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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第七章 無人列車

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第三十三話 降りていない

 発車ベルが切れる前に、車両が強く引かれた。


 木の床が足元から逃げる。


 俺は窓枠へ左手をついた。千紘は革の吊り輪を掴み、水野と神崎が滑り出した担架を左右から止める。村瀬は作業扉へ肩を当てたまま、外れかけた金具を押さえていた。


 美緒だけが床へしゃがんでいる。


 座席には触れていない。


 深緑の車両は速度を上げ、留置線に並んでいた別の車両を追い越していく。窓の外で、銀色、赤茶色、また銀色と色が変わった。


 どの車両にも人影はない。


「どっちへ走ってるんですか」


 水野が高梨を見る。


「窓だけじゃ分からん。お前の方が立てるだろ」


「立てるのと分かるのは別ですよ」


 水野は言いながら、窓の上にある古い路線図へライトを向けた。停車駅の丸印は久世を中心に左右へ六つずつ並んでいる。


 今の路線と同じ名前は三つしかなかった。


「東崎がない」


「西久世もないな」


「その代わり、久世工場前ってあります」


 高梨が目を細める。


「聞いたことない」


 列車が右へ曲がった。


 俺の身体は見えない側へ持っていかれ、窓へ右肩を打ちそうになる。肘を間へ入れたが、傷の近くへ振動が響いた。


 声は出さずに済んだ。


 前で何かが転がる。


 座席の下にあった透明の瓶だった。空のまま床を進み、美緒の膝へ当たる。


 美緒が拾おうと手を伸ばした。


「待って」


 千紘の声で手が止まる。


 座席の縫い目から、糸より太い黒線が出ていた。


 一本。


 もう一本。


 床を這い、瓶の首へ巻きつく。黒線が縮むと、瓶は美緒の前から座席の下へ引かれた。


 そのまま奥へ消えると思った。


 瓶は座面の上へ出てきた。


 潰れていた胴が戻っている。曇っていた透明な板も澄み、閉じた蓋の下まで水が入っていた。


「さっき、空でしたよね」


 美緒が言う。


 誰も答える前に、車内で短いベルが鳴った。


 水の入った瓶が、座面へ沈んだ。


 柔らかい布ではない。暗い水へ落ちるように底から消え、最後に蓋だけが残った。


 蓋も消える。


 座面は元へ戻った。


「今、水が入ってましたよね」


 水野の言葉に、俺は救助ベルトを思い出す。


 切れていたものが車両の席へ置かれていた。あれも、座らせれば切れる前へ戻ったのかもしれない。


 そう考えたところで、木の床がまた傾いた。


 美緒の背中にあった高梨の上着がずれる。


 黒線が裾へ巻きついた。


「あっ」


 美緒が両手で掴む。線は細いままなのに、上着が座席の方へ引かれた。


「放せ、美緒」


 高梨が言った。


「でも」


「俺のだ。放せ」


 美緒の指が遅れて開く。


 上着は床を滑り、座面へ持ち上げられた。血と泥で汚れていた布が、ほんの一瞬だけ洗ったような色へ戻る。


 畳まれることもなく、消えた。


 高梨は何も言わなかった。


 美緒が空いた両手を膝へ置く。視線を落としたまま、座席からさらに離れた。


「人が座ったら、どうなる」


 村瀬が作業扉から離れる。


「試さないぞ」


 神崎がすぐ返した。


「分かってます。聞いただけです」


 七人とも、座席へ目を向けた。


 擦り切れた長い布の下に、何人分の物が沈んでいるのかは見えない。


 車両の継ぎ目から、重い音が一度入った。


 千紘が吊り輪から片手を離し、床へ耳を向ける。


「下にいます」


「ガルか」


「たぶん。今度は列車が曲がっても同じ下から聞こえた。少し遅れてついてきてる」


「止まったら下りる」


「下りる場所があればね」


 千紘の返事は小さかった。


 窓の外はいつの間にか壁になっていた。狭いトンネルを走っている。一定の間隔で非常灯が過ぎ、そのたび車内の影が前から後ろへ流れた。


 銀色の車両は見えない。


 俺は進行方向へ顔を向けた。深緑の車両の前にも作業扉がある。曇った小窓の向こうで、黒いものが上下していた。


「前を見る」


 村瀬がバールを持ってついてくる。


 担架の横を抜ける時、高梨が左手を上げた。


「扉は開けるなよ。連結されてるなら、間に落ちる」


「窓だけです」


「窓も外すな」


「外しません」


 村瀬の声が少しだけ苛立った。


 小窓の汚れを袖で拭う。


 前に銀色の車両がいた。


 留置線では別の線路を走っていたはずなのに、今は深緑の車両と同じ線へ入り、黒い連結器でつながっている。銀色の車両のさらに前から、平たい輪を重ねた鎖が暗闇へ伸びていた。


 鎖が張るたび、二両とも前へ引かれる。


 車輪で走っているのではない。


 何かが、列車ごと運んでいる。


「先頭じゃない」


 村瀬が小窓へ顔を寄せた。


「あの向こうに何かいるな」


 ライトは届かなかった。


 戻ろうとした時、美緒の声がした。


「続き、見えるかも」


 座席の張り替えられた布が、上着を飲み込んだ時に少しずれていた。隠れていた板へ、傷文字の下半分が出ている。


 美緒は床へ膝をついたまま、座席には触れずライトを向けた。


 おれたちは、まだ――


 その下に、二行目が続いている。


 降りていない。


 文字の終わりには、短い縦線が何本も刻まれていた。


 数える前に、ベルが鳴った。


 座席が七か所、同時に沈む。


 誰も座っていない。それでも人の重さを受けたように布が窪み、革の吊り輪が一つずつ揺れ始めた。美緒の目の前でも、見えない膝を受ける形に座面が沈んでいく。


 神崎が美緒の襟を掴み、床の中央へ引いた。


「寄るな」


 座席の窪みから黒線が垂れる。


 今度は床へ向かわなかった。


 七本とも天井へ伸び、吊り輪へ絡みつく。


 千紘が掴んでいた輪が強く引かれた。手を離した直後、革が座席側へ折れ、見えない誰かの腕の位置で止まる。


 車内に七人いる。


 その形だけが、少しずつできていく。


「前へ詰めろ。座席から離れろ」


 神崎が担架の頭側を持ち上げる。水野はもう足側へ回っていた。村瀬が車両前方の床へ落ちていた金属箱を蹴り、通路を空ける。


 俺も美緒の左へ入り、立たせた。


 全員が車両の前半分へ寄る。


 窓の外が急に明るくなった。


 トンネルを抜けている。


 前方に、何本もの線路が一つへ集まる場所が見えた。天井から下がった古い案内板が、列車の風で揺れている。


 車両洗浄線。


 その下の矢印は左へ向いていた。


 俺たちの線路がつながっているのは右だった。


 右側の板には、文字が一つだけ残っている。


 解体。


 銀色の車両の先で、黒い鎖がさらに強く張った。


 深緑の車両は速度を上げた。

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