第三十二話 座るな
窓の中の俺は、右目のない顔をこちらへ向けたままだった。
銀色の車両が歩く速さで並んでくる。車輪は回らず、前に垂れた黒い連結器だけがレールを擦っていた。
「今の、見えてる?」
千紘が小さく聞いた。
「俺だけじゃない」
「なら、いい。よくはないけど」
千紘は窓を見ないように前を向いた。
七つの席に座った人影は動かない。水野も、高梨も、美緒も、神崎と村瀬もいる。千紘の像は片耳にイヤホンを差したまま、両足へ同じ形の靴を履いていた。
今の千紘とは違う。
「あれ、私の長靴じゃない」
千紘も気づいていた。
「元の靴です。スライムにやられる前の」
「前の姿ってことか」
「大月は眼帯してる」
それ以上は分からない。
現在でも、少し前でもない。人の形だけを拾い、足りないところへ別の時間を混ぜたように見えた。
「見ながら歩くな。前が狭くなる」
神崎の声が後ろから来る。
点検通路は少しずつ細くなっていた。左はコンクリートの壁、右は低い柵と線路。前では水野と村瀬が担架を運び、美緒が高梨の上着を押さえている。
神崎は最後尾に残り、追ってくる車両との間を見ていた。
俺は千紘より半歩前へ出る。右に窓があるせいで、車両がどこまで近づいたか首を向けなければ分からない。
見なくても、連結器の音は少しずつ大きくなっていた。
前で村瀬が止まった。
「通路がない」
点検通路は、五メートルほど先で崩れていた。床が線路側へ落ち、壁に取りつけられた細い配管だけが向こうへ続いている。
人一人なら壁へ張りついて越えられるかもしれない。
担架は無理だった。
「戻るか?」
水野が振り返る。
戻る側から、銀色の車両が近づいている。座った七人は、まだ窓の中にいた。
高梨が担架の上で首を動かした。
「向かいの緑の車両。端に作業扉がある」
崩れた場所の手前に、短い渡り板が畳まれていた。線路を挟んだ先には、階段を下りた時に見た深緑の車両が止まっている。車体の端に細い扉があり、錆びた手すりも残っていた。
「あれへ入れるか」
「鍵までは知らん。俺が入った頃には倉庫の写真だ」
「十分だ」
村瀬が担架を水野へ預け、渡り板へ近づいた。
板の端には太い鎖が巻かれている。錆で固まり、留め金が動かない。村瀬はバールの平たい先を差し込み、一度だけ体重をかけた。
外れない。
もう一度やろうとしたところで、神崎が横から鎖を踏んだ。二人の重さが加わり、錆びた留め金が割れる。
渡り板が線路の上へ倒れた。
音が車両留置線へ響く。
銀色の車両の中で、七人が同時に顔を上げた。
「動いた」
美緒が高梨の上着を握ったまま言った。
座席の人影が一人ずつ立ち上がる。最初は水野、次に村瀬。担架の上の高梨まで、何も痛めていないように両足で立った。
「見なくていい。美緒、こっち」
水野が呼ぶ。美緒はすぐには動かず、窓の中の高梨から目を離せなかった。
「あっちは立てるんだ」
高梨が言った。
「だったら、そっちに運ばせたいな」
美緒がやっと高梨を見る。
「笑うところ?」
「できれば」
「無理」
短く答え、美緒は渡り板の手前へ移った。
村瀬が先に板を渡る。緑の車両の作業扉へバールを差し込み、内側へ押した。扉は少しだけ開き、溜まっていた埃が線路へ落ちる。
「開く。中は床もある」
水野は返事を待たず、担架の頭側を持ち上げた。神崎も足側へ回り、村瀬が緑の車両から手を伸ばす。
俺は美緒を先に渡した。
板の幅は靴二足分しかない。下には二本のレールがあり、その間を黒い水が流れていた。
千紘が板へ片足を載せる。
「揺れる」
「手すり持て」
「ないよ」
見直すと、錆びた支柱だけが残っていた。
俺が左手を出す。千紘は一瞬だけその手を見て、手首ではなく上着の袖を掴んだ。
「大月も揺れてる」
「今言うな」
「渡ってから言っても遅いでしょ」
二人分の体重で板が沈む。千紘が緑の車両の手すりへ触れたところで袖が離れた。
後ろから、扉の開く音がした。
銀色の車両だった。
窓の中に立っていた七人が見えなくなる。代わりに、開いた扉の奥で細い黒線が何本も床へ落ちた。
「大月、来い!」
神崎が向こうから呼ぶ。
板を蹴るように渡った。右足が端へ寄り、靴底の半分が外れる。身体が線路側へ傾いたところを、村瀬が左肩のプロテクターごと掴んだ。
傷のある右肩には触れていない。
「まだ落ちるなよ」
「落ちる予定はない」
「予定を聞いてない」
緑の車両へ押し込まれる。
最後に神崎が渡り板を越えた。村瀬と二人で作業扉を引く。黒線が板の上へ届く直前に扉が閉まり、錆びた金具が噛み合った。
車内は外から見たより狭かった。
木の床。擦り切れた長い座席。天井から下がる革の吊り輪。窓の上には停車駅を並べた古い路線図があるが、汚れで半分以上読めない。
空気は乾いていた。
誰もいないはずなのに、古い汗と煙草の匂いが残っている。
担架を扉の横へ下ろす。美緒は座席へ腰を下ろしかけ、何かを見つけて止まった。
「ここ、字がある」
座面のすぐ上に、細い傷が何本もついていた。
落書きには見えない。同じところを何度も硬いもので削り、文字にしている。
村瀬がライトを近づけた。
ベルが鳴っても、座るな。
その下には、途中まで削られた別の文字があった。
おれたちは、まだ――
続きは座席の張り替えで隠れていた。
削った跡へ左の指を当てる。溝の中にも埃が詰まり、最近つけられた傷には見えない。それでも、文字は崩れず残っていた。
座席の下には、潰れた透明の瓶が二本転がっている。見たことのないラベルに日本語で水とあり、片方の蓋だけが閉まっていた。
「誰が書いたんですか」
美緒の声が小さくなる。
答えられる者はいない。
「これを書いた人、座らなかったら出られたんでしょうか」
千紘が聞いた。
「出られたなら、続きも書けたかもしれない」
「じゃあ、分からないままか」
千紘は座席から一歩離れた。
高梨が担架から座席を見た。
「美緒。そこはやめとけ。書いたやつに悪い」
「うん」
美緒は床へしゃがんだ。高梨の上着へ背中だけを預ける。
外で、黒い連結器が鳴った。
一度目は遠い。
二度目は車体のすぐ下だった。
緑の車両が大きく揺れ、全員の身体が同じ方向へ持っていかれる。担架の脚が床を滑り、水野と神崎が左右から押さえた。
「何かつながった!」
千紘が作業扉へ耳を向けた。金属同士が噛み合い、重い鎖が張る。
窓の外を銀色の車両が通った。七つの扉は閉じ、座席ももう見えない。代わりに最後の窓だけが明るく、その中で黒い鎖が床から持ち上がっていた。
天井のスピーカーから、短い電子音が鳴る。
『留置車両を連結します』
「留置じゃなかったのかよ」
水野が窓枠を掴む。
緑の車両が動き出した。
誰も座っていないのに、床下から発車ベルが鳴った。




