第三十一話 七つの空席
矢印の下から、金属を擦る音がもう一度した。
千紘が手すりへ片耳を寄せる。俺も息を止めたが、高梨の荒い呼吸と、どこかで水が落ちる音しか拾えない。
「ガルじゃないと思う」
「さっきは爪って言ってただろ」
「爪みたいな音は別。今のは止まらないから」
言っている間も、硬いものを床へ押しつける音が続いていた。近づいているのか、同じ場所を回っているのかまでは千紘にも分からないらしい。
神崎が階段へライトを向けた。幅は担架より少し広い。下から風は来ていない。
「ここで待っても戻る道はない。下りるぞ」
村瀬は返事より先に担架の足側へ回った。高梨がそれを見て、苦い顔をする。
「一回置いてくれてもいいぞ。運ばれる方も、そろそろ酔う」
「下で置きます。ここだと傾いてるんで」
「そういう真面目な返事が欲しかったわけじゃない」
高梨が息の途中で笑い、すぐ顔を歪めた。
神崎と村瀬が担架を持ち上げる。水野は美緒へ高梨の上着を預け、固定された足が壁へ当たらないよう横についた。
俺も担架へ手を出しかけたが、神崎が顎で壁を示した。
「先に自分を下ろせ。落ちたら増える」
「歩ける」
「知ってる。だから歩け」
左壁へ手をつき、一段ずつ下りた。
階段の右側には手すりがない。ライトを向けても底が見えず、靴の先を段へ載せるたび、右半身だけが空いた方へ引かれる気がした。
千紘は俺のすぐ後ろにいた。腕には触れず、段が欠けているところだけを先に言う。
「次、端が割れてる」
「見えてる」
「右じゃなくて左」
足を置き直した。
言い返すものが浮かばず、そのまま下りる。今のは見えていなかった。
階段は途中で一度折れ、広い空間へ出た。
最初に見えたのは、何本もの白い柱だった。
その間へ線路が並んでいる。四本までは数えられたが、奥は照明が落ち、まだ続いていた。天井は駅のホームより低い。電線も架線もないのに、銀色や深緑の古い車両が暗がりへ並べられている。
車両留置線。
札の文字どおりなら、列車を置くための場所だ。
俺たちが下りた階段は、細い点検通路へつながっていた。線路との間に腰ほどの柵があり、床には油の染みと、乾ききらない泥が残っている。
「久世に、こんな場所ないですよ」
水野がライトを奥へ振った。
「車両を置くのは東崎の地上です。久世駅の下に四本も線路を通したら、地下街とぶつかる」
「今さら地図の心配か」
高梨が担架から言った。
「気になるでしょう。あの緑の車両も、写真でしか見たことないです」
手前から二本目に、深緑の短い車両が止まっていた。今の久世線で使われている銀色の車体とは違い、窓の下まで塗装されている。行き先を出す小さな板には、消えかけた字で「久世」とあった。
その隣には、地上行きと表示された列車と同じ銀色の車両がある。さらに奥には、片側を焼かれた赤茶色の車両が見えた。
同じ場所へ、別々の時代から運ばれてきたように並んでいる。
「高梨さんは、あれ知ってます?」
「緑のはな。俺が入った頃にはもう走ってなかった。駅の倉庫に写真があった」
「じゃあ、やっぱり昔の――」
「だからって、昔の久世駅の下に車庫があったことにはならんよ」
水野は何か言いかけ、やめた。ライトだけが緑の車両から焼けた車両へ移る。
神崎と村瀬が担架を下ろした。
舌が上顎へ張りつき、つばを飲むのに二度かかった。壁へ背を預けると、立っている間は分からなかった足の揺れが、靴底から戻ってくる。
美緒が抱えていた上着を高梨へかけた。
「ありがとう。重かっただろ」
「平気。水野さんの鞄より軽いです」
「俺の鞄、そんなに入ってたか?」
水野が肩から外して確かめる。美緒は答えず、高梨の上着を足元まで引いた。
少し離れた線路で、金属音が鳴った。
全員の顔がそちらへ向く。
短い車両の端に、黒い連結器が垂れていた。人の頭より大きな鉄の塊が左右へ揺れ、そのたび下のレールを擦っている。
風はない。
車両も止まっている。
それでも連結器だけが、何かに引かれるように少しずつこちらへ向きを変えていた。
「あれです。さっきの音」
千紘が言った。
「下の音は?」
「今は聞こえない」
俺は点検通路の柵へ近づいた。下を覗く前に左手で柵を探り、身体を寄せる。
線路の間には、作業員が入るための深い溝がある。黒い水が薄く溜まり、その奥へもう一段低い通路が続いていた。
ガルが下りた場所と同じ高さに見える。
「行けそうか」
村瀬が横へ来た。
「俺は下りられる」
「戻って来られるかを聞いてる」
柵の下に梯子はなかった。三メートル近い高さがある。下りるだけなら落ちれば済むが、今の身体で上がれるとは思えない。
答えないでいると、村瀬はバールを俺から遠い側の手へ持ち替えた。
「先を見てからだな」
止めるでも、行かせるでもなかった。
天井で照明が一つ点いた。
白い光が、俺たちのいる通路ではなく、向かいの車両を照らす。
古い銀色の一両だった。四つある扉のうち、中央の二つだけが開いている。車内は暗いままだったが、窓際の座席へ小さな灯りが落ちた。
一つ。
少し間を空けて、隣。
奥へ向かって順に点き、七つで止まる。
「席、七つ」
美緒が数えていた。
車内放送の前触れらしい音が鳴った。
『車両の留置を開始します』
中央防災室で聞いた男と同じ声だった。
『指定位置へお戻りください』
「車両を置く場所だろ、ここ」
高梨が担架の上で顔を上げる。
「人間に戻れって言う場所じゃない」
水野が車両から目を離さず、鞄を背負い直した。七つの座席のうち、一番手前に何かが置かれている。
途中で切れた黒い帯と、金属の留め具。俺の腰から切った救助ベルトだった。留め具には村瀬のナイフが入った跡まで残っている。
足が一歩、車両の方へ出た。
「大月」
千紘に呼ばれ、止まる。
「取りに行くの」
「使えるかもしれない」
「切れてるのに?」
答えながら、千紘は俺ではなく座席を見ていた。
救助ベルトの留め具から、細い黒線が垂れた。
座席の下へ落ち、開いた扉を越えて線路へ伸びる。先端は迷わず、俺たちのいる通路へ向かってきた。
「離れるぞ」
神崎が言うより早く、水野が担架の頭側を持ち上げた。村瀬も足側へ入り、二人が動いたところで神崎は最後尾へ回る。
美緒は高梨の上着を押さえながら担架についていった。
俺も壁から背を離す。千紘が半歩前へ出て、こちらを見ずに歩き始めた。
「先に行って。右は線路」
「分かってる」
「さっきも言ってた」
点検通路は車両と並んで奥へ続いていた。黒線は柵まで届くと、支柱へ巻きつきながら追ってくる。
走れない。前の担架も速くは動けなかった。
それでも、七つの灯りから離れるほど黒線の伸びは鈍くなる。最後の支柱を越えたところで車両の扉が閉まり、黒線は途中で床へ落ちた。
連結器が大きく鳴った。
止まっていた銀色の車両が、俺たちと同じ方向へ動き始める。車輪は回っていない。黒い連結器に引かれ、レールの上をゆっくり滑っていた。
窓が横を通る。最初は、点検通路を歩く俺たちの姿が映っていた。
柱が一本、窓との間を横切る。次の窓にも七人いたが、もう歩いてはいなかった。明るい座席へ一人ずつ座り、全員が正面を向いている。
右目のない男だけが、少し遅れてこちらを向いた。
その奥で、空いているはずの暗い席から黒い鎖が垂れていた。




