滴台の向こうから看護師が入ってきた。
「起きなくていいです。縫い直したばかりなんで」
「肩だけですか」
「肩だけで済んでないです」
掛け布団を少し下げられ、左手の包帯と脇腹の処置を順に確かめられる。肋骨に新しい骨折はなく、腹の中にも大きな出血はなかったらしい。ただ、開いた縫合部には迷宮の黒い砂が入り込み、洗浄に時間がかかったと言われた。
「退院は」
看護師が体温計を脇へ差し込みながら、俺の顔を見た。
「先生が来たら、同じこと聞いてみます?」
「聞きます」
「じゃあ止めません。怒られるの私じゃないので」
母が何か言いかけたが、先に体温計が鳴った。
看護師は数値を見て、点滴の管を指で弾く。透明な滴がまた落ち始めた。その遅さを見ていると、転車台で止まった時計の秒針を思い出した。
「ガルは」
母ではなく、開いた扉のところで父が答えた。
「駅にいる。獣医を呼んだが近づけない」
「捕まえようとした?」
「捕獲器具は片づけさせた。神崎がな。だが、傷を洗おうとすると牙を出す」
父は病室へ入り、母の横へ立った。手には自動販売機の紙コップがあったが、口をつけた様子はない。
「美緒は」
「母親が迎えに来た。帰らないって揉めてたが、ガルが顔を背けたら諦めた」
それなら、たぶん大丈夫だった。
そう思いかけて、何が大丈夫なのか分からなくなる。ガルの脇腹は開いたままで、知らない人間と光に囲まれている。俺が今から駅へ戻れるわけでもない。
「俺のスマホ」
「預かってる」
父がポケットから出した。受け取ろうとした左手は包帯で厚くなり、端末の縁をうまく挟めない。父は渡さず、ベッド横の台へ置いた。
「先に医者だ。そのあと話を聞きたい連中が来る」
「警察?」
「国だ」
母が父を見上げた。
「今言う?」
「起きたら伝えろと言われてる」
「起きてすぐ全部できるって意味じゃないでしょ」
二人の声が重なりかけたところで、廊下を走る靴音がした。病室の前で一度行き過ぎ、少しして戻ってくる。
顔を出したのは千紘だった。
「こっちで合ってた」
片手にスマートフォン、もう片方に透明な袋を持っている。病院の貸し出しらしい灰色のスウェットへ着替え、足元は左右同じ白いスリッパになっていた。
「靴は」
「両方、証拠品だって。片方は私のじゃないのに」
言いながら母へ会釈し、父の横を通ってベッドの左側へ来る。俺の包帯より、点滴台の下に絡みかけた充電コードを先に足で避けた。
「寝てなくていいのか」
「それ、今そっちが言う?」
千紘は椅子へ座らず、スマートフォンの画面をこちらへ向けた。録音ファイルが二つ並んでいる。
「最初の十秒と、最後の四秒。最後の方、入ってた」
「何の音だった」
「まだ分からない。看板が倒れた音とは違うと思う」
再生される。
風がマイクを擦り、近くで俺たちの靴が動く。その奥で、硬いものが長く引かれた。一度途切れ、もう一度。二回目の方が、ほんの少し近い。
地下で聞いた列車や軌道喰らいの音とは違う。けれど、ただの崩落なら二度目だけ近づく理由がなかった。
「歩いてる?」
「そう聞こえる?」
「分からない」
「私も」
千紘は巻き戻さなかった。スマートフォンを伏せ、透明な袋を俺の台へ置く。中には白いイヤホンが入っていた。片方の被覆が剥け、細い線が見えている。
「これも預けろって言われたけど、断った。写真と録音はコピーを渡す。原本まで持っていく理由はないでしょ」
父が何か言おうとして、やめた。母は千紘と俺を見比べてから、空いた紙コップを片づけ始める。
医師の診察は、そのあと十分ほどで終わった。
少なくとも今日中はベッドから離れないこと。右肩は再縫合、左手は深い部分まで切れていないが、強く握らないこと。発熱と傷の変色があればすぐ知らせること。
俺が退院日を聞くと、医師はカルテから顔を上げなかった。
「前回の退院日も守れなかった人と、先の予定は立てません」
それで話は終わった。
母は必要な物を買い足すと言って病室を出た。父は残った。千紘も事情聴取を別々に受ける予定だったが、録音の確認だけは同席したいと言い、椅子へ座った。
六時前、紺色のスーツを着た女が一人で入ってきた。
目の下に濃い隈があった。髪は後ろでまとめられているが、襟元から短い毛が何本も出ている。名刺入れを開き、まず父、それから千紘、最後に俺へ同じ名刺を置いた。
「東條彩芽です。国の迷宮災害対策班から来ました。十五分だけ許可をもらっています」
「十五分で終わりますか」
「終わらないので、今日は必要なことだけにします」
東條はベッド脇の台へ薄いファイルを載せた。表紙には『久世駅地下事案・内部活動者記録』と印刷され、その下の「攻略者」という文字が二重線で消されている。
「ニュースの訂正ですか」
千紘が聞いた。
「国から七人を攻略者と発表した事実はありません。現場無線の人数と、駅前の映像が先に出ました。個人名は止めていますが、呼び方までは止まっていません」
「美緒も入ってる」
「把握しています。本人と保護者への接触を制限するよう要請しました」
東條はそこで説明を足さず、ファイルを開いた。七人の氏名が縦に並び、一番下に空欄が一つある。
「迷宮の活動停止に直接関わった人を確認しています。大月さんがボスを倒した、で合っていますか」
「合ってない」
「では、最後に攻撃したのは」
「俺とガルです」
「ガルというのは、黒い獣の呼称ですね」
「名前です」
東條のペンが止まった。
「本人が、そう名乗ったんですか」
「違う。でも俺はそう呼んでる」
父が紙コップを握り直す音がした。千紘は口を挟まず、東條の手元を見ている。
東條は一番下の空欄へ「ガル」と書いた。その横の種別欄には、何も入れない。
「大月さんとガルが撃破した。ほかの六人は補助、という整理なら」
「それも違う」
思ったより強く声が出て、右肩の奥が脈打った。
「音がなかったら核の位置は分からなかった。転車台も、俺とガルだけじゃ動かせない。高梨さんと美緒がいなかったら、途中で別の道を選んでた」
「分かりました」
「今ので?」
「一人の戦果として記録できないことは」
東條は七人の氏名とガルを、一本の括弧でまとめた。横へ何か書きかけ、ペン先を上げる。
「呼称は保留します。ですが、活動と能力の記録は必要です。三枝さん、録音を複製させてもらえますか」
「コピーなら。端末とイヤホンは渡しません」
「それで構いません。村瀬さんの写真も同じ扱いにします」
あまりにすぐ引いたので、千紘は返事をせず東條を見た。
東條は次の用紙を出した。
「大月さん。迷宮核は、あなたの家の第零迷宮へ移った。そう聞いています」
「誰から」
「神崎さんです。見た事実と、推測を分けて話してくれました。あなたが何をしたかまでは聞いていません」
どこまで言うか考えた時、左手がスマートフォンへ伸びた。包帯の厚みで持てなかったことを思い出し、途中で止める。
「核は第零迷宮にある。取り出せるかは分からない」
嘘ではなかった。
「確認のために中へ入る許可をいただけますか」
「駄目だ」
「国へ所有権を移す話ではありません」
「入ってから決めるんだろ」
口調が崩れた。
東條は否定しなかった。父が紙コップを台へ置く。
「家の中も土地も在真の名義だ。外を固めるのは好きにしろ。中へ入れるかは、こいつが決める」
「その条件で構いません」
父が東條を見る。今度は千紘も少し顔を上げた。
「本日中に、祖父宅の外周警備と近隣の通行整理を始めたいと考えています。中へ入らず、入口にも触れません。大月さんが退院してから、改めて範囲を決めます」
「何人」
「最初は最大三十二人です」
「多い」
「報道より先に入口の場所が広まれば、三十二人では足りません」
東條は数字を引っ込めなかった。俺の返事を待つ間も、同意書をこちらへ押しつけてはこない。
「外だけなら」
「ありがとうございます」
「近所の家の前は塞がないでください」
「配置図を確認します」
話を聞くと言いながら、決めることの方が多かった。
東條が残り時間を確かめようと腕時計へ目を落とした時、俺のスマートフォンが震えた。
神崎からだった。
父が端末を取り、俺の左側から画面を見せる。写真には、投光器の端を歩くガルの後ろ姿が写っていた。脇腹のガーゼは半分剥がれ、駅前から山側へ続く道路を向いている。
『止めなかった。そっちへ戻ると思う』
続けて、もう一通届いた。
『報道の車が二台ついていった』
父が紙コップを潰した。
「車の鍵、母さんが持ってる」
言いながら、もう病室の外へ向かっていた。
「俺も」
起き上がろうとして、点滴の管が張った。身体より先にベッドの柵が鳴り、千紘が立ち上がる。
父は振り返らなかった。
「お前はそこにいろ。家の外は、俺が決める」
今までなら、その言い方だけで腹が立った。
返す言葉を探している間に、父の靴音は廊下の向こうへ消えた。スマートフォンの画面には、道路を歩くガルと、その後ろへ落ちた小さな血の跡が残っていた。




