第三十話 回送通過
監視盤の隙間が広がった。
白い光が部屋を横切る。
水野が先に美緒の肩を抱き、細い扉へ向かう。千紘もその後ろへついた。
「担架は俺たちで運ぶ。大月は先に出ろ」
神崎は俺の返事を待たず、高梨の担架へ回った。
「ガルは」
黒い背中は監視盤の前から動いていない。
「自分で来る。今は入口を空けろ」
水野と美緒が細い扉を抜けた。
保守通路は左右へ続いている。右から近づく白い光を見て、迷わず左へ進む。
美緒が手すりの向こうを覗きかけ、水野に上着を引かれた。
「下、見ない方がいい」
「線がある」
「あるけど、今は見なくていい」
二人の足音が離れる。
千紘が扉の前へ来た。
右足の大きな長靴を横にし、敷居を越える。外へ出たところで一度ふらついたが、手すりではなく壁へ肩をつけた。
「次、大月君」
「行ける」
「それは見れば分かる。早く」
肩の毛布を左手で押さえ、立ち上がった。
一歩目は出た。
二歩目で床が沈んだように感じる。
実際には部屋全体が揺れていた。
監視盤が壁から離れ、裏側に隠れていた黒い空間が広がっていく。そこへ二本の仮設軌道が伸びてきた。
机の電話が鳴り続けている。
『回送、進入』
男の声はもう受話器を通していなかった。
部屋のどこから出ているのか分からない。
背中を神崎の手袋で押され、細い扉へ向かう。
保守通路は左側が壁、右側が低い手すりだった。左手を壁へつければ、見えない側を空間へ向けずに済む。
千紘が数歩先で待っている。
「ここまで真っ直ぐ。敷居だけ少し高い」
言われた場所へ足を上げた時、背後で電話の音が止まった。
代わりに紙が一斉に擦れ、机の上に残っていた書類が監視盤の方へ流れていく。風だけではない。床へ細い黒線が伸びていた。
列車の開いた扉から部屋へ入り、電話のコード、消火器の留め具、机の脚へ一本ずつ触れている。触れられた電話機が机から落ち、床を滑った。
「来るぞ!」
村瀬の声と同時に、腰を後ろへ引かれた。
借りた救助ベルトの金具へ黒線が巻きついている。
身体が敷居へ戻った。
右の手すりが視界から消える。
「大月君!」
千紘が左腕を掴んだ。
長靴の底が滑り、二人分の身体が保守通路の壁へぶつかる。
黒線は緩まない。
腰のベルトが締まり、息が詰まった。
「外せ!」
神崎が留め具へ手を伸ばす。
指が金具の下へ入らない。
村瀬がバールを置き、腰の救助ナイフを抜いた。
「切ります!」
「やれ!」
刃がベルトへ入る。一度では切れなかった。黒線がさらに引き、肩の毛布が落ちた。毛布は俺の脚へ絡んだあと、先に部屋へ引き戻される。
列車の前照灯が監視盤の奥を白く埋めた。村瀬がベルトをもう一度切る。腹の前で繊維が弾けた。
身体が千紘の方へ倒れ、水野が通路の奥から俺の上着を掴んで壁際へ引いた。切れたベルトは部屋へ戻っていった。
腰が軽くなる。引かれる力だけでなく、帰り道で頼るはずだったものまでなくなった。
毛布、電話機、消火器が黒線の上を滑り、開いた列車の扉へ順番に吸い込まれた。
「人じゃなくて、物を取ってる?」
美緒が言う。
「まだ決めるな」
神崎が部屋へ戻りながら答えた。
「高梨を通す。村瀬、足側」
バールを腰へ差し直した村瀬が担架を持ち上げる。
神崎が頭側へ回った。
「狭いぞ。肘を出すな」
「俺に言ってるのか」
「全員です」
「なら先に言え」
高梨が担架の縁を自分で掴んだところで、列車の先頭が部屋へ入った。
壁が消えたわけではない。監視盤のあった場所だけが奥へ引き延ばされ、そこを古い車両が横切っていく。運転席に人影はなく、割れた速度計の横で細いレバーだけが勝手に動いていた。
神崎たちが担架を保守通路へ入れる。布の端が扉に擦れ、水野が奥から頭側を受け取った。美緒は高梨の毛布を両手で持ち上げる。
「脚、当たる」
「上げすぎるな」
高梨が短く息を吐いた。
固定された足首が敷居を越える。
村瀬も通路へ入った。
神崎が最後に手を離し、部屋へ振り返る。
「ガル!」
ガルは監視盤の前から動いていなかった。列車の一両目が通過する。
窓の向こうに赤い駅員旗と食料袋が転がっていた。座席には誰もいない。開いた扉から伸びた黒線だけが、部屋に残るものを探していた。
ガルの圧迫帯へ細い赤が滲んでいる。それでも、こちらを見ていなかった。次の車両の床には、平たい輪をつないだ黒い鎖が重なっていた。ガルの首へ食い込んでいたものと、形が似ている。
車輪の音が近すぎて、唸りは聞こえなかった。裂けた片耳だけが前を向く。
「ガル、こっちだ!」
俺の声に、一度だけ顔を上げた。
そのまま保守通路へ来ると思った。
ガルは列車へ向き直った。
「大月、戻るな」
神崎が細い扉の前へ身体を入れる。
「どけ」
「今のお前が行って何をする」
「どけって言ってる」
「ガルはお前を見た。それで来なかった」
神崎の肩越しに部屋を見る。
ガルは開いた扉へ飛び込まなかった。
通過する車両と壁の間に、一段低い足場が現れている。ガルは前脚をそこへ下ろし、身体を滑らせた。
列車の下ではない。
仮設軌道と並んで続く、別の細い通路だった。
黒い背中が一度見える。
ガルは鎖を載せた車両と同じ方向へ歩き出した。
走ってはいない。追われてもいない。
戻れないようには見えなかった。それでも、呼んでも戻らなかった。
『残留、一』
男の声が部屋へ響く。
最後の車両が入ってくる。
「扉を閉めるぞ」
神崎が保守通路へ下がった。
「待て。まだガルが」
「部屋にはもういない」
声と同時に、表示が変わる。
『残留、ゼロ』
細い扉を閉めても、列車の音は遮れなかった。すぐ横を黒い窓が流れ、一枚ごとに自分たちの姿が映る。それが途中から別の場所へ変わった。
水没した三番線。
薬局の防火戸。
誰もいない古い二番線。
偶然の景色には見えなかった。列車が、俺たちの通ってきた場所を順に辿っているようだった。
最後の窓には、祖父の家の物置が映った。見間違いか確かめる前に通り過ぎ、列車の後部灯と黒線が暗闇へ沈む。
神崎が細い扉を少しだけ開け直した。あとに残ったのは、何も置かれていない中央防災室だった。監視盤も机もなく、向こうの壁まで灰色の床が続いている。
視界へ白い文字が浮かんだ。
――――――――――
沈降駅迷宮・回送収容区画から生還しました。
未踏区画《車両連絡路》へ到達しました。
レベルが上がりました。
Lv.9 → Lv.10
最大HP 94 → 100
最大MP 24 → 26
未配分能力値を4獲得しました。
スキルポイントを1獲得しました。
――――――――――
現在HPは二十五、MPは二のままだった。
増えた最大値に身体は追いつかない。
耳の奥に列車の音だけが残り、千紘の声が一度遅れて届いた。肩が壁へ傾く。千紘が先に身体を入れた。
「私も三になりました」
「MPは」
「ゼロのまま。最大は十二です」
「聞こえるか。ガルの音」
千紘はすぐに答えなかった。
片耳のイヤホンを外し、手すりの下へ顔を向ける。
高梨の息と、遠ざかる列車の音が重なっていた。
「下に何かいます」
「ガルか」
「まだ分かりません。爪みたいな音はしたけど、列車の音も近いから」
「降りる場所を探す」
俺が言うと、神崎が保守通路の先を照らした。
「探す。ただし全員で動ける道からだ」
言い返す前に、高梨が担架の上からライトの先を指した。
通路は二十メートルほど先で下り階段へ変わっている。
壁の札には、薄い文字が残っていた。
車両留置線。
内線で指示された場所だった。
「結局そっちかよ」
村瀬が小さく言った。
矢印の下で、金属を擦る音がした。
千紘はまだ、ガルだとは言わなかった。




