第三十五話 軌道喰らい
黒い二本の帯が分岐器を越え、洗浄線のレールへ重なった。ガルの前まで伸びても、ガルは退かなかった。
脇腹から落ちた血が、低い溝の床へ一滴ずつ続いている。裂けた片耳を前へ向け、円い歯を開いた黒いものを見ていた。
「ガル、上がれ!」
俺の声にも動かない。
赤い光が強くなった。
視界へ白い文字が浮かぶ。
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沈降駅迷宮・車両解体区画のボス領域へ侵入しました。
ボス個体《軌道喰らい》を確認しました。
対象情報
種族ランク:非該当
個体分類:ボス個体
レベル:32
HP:15,000/15,000
MP:1,100/1,100
筋力:1,400
耐久:1,800
敏捷:900
器用:600
感覚:800
精神:1,000
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俺の最大HPは千。向こうは一万五千ある。だが円い歯の奥の赤い光も、黒い帯の仕組みも、数字には出ていない。
名前が消える前に、線路を削る音が止まった。
「音が止まりました」
千紘が言う。
静かになったわけではない。解体機械の回転音も、裂かれた銀色車両の軋みも続いている。
それでも、軌道喰らいの円い歯だけが止まっていた。
ガルが横へ跳ぶ。直後、黒い身体が前へ出た。
四つの車輪が黒い帯を噛み、低い溝を飛び越える。さっきまでガルがいた場所を円い歯が通り、床へ残った血ごとコンクリートを削った。
逃げただけには見えなかった。軌道喰らいが帯から外れられないか、自分で試していたのかもしれない。
黒い帯は洗浄線に沿って真っ直ぐ続いている。ガルが横へ避けても、軌道喰らいはすぐには向きを変えなかった。
「あいつ、線の上しか来ない」
「浅いところの個体と同じか」
村瀬がバールを構える。
「たぶん。でも自分で線を作ります」
千紘の返事と重なるように、軌道喰らいの後部から別の黒線が伸びた。
細い線ではない。
平たい輪をつないだ鎖が二本、作業台へ飛んでくる。
「下がれ!」
神崎が担架の前へ出た。
一方の鎖が柵へ巻きつき、もう一方が床に落ちていた金属片を引く。銀色の板が作業台を滑り、美緒の足元へ向かった。
美緒は高梨の担架へ寄るのでなく、青い扉の方へ走った。
「こっち、開きます!」
取っ手を両手で下げる。扉は重かったが、内側へ少し動いた。
水野がその隙間へ身体を入れる。
「押すよ。せーの、じゃなくて今!」
美緒と二人で押し、扉を人一人分まで開いた。
神崎はそちらを見てから、担架の頭側を持ち上げる。村瀬が足側へ回った。
「水野、中を見ろ」
「見ながら開けてます!」
「ならそのまま行け」
担架が青い扉へ動く。
俺は美緒の足元へ滑ってきた金属板を左足で踏んだ。止まらない。靴ごと持っていかれ、膝が崩れそうになる。
村瀬のバールが板と床の間へ入った。
「足をどけろ」
踵を上げる。
村瀬がバールを捻ると、金属板が横へ立った。引いていた黒鎖が外れ、柵へぶつかる。
「もう一本!」
千紘が作業台の奥を指した。右から来ていた。
顔を向けた時には、鎖が借用プロテクターへ触れ、外れた留め具へ平たい輪が入っていた。右肩ではなく胸の前が強く引かれ、作業台の端まで一歩で持っていかれる。
「大月!」
左腕を誰かに掴まれる。千紘だった。
足を止められない。千紘の右足の長靴も床を滑り、二人まとめて柵へ近づく。
バールは村瀬の手にある。
《断界》には届かない。
左手で胸元の固定帯を探る。外れた留め具の下に指が入った。
神崎が戻ってきた。
固定帯へ救助ナイフを当てようとする。
「切るな。端だけ外せる」
「早くやれ」
留め具を押し込む。一度目は指が滑り、鎖が引かれて右肩の縫合部へ熱が走った。
二度目で爪がかかり、固定帯が外れた。
借用プロテクターだけが胸から抜け、黒鎖に引かれていく。軌道喰らいの後部へぶつかり、黒い帯の上を跳ねた。
千紘と一緒に床へ倒れる。
プロテクターを失うと、上半身を守るのは父の古い上着だけになった。右肩の血を止めているものまで、急に軽くなった気がした。
「立てる?」
「先に立て」
「一緒に倒れたんだけど」
千紘は言い返しながら左膝をついた。俺も壁へ手をつき、身体を起こす。
軌道喰らいが向きを変え始めていた。
前の円い歯で洗浄線のレールを噛み、身体の後ろへ新しい黒い帯を吐く。曲がった帯が、作業台と平行に伸びていく。
逃げたガルの方ではない。
青い扉へ向かっている。
「こっちの位置、分かってます」
千紘が息を切らす。
「赤いのがこっち向いてた」
「目かどうかは後だ」
青い扉の向こうから水野が顔を出した。
「洗浄機の操作室です。奥にもう一つ出口があります」
高梨の担架と美緒は中へ入っている。
神崎が千紘の背を押し、先に行かせた。俺も続こうとした時、低い溝からガルが上がってくる。
前脚を作業台へかけ、一度滑った。
脇腹の帯は半分ほど外れ、濡れた毛へ垂れている。
「ガル」
今度は呼ぶだけにした。
ガルは俺を見た。
それから青い扉と、伸びてくる黒い帯を見る。
自分で作業台へ上がった。
触れようとした村瀬へ牙を見せ、その横を通り過ぎる。青い扉の手前で一度止まり、美緒が奥へ離れたのを確かめてから中へ入った。
最後に俺と神崎が扉を抜ける。
右肩へ左手を当てる。父の上着に残っていた黒い染みが、また少し広がっていた。
HPは二百二十まで落ちている。
「閉めます!」
水野が壁のハンドルを回した。
青い扉がゆっくり閉じる。
隙間へ黒い帯の先が入った。
神崎と村瀬が扉を押し、水野がさらにハンドルを回す。鉄板が黒い帯を挟み、床から剥がした。
軌道喰らいの車輪が空回りする。
身体は扉の手前で止まった。
「止まった」
美緒が言う。
「まだだ」
高梨の声が操作室の奥から返る。
扉の向こうで、円い歯が回り始めた。
鉄を削る音が近づいてくる。
水野は操作盤の前へ移り、並んだスイッチを見た。文字は古いが、赤い非常停止と、その横の洗浄開始だけは読める。
「非常停止、押します?」
「どれが止まる」
「分かりません。洗浄機か、線路か、全部か」
「洗浄を動かせ」
高梨が言った。
「止める方じゃなくて?」
「あれは線を床へ貼ってる。水で剥がれるか見ろ」
水野は一瞬だけ高梨を見た。
洗浄開始を押す。
操作室の外で、大量の水が落ちた。
天井ノズルと床の噴出口が一斉に開き、扉の向こうを白く隠す。円い歯の音は止まらない。
ただ、床へ挟まっていた黒い帯が波打った。
端から浮き、排水溝へ引かれていく。
軌道喰らいの車輪音が乱れた。
「効いてる?」
美緒が操作盤へ寄る。
「剥がれてはいる」
千紘が耳を押さえたまま答えた。
水音の下で、また鉄を食う音がした。扉の下へ、剥がされたものより太い黒い帯が伸びてくる。
軌道喰らいは止まっていない。線を作り直している。




