第三十四話 分岐器
解体と書かれた板が頭上を過ぎた。
線路が下り始める。
深緑の車両はさらに速くなった。座席から伸びた黒線が吊り輪を引き、見えない七人分の形を保ったまま揺れている。
担架の脚が床を滑る。
神崎と水野が押さえ、村瀬が前方の作業扉へ背をつけた。俺は美緒を壁側へ入れ、窓枠へ左腕を通す。
「解体って、車両を壊す方ですよね」
美緒が高梨を見る。
「ほかの意味で書く場所じゃないな」
「止められないんですか」
「運転台も電気もない。俺に聞くな」
高梨の声は荒かった。担架が揺れるたび、固定された足がわずかに動く。
車内の照明が消えた。
窓の外だけが明るくなる。
トンネルの先に、広い作業場があった。
天井から何本もの鉄骨が下がり、両側には車両より大きな機械が並んでいる。切断用らしい太い刃。車体を持ち上げる黄色い支柱。床の溝には、剥がされた銀色の板や座席の骨組みが積もっていた。
その中央を、黒いものが進んでいる。
最初は小型の機関車に見えた。
高さは車両の半分ほどしかない。平たく長い身体を四つの車輪で支え、後ろから何本もの黒い鎖を引いている。
前には顔がなかった。
二本のレールを挟むように、円い歯の列が回っている。鉄を削る火花を散らし、線路を枕木ごと呑み込んでいた。
呑まれた先から線路がなくなる。
代わりに、黒い二本の帯がその身体の後ろへ吐き出される。帯は床へ貼りつき、銀色の車両の下を通って、俺たちの車両まで続いていた。
「あれが引いてる」
村瀬が小窓を見たまま言う。
黒い鎖は、平たいものの後部へ集まっている。
円い歯が線路へ食い込み、鉄を削る。黒い帯が後ろへ伸びた分だけ、銀色の車両が進み、連結された深緑の車両も引かれた。
「線路を削る音のあとに、こっちが動いてます」
千紘が床へ手をつく。
「ずっと同じです。前で一回。黒い帯が擦れる音。そのあと連結器」
「食った線路を、後ろへ敷き直してるのか」
口にしてから、物置に映った窓を思い出した。見えなかっただけで、床の下には先に黒い帯が通っていたのかもしれない。
それでも、祖父の家までどうつながったのかは分からない。
作業場の奥で、太い刃が持ち上がった。
黒いものが下を通り過ぎる。
銀色の車両が入ったところで、刃が下り始めた。
「伏せろ!」
神崎の声と同時に、車体へ衝撃が走る。
前の銀色車両の屋根が裂けた。金属板が左右へめくれ、割れた窓が暗がりへ飛ぶ。
深緑の車両へ刃が来るまで、長くない。
「横へ出られる場所は」
神崎が高梨へ聞く。
「解体線には作業員の退避路がある。機械の手前か横だ」
「見えます。左」
水野が窓を指した。
解体線と並んで、車両洗浄線が走っている。低い作業台が両側にあり、その先へ青い扉が見えた。
二本の線路の間には分岐器がある。
銀色の車両はもう通り過ぎていた。
深緑の車両の前輪は、まだ分岐の手前にいる。
「切り替えられれば左へ行ける」
村瀬が小窓へライトを押しつけた。
分岐器の横には手動の転換器があった。低い箱から長いレバーが出ている。
人が立てる場所はない。
列車から手も届かない。
「窓を外すなって言ったよな」
高梨が担架から言う。
「今も言うなら聞きます」
「外しても届かん。やめとけ」
村瀬が舌打ちし、小窓から離れた。
俺は視界の端へ意識を向ける。
《断界》にはMPが三十必要だ。今は二十しかない。分岐器へ触れることもできず、切れる境界かどうかも分からない。
何か使えるものを探して車内を見る。
バール。金属箱。革の吊り輪。どれも外のレバーまでは届かない。
右側の窓の下で、黒い影が動いた。
首ごと向く。
作業場の床より一段低い溝を、四本の脚が走っている。
「ガル!」
黒い背中が非常灯の下へ出た。
脇腹の圧迫帯はずれ、毛へ細い赤が広がっている。それでも止まらず、黒いものから垂れた鎖を追っていた。
俺の声に片耳だけが動く。
顔は上げなかった。
「あれ、ガルです」
千紘が窓へ寄る。
「分かってる」
「呼んでも来ない」
「それも分かってる」
ガルは列車ではなく、平たい輪を重ねた鎖を見ていた。
鎖の一本が分岐器の転換器を横切っている。張るたび箱の角へ擦れ、黒い粉を落としていた。
ガルが速度を上げる。
噛みついた。
身体ごと鎖へぶら下がり、四肢を床へ突っ張る。黒いものは止まらない。ガルの身体が溝の上を引きずられた。
「離せ!」
言っても、牙は外れない。
鎖が横へ振られ、転換器のレバーへ巻きついた。
ガルの後脚が床を蹴る。
レバーが半分だけ倒れた。
線路の間で、分岐の細い先端が動く。
「もう一回だ!」
村瀬が窓を叩く。ガルは村瀬を見ていない。
鎖へ噛みついたまま首を振り、自分の身体を反対側へ投げた。レバーが最後まで倒れ、分岐器が切り替わる。
深緑の車両の前輪が左へ入った。
銀色の車両は解体線のまま進んでいる。二両をつないだ黒い連結器が斜めに引かれ、車体の間で硬い音を立てた。
千紘が耳を塞ぐ。
連結器が伸びる。
平たい輪が一つずつ開き、最後にまとめて弾けた。
深緑の車両が左へ外れた。
引く力を失っても、すぐには止まらない。残った勢いで洗浄線へ入り、両側の作業台の間を走る。
「扉を開けろ!」
村瀬と神崎が作業扉へ移る。錆びた金具を外す前に、水野が担架の固定を確かめ、美緒は床へ落ちた高梨の上着を探しかけた。
もうない。
「美緒、先に扉」
高梨に言われ、美緒が顔を上げる。
作業扉が開いた。
洗浄線の台がすぐ横を流れている。車両との隙間は狭い。
速度は落ちていた。
水野が最初に降り、振り返る。村瀬と神崎が担架を持ち上げ、動く車両から台へ滑らせた。
高梨の声が潰れる。
美緒が続き、千紘がその背中を押す。
俺が扉へ近づいた時、車内でベルが鳴った。
後ろの座席に作られていた七人分の形が、同時に立ち上がる。
黒線が床を走った。
「飛べ!」
神崎が台から手を伸ばす。
左足を作業台へ出す。
右足が車両に残った。
見えない側から黒線が足首へ触れた。
身体が止まるより先に、千紘が父の上着の左袖を掴んだ。
「こっち!」
神崎も左腕を取り、二人に引かれる。
右靴の踵を黒線が掠めた。借用プロテクターの端が車体へ当たり、留め具が一つ外れる。
作業台へ膝から落ちた。深緑の車両だけが先へ進む。
開いた扉の奥に、七人が立っていた。
今度は形だけではない。汚れた服も、眼帯も、千紘の左右で違う靴も見える。俺たちと同じ七人が、誰も座らず車内に残っていた。
扉が閉まり、深緑の車両は暗いトンネルへ消えた。
「全員いるか」
神崎が数える。
美緒。高梨。水野。村瀬。千紘。俺。神崎。
七人いる。車両の中にも七人いた。
解体線で大きな金属音が鳴った。屋根を裂かれた銀色の車両が止まり、黒いものがゆっくり向きを変える。
線路を噛んでいた円い歯が開き、その内側に赤い光が一つ灯った。床へ吐き出された黒い帯が、洗浄線の分岐へ向かって伸び始める。
ガルは低い溝から上がらず、その帯の前へ立っていた。




