第三十八話 向こうの久世駅
ガルが車両の陰から出た。
軌道喰らいの歯は、潰れた運転席へ食い込んでいる。円形の歯列が鉄板を巻き込み、そのたび左へずれた赤い塊が内側の金具へぶつかった。
千紘が片耳を押さえる。
「三回です」
「何が」
「回って、三回当たったあとに止まる」
赤い塊が硬い音を立てた。
一度。
二度。
三度。
歯の回転が途切れる。
ガルが跳んだ。
「待て!」
止まるはずがない。
円い歯の間へ前脚を掛け、赤い塊へ噛みついた。
軌道喰らいの四輪が逆回転する。
黒い筋が車輪から線路へ走り、転車台が低く揺れた。ガルの身体が歯の内側へ引かれる。
腹に挟んでいた白い布が先に巻き込まれた。
半分外れていた圧迫帯も引かれる。
ガルが首を振ると、帯が脇腹から抜けた。濡れた毛の下へ開いた傷が見え、赤いものが床へ散った。
「ガル、放せ!」
前脚の爪が鉄板を滑る。
牙は外れない。
車両の窓にいた七人が、同時に両手を上げた。
背中から伸びていた黒い線が天井へ張る。潰れた車体が軋み、軌道喰らいの後部から伸びた鎖に引かれて少しずつ起き上がった。
「また来る」
千紘が言う。
「何秒だ」
「同じなら、三回」
村瀬が赤い円盤側から戻ってきた。
切れた足場を跨ぎ、バールを抱えたまま転車台の縁へ飛び降りる。
「神崎、持て!」
二人が線路へ入った。
軌道喰らいの横からバールを差し込み、円い歯と外枠の間へ先端を噛ませる。神崎が村瀬の後ろから柄を押さえた。
「三枝、止まる時を言え」
「今は動き始めです。次、当たります」
赤い塊が内側へ当たる。
バールが跳ね、村瀬の手袋が裂けた。
「一回」
神崎が足を滑らせる。
水野が後ろから防火服の帯を掴んだ。美緒も担架を離れかけ、高梨に腕を取られる。
「お前は来るな」
「でも」
「担架を動かせ。こっちへ倒れたら俺ごと下がれ」
美緒は唇を噛み、担架の持ち手へ戻った。
二度目の音が鳴る。
円い歯がさらに回り、ガルの頭が鉄板へぶつかった。
牙が赤い塊へ食い込む。
光は消えない。
「二回」
俺は転車台へ足を出した。
千紘が父の上着を掴む。
「何するの」
「あれを外す」
「どうやって」
「まだ分からない」
「分かってから行って」
三度目の音が鳴った。
「止まる!」
千紘の声で神崎と村瀬がバールへ体重を掛ける。
円い歯が止まった。
ガルの前脚が沈む。
今しかない。
千紘の手を外し、線路へ降りる。転車台が傾き、右足が思った場所より外へ着いた。
踏み直す。
ガルの身体は近いのに、赤い塊は歯列の奥にある。右側から回れば短い。見えない側へ頭を入れる気にはなれず、左から潰れた車両との隙間へ入った。
熱い鉄の匂いと、ガルの血の匂いが混じっている。
「大月、戻れ!」
神崎の声は聞こえた。
戻らなかった。
ガルが一度、鼻から息を吐く。
肩が沈み、前脚へ力が移った。
同じ呼吸を探す。
無理に合わせようとすると、右肩の痛みで息が浅くなった。ガルの方も脇腹を庇い、長く吸えていない。
揃ってはいない。
それでも、次に力を入れる場所だけは分かった。
《呼吸合わせ》がつながる。
頭の奥から何かが抜けた。
吐き気が上がり、視界の左端まで暗くなる。
MPを使い切った。
歯列の内側へ左手を入れる。
赤い塊には触れず、その周りを押さえている黒い輪を掴んだ。表面は濡れた革のように柔らかく、奥で細かく脈打っている。
回収執行体の首輪と似た感触だった。
切れるなら《断界》を使えた。
今はもう、MPがない。
「引くぞ」
ガルへ言ったのか、自分へ言ったのか分からない。
息を吐く。
ガルも首を引いた。
黒い輪が伸びる。
左手の皮膚へ食い込み、指が痺れた。
村瀬のバールが軋む。
「まだか!」
「もう一回、動きます!」
千紘が叫んだ。
黒い輪の奥に、四本の細い筋が見えた。それぞれが軌道喰らいの車輪へ続き、赤い塊が受けた衝撃を足元へ逃がしている。
ガルが後脚を踏ん張る。俺も輪を捻った。
一本目が切れ、転車台の右側へ衝撃が落ちた。外周の金具が弾ける。
二本目。軌道喰らいの後輪が浮く。
三本目が伸びたところで、円い歯が動き始めた。
「離れろ!」
村瀬がバールを手放した。柄が回転へ巻き込まれ、半分まで歯の間へ消える。ガルの牙が赤い塊から滑り、俺の左手も輪から離れない。
見えない右側から黒い鎖が来た。脇腹へ当たる直前、神崎が父の上着の背中を掴み、身体だけが後ろへ引かれる。輪へ残った左手の指が開きかけた。
ガルがもう一度噛み直す。
呼吸が重なり、最後の一本がちぎれた。赤い塊が歯の奥から抜け、ガルと一緒に転車台へ落ちる。
黒い鎖が俺の脇腹を掠めた。服の下で皮膚が焼け、息が止まる。神崎に引かれたまま線路へ背中から倒れた。
軌道喰らいの円い歯が空回りし、四輪から伸びていた黒い筋が、行き先をなくして身体の中へ戻っていく。前輪が潰れた車両へ衝突した。
今度は衝撃が逃げなかった。
平たい身体が中央から折れた。
円い歯列が外れ、転車台の黒い水へ転がる。後部の鎖は一斉に落ち、深緑の車両を引いていたものも動かなくなった。
ガルが赤い塊を床へ吐き出す。
まだ光っている。
軌道喰らいは動かなかった。
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ボス個体《軌道喰らい》を討伐しました。
沈降駅迷宮の流出進行が停止しました。
レベルが上がりました。
レベル:10 → 18
最大HP:1,000 → 1,480
最大MP:260 → 420
HP:170/1,480
MP:0/420
未配分能力値:400
スキルポイント:14
称号《黒狼の盟友》を取得しました。
称号《沈降駅踏破者》を取得しました。
――――――――――
村瀬が外れた歯列の下からバールを引き抜いた。
中央が浅く曲がっている。
「こいつはもう駄目だな」
そう言いながらも、捨てずに足元へ置いた。
数字が増えても、脇腹の熱さは消えない。
左手を床へつくと、指の付け根から血が出ていた。
「お前、本当に」
神崎が言いかけ、俺の腕を肩へ回した。
「説教は外でやる。立てるか」
「たぶん」
「それは立てないやつの返事だ」
身体を起こされる。
足には力が入った。増えた数字のせいか、神崎がほとんど持ち上げているのかは分からない。
ガルは赤い塊から離れ、脇腹を舐めようとして届かずにやめた。圧迫帯も白い布もなくなり、傷がむき出しになっている。
美緒が近づく。
今度のガルは牙を見せなかった。
触らせもしない。
美緒が二歩手前へ新しいガーゼを置くと、ガルはそれを見たまま伏せた。
「大月」
千紘が床からさっきのガーゼを拾っていた。
「これはもう使わない方がいいです」
「落としたのはそっちだろ」
「誰のせいで掴んだと思ってるの」
「俺」
「分かってるならいいです」
千紘の手は、まだ少し震えている。
「三枝は」
「何が」
「レベル」
千紘が一度だけ表示を開く。
「八。MPはゼロのままです」
「俺も」
「十八になってる人と一緒にしないで」
近くで、水野も見えない文字を追っていた。神崎は表示を確かめず、村瀬の裂けた手袋を外している。
「数えるのはあとだ。止血を先にする」
高梨が担架から言った。
「珍しくまともなことを言いますね」
「水野、お前はあとで覚えとけ」
水野は口を閉じたが、高梨はまだ何か言いたそうだった。美緒は担架の持ち手を握ったまま、ガルの方を見ている。
左から順に顔を数えた。七人目まで行っても、息はうまく抜けなかった。
床の赤い塊を見る。
光は弱くなっている。
近づくと、視界へ三つの名前が開いた。
――――――――――
沈降駅迷宮の迷宮核を確認しました。
継承候補:
《加速》
《軌道固定》
《衝撃分散》
選択できる能力は一つです。
選択しなかった能力は取得できません。
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加速へ意識を向けると、一度の踏み込みで短い距離を駆け抜ける感覚が返った。軌道固定なら、自分が通った経路を一時的な足場として残せる。
どちらも、さっきまでの俺にあれば使った。
最後に《衝撃分散》へ触れた。脇腹を掠めた鎖の熱より先に、軌道喰らいの身体を走っていた四本の黒い筋が浮かぶ。あれを潰したのは、車両の重さではない。
逃がす先をなくしたことだった。
俺は《衝撃分散》を選ぶ。
――――――――――
《衝撃分散》を選択しました。
《加速》《軌道固定》は取得できなくなります。
固有スキル《継承》Lv.2
継承能力《衝撃分散》Lv.1を取得しました。
《衝撃分散》Lv.1
身体へ受けた一度の衝撃を、接触している足場へ分散します。
消費MP:20
――――――――――
今はMPがない。
使えるようになっても、試す気にはならなかった。
未配分の能力値を開く。数字を追う間にも、神崎が俺の脇腹へ新しいガーゼを押し当て、村瀬が曲がったバールを足で引き寄せていた。
右目がないまま感覚だけを上げても、視界は戻らない。それでも音と足元を拾えなければ、ここでは何度も死んでいた。次も同じ傷で動けなくなるつもりはない。
筋力へ七十。耐久と敏捷へ百ずつ。器用と感覚へ五十ずつ振り、残りを精神へ入れた。
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能力値を配分しました。
筋力:130 → 200
耐久:180 → 280
敏捷:170 → 270
器用:110 → 160
感覚:80 → 130
精神:180 → 210
最大HP:1,480 → 1,600
最大MP:420 → 460
HP:170/1,600
MP:0/460
未配分能力値:0
スキルポイント:14
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身体の芯が重くなる。
傷はそのままだ。急に立てるほど回復もしない。
赤い迷宮核へ左手を触れる。
表面が脈打ち、指の傷へ熱が入った。
ガルが頭を上げる。
赤い光が青へ変わった。
塊の内側から輪がほどけ、細い線になって床へ沈む。
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沈降駅迷宮核を収容しました。
保有迷宮核:2
施設《訓練区画》を開放しました。
施設《素材保管》を開放しました。
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青い線が転車台の外周へ走った。
軌道喰らいの残骸が、端から黒い砂へ崩れていく。潰れた深緑の車両にも線が入り、窓に立っていた七人の像が一人ずつ薄くなった。
最後まで残ったのは、プロテクターを着けた俺だった。
胸へ置いていた手を下ろす。
口が動いた。
何を言ったのかは聞こえない。
車体と一緒に黒い砂へ沈んだ。
転車台が勝手に回り始める。
「円盤、誰も触ってないですよね」
水野が壁を見る。村瀬はもうこちら側にいる。
中央の線路は六本のどれにも合わず、その間で止まった。正面のコンクリート壁へ青い継ぎ目が走り、壁が左右へ開く。
向こう側から白い光が入ってきた。村瀬が曲がったバールを拾い直す。
夜の駅地下に差す色ではない。曇った昼の光だった。
一本のホームが、壁の先へ続いている。
線路は錆び、雑草が枕木の間から伸びていた。割れた屋根の向こうに灰色の空が見える。
ホームの看板には、ひらがなで「くぜ」と残っている。
「久世駅……?」
美緒が読んだ。
水野が担架から離れ、開いた壁の手前まで進む。
「同じじゃない」
「何が」
「柱が古い。改装する前の配置です。でも、あの階段は今の南口と同じ場所にある」
千紘も俺の横へ来た。
右足の大きな長靴が、青い継ぎ目の手前で止まる。
「外、見えます」
崩れた改札の先に、駅前通りがあった。
こちらの久世駅にもある時計塔が、途中から折れている。商店の並びも同じだった。屋根が落ち、看板の文字が剥がれ、道路には錆びた車が何台も止まっている。
人は見えない。ホームの時計だけが動き、針は六時十二分を指している。
ガルが立ち上がった。傷を庇いながら継ぎ目へ近づき、向こうから来る風の匂いを嗅ぐ。
一歩も入らなかった。
低い声で唸り、俺たちの方へ戻ってきた。向こうにあるのも、久世駅だった。
ただ、俺たちが帰る駅ではなかった。
千紘が片耳へ手を当てる。
「向こうにも、地下があります」
千紘は崩れた南口階段を見ていた。
俺には、そこから吹いてくる風の音しか聞こえなかった。




