第三十七話 転車台
深緑の車両は速度を落とさない。
正面の線路と転車台の間には、黒い水の溜まった隙間がある。中央の短い線路は斜めを向き、片方のレールしか合っていなかった。
「このまま来たら落ちます」
水野が操作箱を離れ、円の縁へ寄る。
「止めるものは」
「信号も車止めも動いてません」
「じゃあ合わせろ」
高梨が担架から言った。
「だから電源が」
「手動があるんだろ」
壁の赤い円盤まで、錆びた足場が伸びている。
途中で一枚なくなっていた。下には転車台の歯と黒い水が見える。
村瀬がバールを持ったまま足場へ向かった。
「俺が行く」
「村瀬さん、あれが何の円盤か分かるんですか」
「回して違ったら戻る」
「戻る時間ないですよ」
水野もついていく。
先頭の灯りが大きくなる。レールの継ぎ目を踏む音が、もう一つずつ聞き分けられた。
車内の七人は動かない。
全員が窓の前に立ち、こちらを向いている。
「大月さん」
美緒が俺の左袖を引いた。
「あっち、まだ着てます」
車内にいる俺の胸には、灰色のプロテクターが残っていた。
隣の千紘も、白いイヤホンを両耳へ入れている。高梨の像は上着を着たまま、怪我などしていないように立っていた。
今の俺たちではない。
洗浄線へ入った時の姿でもなかった。
「いつのだ」
「分かりません。でも、今の真似じゃないです」
美緒が答える前に、転車台の縁で金属が鳴った。
神崎が太い固定金具へ靴底を当てている。蹴っても抜けず、村瀬がバールの平たい先を差し込んだ。
「水野、円盤を見ろ。俺はこっちを外す」
「足場が切れてます」
「見えてる」
村瀬がバールを押し下げると、固定金具が錆を落とし、指一本分だけ浮いた。神崎がその隙間へ両手を入れようとする。
「挟みますよ」
「分かってる。もう一度」
二人が動くたび、金具は少しずつ上がった。
俺も行こうとして、右肩へ当てたガーゼがずれた。
「そのまま押さえてろ」
神崎はこっちを見なかった。
「手が足りてないだろ」
「怪我人の手まで数えるな」
腹が立った。
膝が一度揺れ、それ以上言えなくなる。
千紘が俺の左手ごとガーゼを押さえた。
「離して」
「何で」
「私が持つから」
左手を抜くと、千紘の手が上着の上から右肩へ残った。押さえ方が少し強く、縫った場所が脈に合わせて痛む。
「痛い」
「押さえてるんだから、少しは痛いでしょ」
「少しじゃない」
「じゃあ動かないで」
言いながら、千紘は車両へ顔を向けている。
固定金具が抜けた。
転車台の外周が低く軋む。
「一か所でいいのか」
神崎が聞く。
「反対にもあります。ただ、全部外してたら間に合いません」
水野は赤い円盤へ続く足場へ片足を載せた。
「あれを回して、動くか試します」
「俺が行く」
村瀬が先へ出る。
足場の切れ目で止まり、バールを向こう側へ渡した。先端を手すりの根元へ掛け、体重を預ける。
錆びた手すりが曲がった。
「村瀬さん」
「静かにしろ。音が分からん」
村瀬はバールを戻し、切れ目を跨いだ。
右足を着いた鉄板が沈む。
一度しゃがんだが、落ちなかった。
赤い円盤へたどり着き、両手で掴む。
動かない。
「逆じゃないですか」
「どっちだ」
「表示が錆びてて読めません」
「役に立たんな」
「すみませんね」
村瀬が円盤を反対へ引いた。
壁の中で鎖が跳ねる。
転車台が数センチだけ動き、すぐに止まった。
反対側の固定金具が床へ食い込んでいる。
車両の先頭は、もう暗がりを抜けていた。
「次の金具は」
神崎がライトを振る。
円の向こう側に太い金具が見えた。ここから走っても間に合わない。
村瀬が赤い円盤をさらに回す。
鎖が張った。
外れなかった固定金具の周りで、コンクリートに亀裂が入る。
「壊す気ですか!」
「止めるなら言え!」
水野は列車と金具を見比べた。
「そのまま!」
村瀬が肩を入れると、円盤が半周した。固定金具が床ごと傾き、転車台の歯から外れる。
中央の短い線路が動き始める。
遅い。
深緑の車両が迫る。
「あと少し右!」
水野が叫ぶ。
「俺から見てか、お前から見てか!」
「村瀬さんから見て右です!」
「先に言え!」
線路が重なる。完全には合っていない。
片方のレールが親指ほどずれたまま車両の前輪が入り、車体が大きく傾いた。それでも窓の中の七人は倒れない。黒い線がそれぞれの背中から座席へ伸び、立った形のまま引き止めている。
車輪がレールの縁を削り、転車台全体が衝撃で回った。俺の足元が横へずれる。
千紘がガーゼから手を離し、俺の左腕へ掴まる。右肩の傷が開く感覚はなかったが、急に軽くなった布が床へ落ちた。
深緑の車両は転車台の中央まで入り、そこで止まった。
後ろ半分は正面の線路へ残っている。
「乗ったぞ!」
村瀬が赤い円盤へぶら下がったまま言う。
「そのまま回せますか」
「軽くはなった。どこへ向ける」
水野が六本の線路を見る。
神崎は青い扉を見ていた。
扉の中央が膨らんでいる。
「あいつの方へ合わせろ」
「神崎さん」
「線の上しか来られないなら、道をこっちで決める」
中央の車両を、軌道喰らいへ向ける。
逃げ道にはならない。
それでも、車両一両分の鉄が間へ入る。
村瀬が円盤を回した。
転車台が深緑の車両を載せたまま動く。後輪が正面線から外れ、車体が丸ごと円の中へ収まった。
窓の七人も一緒に回る。
俺の像だけが、途中で顔を動かした。
車両が回った方向とは逆へ。
青い扉を見ている。
「今、あれ」
美緒も気づいていた。
「見てましたよね」
「俺たちをじゃない」
車内の俺は、プロテクターの残った胸へ手を置いた。
その隣で千紘の像が両耳のイヤホンを外す。
今ここにいる千紘は、俺の左腕を掴んだままだった。
「動いてる」
千紘の声が近くで震えた。
七人の像が一人ずつ青い扉へ向き直る。
中央の線路が扉の前と重なった。
「止めろ!」
村瀬が円盤から手を離す。
転車台はすぐには止まらず、少し行き過ぎた。水野と神崎が縁へ寄り、外れた固定金具を歯の間へ押し込む。
大きな歯が金具を噛んだ。
中央の線路が固定される。
青い扉の向こうで、硬い音が一度鳴った。
「来ます」
千紘が言った。
ガルが担架の横から離れる。
白い布は腹の下に挟んだままだ。低くなった身体で、車両の陰へ移った。
「ガル、そっちは線の正面だ」
耳だけがこっちへ動く。戻らない。
青い扉が破れ、円い歯が鉄板を内側へ巻き込んだ。軌道喰らいの赤い光が穴を通る。
黒い帯が転車台へ伸び、中央の線路と重なった。軌道喰らいは迷わず、その上へ乗る。
深緑の車両にいる七人が、同時に一歩前へ出た。黒い鎖が軌道喰らいの後部から飛び、車両の連結器へ絡みつく。
「下がれ!」
神崎が美緒と担架を円の外へ押す。
俺も千紘を連れて離れた。
ガルだけが車両の陰に残っている。
軌道喰らいの歯が止まった。
突進の前だ。
「ガル!」
黒い身体が伏せる。
逃げる姿勢ではない。
軌道喰らいが走り、深緑の車両へ正面からぶつかった。車体の前半分が潰れ、窓がまとめて砕ける。
衝撃が転車台へ落ち、外周の歯が三つ飛んで黒い水へ沈んだ。それでも軌道喰らいの身体は潰れない。四つの車輪から黒い筋が走り、中央の線路と転車台へ衝撃を逃がしている。
赤い塊が歯の奥で激しく揺れた。
「音、ずれた」
千紘が俺の腕を放す。
「奥じゃない。左に落ちてます」
軌道喰らいの歯が、潰れた車体へ食い込む。
もう一度、赤い塊が見えた。
歯の中心から外れ、内側の金具へ半分だけ引っかかっている。
車両の陰で、ガルが立ち上がった。
赤いものを見ていた。




