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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第八章 軌道喰らい

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第三十六話 洗浄停止

 扉の下から伸びた黒い帯が水に打たれて浮き、排水溝へ流されかけて途中で止まった。


 鉄を削る音が一段近くなる。軌道喰らいが扉の外側を食っている。


「水、弱くなってません?」


 美緒が操作盤の計器を見ていた。


 三つ並んだ針のうち、右端だけがゆっくり下がっている。数字の横に洗浄水槽と書かれていた。


「使った分だけ減ってる」


 水野が洗浄開始のボタンをもう一度押す。針は戻らない。


「止めた方がいいですか」


「止めたら線が来る」


「でも、このままでもなくなる」


 水野の指がボタンの上で止まった。


 高梨は担架に横になったまま、操作室の天井を見ている。痛みを堪える時に閉じていた口が、少しだけ開いた。


「裏へ逃げる扉は」


「奥にあります。階段じゃなくて通路です」


「なら先に開けとけ。水が切れてから全員で慌てるよりましだ」


 水野が奥へ走る。


 美緒もついていきかけ、途中でガルを見た。


 ガルは壁際に立っている。半分外れた圧迫帯が腹の下へ垂れ、床へ赤い雫を落としていた。


「これ、使える?」


 美緒が操作盤の下から白い布の束を出す。油を拭くための作業布らしく、厚さはあるが清潔かは分からない。


「今は巻くな。汚れが入る」


 村瀬が言った。


 美緒は布を戻さず、ガルから少し離れた床へ置いた。


「押さえるだけなら?」


「噛まれなければな」


 ガルが村瀬へ牙を見せる。


「ほらな」


「村瀬さんにだけじゃない?」


「試してみるか」


「今はやめます」


 美緒は布を置いたまま、高梨のところへ戻った。


 ガルはすぐには動かなかった。


 扉の向こうで円い歯が回る。


 削られた鉄が赤くなり、下の隙間から細かな火花が入ってきた。黒い帯は水に剥がされ続けているが、扉そのものが薄くなっている。


 右端の計器は半分を切った。


「大月、肩」


 神崎が近づく。


「今はいい」


「聞いてない。見せろ」


 父の上着へ触れようとした手を避ける。


「開いたままです。押さえても、ここじゃ縫えない」


「だからって減らすな」


 神崎は自分の腰の袋からガーゼを出し、俺へ押しつけた。


「左で持て」


 受け取り、上着の上から右肩へ当てる。片手が塞がると壁から離れられない。


 動けるものがまた一つ減った。


 操作室の奥で、重い扉が開く音がした。


「通路、行けます!」


 水野の声が返る。


 神崎は高梨の担架へ向かった。村瀬は一度ガルを見たが、呼ばずに足側へ回る。


 美緒が担架の横につく。


「ガルは?」


「自分で来る」


 俺が答えると、美緒は壁際の白い布を見た。


 布はなくなっていた。


 ガルが腹の下へ押し込んでいる。巻かず、自分の体重で傷へ当てていた。


「使ってる」


「見れば分かる」


 ガルは俺たちを見ない。


 担架が奥の通路へ入る。千紘はその場に残り、鉄扉へ片耳を向けていた。


「三枝」


「あと少し」


「何が」


「食べる時だけ、奥の音が出るんです」


 鉄を噛む音の隙間に、硬いものが一度だけ鳴った。


 円い歯とは違う。


 小さく、厚い音だった。


「赤いところか」


「色は分からない。でも、歯の奥です。動く時は聞こえない」


 扉の中央が内側へ膨らんだ。


 水が当たり、熱い金属から白い蒸気が上がる。


 膨らんだところに亀裂が入った。


「もう行け」


 千紘の前へ身体を入れる。


「大月が先」


「ガーゼで手が塞がってる」


「それ、先に行く理由でしょ」


 千紘は動かない。


 言い返している時間の方が無駄だった。壁へ左肩をつけ、奥の通路へ入る。


 狭い通路だった。


 片側に太い水道管が並び、反対側はコンクリートの壁になっている。担架は斜めにしなくても通るが、人が横へ並ぶ余裕はない。


 前では水野が青い扉を押さえ、美緒と担架を通していた。


 神崎が最後尾へ戻ってくる。


「ガル」


 操作室へ呼びかける。


 返事はない。


 代わりにガルが白い布を腹へ挟んだまま通路へ入った。俺たちの間を抜け、担架の後ろまで自分で進む。


 千紘も続いた。


 洗浄水槽の計器が赤い線へ入る。


 水野が操作盤まで戻ろうとした。


「もういい」


 高梨が通路の奥から言う。


「止めたら、すぐ来ます」


「戻ったらお前が残る。押すな」


 水野は二歩戻り、そこで止まった。洗浄開始の表示が消え、水音が弱くなる。最後の噴出口が止まると、操作室に残った水だけが排水溝へ流れた。


 扉の下へ黒い帯が貼りつく。一息遅れて、円い歯が鉄板を破った。


 赤い光が穴の向こうに見えた。歯の奥で、握り拳ほどの赤い塊が回っている。


 光だけじゃない。


 何かがある。


「見えた」


「閉めろ!」


 神崎と水野が奥の青い扉を引く。


 軌道喰らいが操作室へ入るより先に、扉が閉まった。水野が反対側のハンドルを回し、金具を噛ませる。


 すぐに衝撃が来た。


 青い扉が揺れ、天井から埃が落ちる。


 千紘が耳を押さえた。


「まだ食べてません。ぶつかっただけ」


「どっちでも長くはもたない」


 村瀬が担架を下ろす。


 通路の先は円い空間へ出ていた。


 床が大きな輪になり、その中央に短い線路が一本載っている。周囲には放射状に六本の線路が伸びていたが、中央の線路はどことも合っていない。


 車両の向きを変える転車台だった。


「これ、動けば線を切れます」


 水野が円の端にある操作箱を見つける。蓋を上げ、レバーを動かした。


 反応はない。


「電源が落ちてる」


「手動は」


「たぶん中央です」


 転車台の真ん中に、小さな操作小屋がある。


 そこへ渡る橋は上がったままだった。


 円形の穴には黒い水が溜まり、深さが分からない。


 村瀬が円の縁へライトを向ける。転車台の外周には大きな歯が並び、ところどころに固定用らしい太い金具が入っていた。


「中央まで行ければ、手で外せるか」


「固定は外せると思います。でも、回す方は」


 水野が操作箱の中を照らす。切れた配線のほかに、錆びた鎖が一本、床下へ続いていた。


「鎖が生きてれば、どこかに手動ハンドルがあります」


「どこかって」


「今探してます」


 高梨が担架の上から円の左側を指した。


「あの壁。赤い丸があるだろ」


 汚れた壁に、半分埋まった円盤が見えた。転車台からは離れているが、作業用の細い足場が途中まで続いている。


「届く前に扉が開くな」


 村瀬が青い扉を振り返った。


 青い扉の向こうで、歯が鉄を噛み始めた。


 千紘が転車台へ顔を向ける。


「前からも音がします」


「何の」


「列車」


 六本ある線路のうち、正面の暗い穴へ白い光が浮かんだ。深緑の旧型車両が戻ってくる。


 運転席には誰もいない。先頭の窓には、俺たちと同じ七人が立っていた。


 車両は転車台へ向かっていた。

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