第三十三話 降りていない
発車ベルが切れる前に、車両が強く引かれた。
木の床が足元から逃げる。
俺は窓枠へ左手をついた。千紘は革の吊り輪を掴み、水野と神崎が滑り出した担架を左右から止める。村瀬は作業扉へ肩を当てたまま、外れかけた金具を押さえていた。
美緒だけが床へしゃがんでいる。
座席には触れていない。
深緑の車両は速度を上げ、留置線に並んでいた別の車両を追い越していく。窓の外で、銀色、赤茶色、また銀色と色が変わった。
どの車両にも人影はない。
「どっちへ走ってるんですか」
水野が高梨を見る。
「窓だけじゃ分からん。お前の方が立てるだろ」
「立てるのと分かるのは別ですよ」
水野は言いながら、窓の上にある古い路線図へライトを向けた。停車駅の丸印は久世を中心に左右へ六つずつ並んでいる。
今の路線と同じ名前は三つしかなかった。
「東崎がない」
「西久世もないな」
「その代わり、久世工場前ってあります」
高梨が目を細める。
「聞いたことない」
列車が右へ曲がった。
俺の身体は見えない側へ持っていかれ、窓へ右肩を打ちそうになる。肘を間へ入れたが、傷の近くへ振動が響いた。
声は出さずに済んだ。
前で何かが転がる。
座席の下にあった透明の瓶だった。空のまま床を進み、美緒の膝へ当たる。
美緒が拾おうと手を伸ばした。
「待って」
千紘の声で手が止まる。
座席の縫い目から、糸より太い黒線が出ていた。
一本。
もう一本。
床を這い、瓶の首へ巻きつく。黒線が縮むと、瓶は美緒の前から座席の下へ引かれた。
そのまま奥へ消えると思った。
瓶は座面の上へ出てきた。
潰れていた胴が戻っている。曇っていた透明な板も澄み、閉じた蓋の下まで水が入っていた。
「さっき、空でしたよね」
美緒が言う。
誰も答える前に、車内で短いベルが鳴った。
水の入った瓶が、座面へ沈んだ。
柔らかい布ではない。暗い水へ落ちるように底から消え、最後に蓋だけが残った。
蓋も消える。
座面は元へ戻った。
「今、水が入ってましたよね」
水野の言葉に、俺は救助ベルトを思い出す。
切れていたものが車両の席へ置かれていた。あれも、座らせれば切れる前へ戻ったのかもしれない。
そう考えたところで、木の床がまた傾いた。
美緒の背中にあった高梨の上着がずれる。
黒線が裾へ巻きついた。
「あっ」
美緒が両手で掴む。線は細いままなのに、上着が座席の方へ引かれた。
「放せ、美緒」
高梨が言った。
「でも」
「俺のだ。放せ」
美緒の指が遅れて開く。
上着は床を滑り、座面へ持ち上げられた。血と泥で汚れていた布が、ほんの一瞬だけ洗ったような色へ戻る。
畳まれることもなく、消えた。
高梨は何も言わなかった。
美緒が空いた両手を膝へ置く。視線を落としたまま、座席からさらに離れた。
「人が座ったら、どうなる」
村瀬が作業扉から離れる。
「試さないぞ」
神崎がすぐ返した。
「分かってます。聞いただけです」
七人とも、座席へ目を向けた。
擦り切れた長い布の下に、何人分の物が沈んでいるのかは見えない。
車両の継ぎ目から、重い音が一度入った。
千紘が吊り輪から片手を離し、床へ耳を向ける。
「下にいます」
「ガルか」
「たぶん。今度は列車が曲がっても同じ下から聞こえた。少し遅れてついてきてる」
「止まったら下りる」
「下りる場所があればね」
千紘の返事は小さかった。
窓の外はいつの間にか壁になっていた。狭いトンネルを走っている。一定の間隔で非常灯が過ぎ、そのたび車内の影が前から後ろへ流れた。
銀色の車両は見えない。
俺は進行方向へ顔を向けた。深緑の車両の前にも作業扉がある。曇った小窓の向こうで、黒いものが上下していた。
「前を見る」
村瀬がバールを持ってついてくる。
担架の横を抜ける時、高梨が左手を上げた。
「扉は開けるなよ。連結されてるなら、間に落ちる」
「窓だけです」
「窓も外すな」
「外しません」
村瀬の声が少しだけ苛立った。
小窓の汚れを袖で拭う。
前に銀色の車両がいた。
留置線では別の線路を走っていたはずなのに、今は深緑の車両と同じ線へ入り、黒い連結器でつながっている。銀色の車両のさらに前から、平たい輪を重ねた鎖が暗闇へ伸びていた。
鎖が張るたび、二両とも前へ引かれる。
車輪で走っているのではない。
何かが、列車ごと運んでいる。
「先頭じゃない」
村瀬が小窓へ顔を寄せた。
「あの向こうに何かいるな」
ライトは届かなかった。
戻ろうとした時、美緒の声がした。
「続き、見えるかも」
座席の張り替えられた布が、上着を飲み込んだ時に少しずれていた。隠れていた板へ、傷文字の下半分が出ている。
美緒は床へ膝をついたまま、座席には触れずライトを向けた。
おれたちは、まだ――
その下に、二行目が続いている。
降りていない。
文字の終わりには、短い縦線が何本も刻まれていた。
数える前に、ベルが鳴った。
座席が七か所、同時に沈む。
誰も座っていない。それでも人の重さを受けたように布が窪み、革の吊り輪が一つずつ揺れ始めた。美緒の目の前でも、見えない膝を受ける形に座面が沈んでいく。
神崎が美緒の襟を掴み、床の中央へ引いた。
「寄るな」
座席の窪みから黒線が垂れる。
今度は床へ向かわなかった。
七本とも天井へ伸び、吊り輪へ絡みつく。
千紘が掴んでいた輪が強く引かれた。手を離した直後、革が座席側へ折れ、見えない誰かの腕の位置で止まる。
車内に七人いる。
その形だけが、少しずつできていく。
「前へ詰めろ。座席から離れろ」
神崎が担架の頭側を持ち上げる。水野はもう足側へ回っていた。村瀬が車両前方の床へ落ちていた金属箱を蹴り、通路を空ける。
俺も美緒の左へ入り、立たせた。
全員が車両の前半分へ寄る。
窓の外が急に明るくなった。
トンネルを抜けている。
前方に、何本もの線路が一つへ集まる場所が見えた。天井から下がった古い案内板が、列車の風で揺れている。
車両洗浄線。
その下の矢印は左へ向いていた。
俺たちの線路がつながっているのは右だった。
右側の板には、文字が一つだけ残っている。
解体。
銀色の車両の先で、黒い鎖がさらに強く張った。
深緑の車両は速度を上げた。




