第三十九話 こちら側の夜
向こうから吹く風は、雨の前のコンクリートと錆の匂いがした。崩れた久世駅。傾いた時計。雲の下に沈んだ町。
目の前にあるのは、境界一枚を隔てただけの外だった。なのに、足元の転車台には地下の冷気が残っている。背中側では誰かの荒い呼吸と、水の落ちる音がしていた。
左足が半歩、青白い境目へ近づいた。
父の上着を後ろから掴まれる。
「大月。見るだけは終わりだ」
神崎だった。
「地下に、何かある」
「ある。人かどうかは分からないけど」
千紘が片耳のイヤホンを外した。耳の後ろには汗で張りついた髪があり、頬から血の気が抜けている。
「南口の下。広いところが続いてる。さっき一度だけ、金属が擦れた」
「人がいるかもしれないの?」
美緒が聞いた。
千紘はすぐに答えなかった。白いコードを指へ巻き、もう一度ほどいてから向こうの階段を見る。
「分からない。声は聞こえない」
「だったら、確かめた方が」
「確かめるために、今は行かないんだよ」
担架の上から高梨が言った。顔は苦痛で歪んでいたが、声だけは妙に穏やかだった。
「歩ける人間が半分。まともに戦えそうなのは……ガルくらいか。ガルだって怪我してる。向こうで誰か倒れてても、俺たちまで倒れたら知らせる奴がいなくなる」
美緒は唇を噛んだ。俺も境界の先から目を離せなかった。
崩れた南階段の下に人がいるなら、数分の遅れがそのまま命に届くかもしれない。頭ではそう考えているのに、右肩から腕へ熱が垂れ、左脚は次に踏み出せるか分からなかった。息を吸うと、傷めた肋骨の辺りが浅く刺さる。
行けると思った。
そう思った直後、自分の身体がどれだけ傾いているのかに気づいた。神崎に上着を掴まれていなければ、進むより先に境界へ倒れ込んでいた。
「戻るぞ」
神崎は俺だけでなく全員へ言った。
「場所と状況は持ち帰る。装備と人員を揃えて、改めて確認する。それが一番早い」
村瀬が返事の代わりにスマートフォンを構えた。境界、崩れた駅舎、時計、南口。角度を変えて何枚か撮り、転車台の縁へ赤い救助用テープを貼る。青白い境目へ近づきすぎないよう、靴の爪先で床を確かめながらの作業だった。
「時計、動いてるな」
水野が呟いた。
向こうの時計は六時十二分を指している。秒針が一つ進み、少し遅れてまた動いた。
「柱は昔の久世駅です。でも南階段は今の位置にある。屋根は、どっちにもない形だ」
「戻ったら図面と照らせるか」
「駅に残っていれば。古い方は、会社にもあるかどうか」
水野は撮影中の村瀬へ近づき、崩れた改札の奥を指した。二人で短く確認し合う声は、俺の耳まで全部は届かなかった。
千紘もスマートフォンを境界へ向けていた。能力を使っている様子はない。ただ録音画面を開き、十秒ほど待って停止する。
その間も、ガルは境界へ背を向けたまま、首を低くして俺たちが来た青い扉を睨んでいた。脇腹から垂れた血が前脚の横へ落ちる。さっき美緒が置いたガーゼは、二歩離れた床に残っている。
美緒が拾おうとすると、ガルの尾が床を一度叩いた。
彼女は手を止めた。
「そこに置いとく。いらなかったら、いいから」
新しいガーゼを少しだけ近くへ滑らせる。ガルは美緒を見なかった。鼻先でガーゼを押し、しばらく匂いを嗅いだあと、前脚で自分の腹の下へ引き込んだ。
それだけだった。
美緒も笑わず、立ち上がった。
高梨の担架を神崎と村瀬が持ち上げる。水野が先に青い扉を確認し、千紘がその後ろについた。俺も歩こうとしたが、左膝がうまく伸びなかった。
「貸せ」
村瀬が持っていた曲がったバールを差し出してきた。
「担架は」
「水野さんが代わる。今のお前よりはな」
言い返す前に、水野が扉から戻って担架の前を受け取った。村瀬は俺の左へ立つ。
バールを受け取ると、掌の傷が柄へ張りついた。痛みより、これがなければ立っていられないことの方が腹立たしかった。
最後にもう一度、向こう側を見る。
時計は六時十三分になっていた。こちらでは、何時なのかも分からない。
青い扉を抜ける直前、背後で何かが鳴った。
千紘の親指が録音ボタンへ触れたのは、俺が振り返るより先だった。崩れた駅に動くものはない。風に押された看板か、それとも地下から響いたのか。
「今の」
「録れてると思う」
それ以上は言わず、千紘はスマートフォンをポケットへ入れた。
青い扉の向こうでは、洗車機に似た黒い骨組みが止まっていた。来た時には何本も絡みついていた黒い帯が、床の上で乾いた泥のように崩れている。俺たちが近づいても動かない。ガルが爪で一度掻くと、薄い破片になって散った。
通路の形まで変わっていた。壁に繰り返し現れていた同じ扉が消え、奥へ一本の保守通路が続いている。照明は半分以上落ちていたが、千紘が音を探さなくても上り階段の位置が見えた。
「帰す気になった、ってことですか」
水野が言った。
「気が変わる前に出よう」
村瀬が答えた。
誰も笑わなかったが、その程度の言葉を挟める空気は戻っていた。
階段では、一段上がるたび左腿が遅れた。バールを先へ置き、身体を引き上げる。右肩を庇えば脇腹が擦れ、脇腹を庇えば肋骨の奥で息が止まった。後ろからついてくるガルの足音も、時々一つ抜けた。
美緒は何度も振り返りかけ、そのたび前を向き直った。手を出せば嫌がると、もう分かっている。
古い車両置場を抜け、防衛室だった場所まで戻る。壁一面にあった黒い表示は消え、ひび割れたコンクリートだけが残っていた。そこで神崎の無線から、不意に声が漏れた。
『――崎隊、応答――こちら地上指揮――』
全員の足が止まった。神崎が担架を床へ下ろし、無線機を掴む。
「こちら神崎。聞こえる。久世駅地下、要救助者と合流済み。生存者七名、負傷者複数。大型の黒い獣が一頭、こちらに同行している」
『神崎隊、位置は。繰り返せ、現在位置は』
「正確な階層は不明。迷宮中枢と思われる区画を離脱し、地上方面へ移動中。迷宮の活動は停止した可能性が高い」
無線の向こうで、いくつもの声が重なった。神崎はガルを見てから続ける。
「黒い獣は協力個体だ。刺激するな。武器を向けるなと、全員に伝えてくれ」
一拍の空白があった。
『……了解。救助班を進入させる。現在時刻、二十三時四十八分』
五時間以上。
数字を聞いた途端、喉の渇きが戻ってきた。長かったのか短かったのかも分からない。向こうの時計との差を考えかけて、日付さえ分からないことに気づいた。千紘が壁へ手をついた。
「夜なんだ」
「らしいな」
自分で返した声がひどく遠かった。
救助班の足音は、その十分ほど後に聞こえた。最初はまた迷宮が音だけを寄越したのかと思った。けれど、階段の上から揺れる白い光が見え、泥に汚れたオレンジ色の服が一人ずつ下りてくる。
「神崎さん!」
先頭の隊員が駆け寄った。
それからは、人の手が一気に増えた。高梨の担架が引き継がれ、美緒には毛布が掛けられる。水野が人数と名前を答え、村瀬は曲がったバールを別の隊員へ渡した。千紘は座らされて初めて、自分の右足が大きなゴム長靴のままだと気づいたように見下ろした。
俺は壁から背中を離した。
「歩けます」
「その台詞は歩ける顔で言え」
神崎に肩ではなく胸を押され、運ばれてきた担架へ座らされた。
「ガルは」
「後ろにいる」
振り向くと、ガルは階段の暗がりで救助隊を睨んでいた。腹の下には、美緒が置いたガーゼが血を吸って貼りついている。隊員の一人が捕獲用の器具へ目をやった。
「出すな」
俺より先に村瀬が言った。
「そいつがいなかったら、ここにいる人間は半分になってる」
隊員は神崎を見た。神崎が頷くと、器具から手を離した。
ガルは誰にも礼を言わない。俺たちが階段を上り始めるまで待ち、最後尾からついてきた。
地上へ近づくほど、無線の声が増えた。知らない部署の名前。救急車の台数。駅周辺の沈降停止。家族確認。報道規制。どれも同じ夜の話なのに、迷宮の中より現実味がなかった。
最後の階段を越えると、冷たい風が顔へ当たった。
夜だった。
投光器に照らされた久世駅は、俺が入った時より深く沈んでいた。それでも駅前広場の亀裂は止まり、傾いた街灯もそれ以上は倒れていない。規制線の向こうに人が集まり、消防車と救急車の赤い光が、その顔を何度も塗り替えていた。
担架が外へ出た途端、声が膨らんだ。
「出てきた!」
「何人いる?」
「攻略したんですか! 久世駅のダンジョンを攻略したんですか!」
誰が叫んだのかは見えなかった。
攻略。
中で一度も使わなかった言葉だった。
父は救急車の手前にいた。規制線を越えたのか、最初から救助側にいたのか分からない。作業着の膝が泥で汚れ、片方の袖が肘まで捲れている。俺の顔を見て、足を止めた。
「右肩は」
「また開いた」
「そうか」
父はそれだけ言い、担架の横へついた。怒鳴られると思っていたので、何も続かない方が落ち着かなかった。
救急車へ乗せられる直前、父が後ろを見た。
ガルが駅の出口で立ち止まっている。
何人もの隊員が距離を空け、そのさらに向こうで美緒が毛布を肩に掛けたまま待っていた。ガルは人の輪へ入らず、かといって地下へ戻りもしなかった。
「あれも、お前と来たのか」
「ガルだ」
「名前を聞いたんじゃない」
「同じだ」
父はしばらく黙り、救命士が俺の担架を押すのに合わせて道を空けた。
車内で上着を切られ、右肩の処置が始まる。左手からスマートフォンを抜かれそうになり、反射的に握り込んだ。
「壊れても知りませんよ」
「一分だけ」
通信が戻った画面には、家族からの着信とメッセージが積み上がっていた。その上へ、見覚えのないニュースアプリの通知が滑り込む。
『久世駅迷宮が活動停止――七人の攻略者が生還』
七人の中には、美緒も、高梨も、水野も入っている。違うと思った。
何が違うのかを打つ前に、血のついた親指が画面の上を滑った。救命士にスマートフォンを取り上げられ、救急車の扉が閉まる。
外ではまだ、誰かが攻略者と呼んでいた。




