第二十九話 鳴る内線
電話は三度目も鳴った。
水野の手が、受話器の上で止まっている。
外の車輪音は遠ざかっていた。代わりに、古いベルの音だけが部屋に残る。
「そのまま」
神崎が言った。
「水野さん、この電話に見覚えは」
「型は古いですけど、駅の内線だと思います」
水野は灰色の本体を横から見る。
「でも、中央防災室なんて今の久世駅にはありません」
「昔はあった?」
「少なくとも、私が入った時には」
担架の上で高梨が顔を上げた。
「俺も知らない。内線なら事務室と防災センターにつながるけど、こんなのはもう使ってない」
電話が切れた。
誰も触れていない。
静かになった机の上へ、村瀬がスマートフォンを置く。画面を二度押し、録音を始めた。
「次、鳴ったら録れます」
「電波は?」
「相変わらずです。録音だけなら」
美緒は高梨の担架から離れず、電話を見ていた。
「出ないの?」
「出る」
神崎は部屋の扉を一度振り返った。
「ただし、人数と場所は言わない。水野さん、駅員として話せるか」
「たぶん」
「無理なら代わる」
「大丈夫です」
返事は早かったが、水野はすぐには受話器を取らなかった。
四度目のベルが鳴る。
肩が小さく跳ねたあと、水野は受話器を耳へ当てた。
「中央防災室です」
言ってから、口元が固まる。
神崎は何も言わなかった。
「……もしもし。どちらですか」
受話器から空気の擦れる音が漏れた。
遠くで金属が軋み、その下に発車ベルが混じる。
千紘が水野の近くへ寄った。
『中央、防災』
男の声だった。
ひどく遠い。途中の音が欠け、声だけが細くつながっている。
『応答を、確認』
「こちらは久世駅です。そちらは?」
『回送を入れる』
水野が神崎を見る。
『残留、八』
部屋の空気が止まった。
俺たちは七人いる。
ガルを入れれば、八だ。
「誰が見てる」
俺が受話器へ向けて言う。
右側で何かが動き、首を向けるのが遅れた。美緒が畳んであった毛布を一枚引き抜いただけだった。
『留置線へ、退避』
「場所が分かりません。案内してください」
水野が言う。
『三分』
男の声へ、列車の走行音が重なった。
電話の向こうを通過しているようには聞こえない。音が近づくにつれ、受話器ではなく机の下が震えた。
『残留、八。回送を――』
硬い音がして通話が切れた。
水野は受話器を耳へ当てたまま動かなかった。
「置かないで」
千紘が言った。
「今の音、もう一回聞けるかもしれない」
「能力は使うな」
「使えません。普通に聞くだけです」
千紘は受話器の外側へ左耳を近づけた。触れず、漏れてくる小さな音を待つ。
「列車、電話の向こうだけじゃないです」
「こっちにもいる?」
「下を走ってます。さっきより近い」
高梨が担架の縁を握った。
「留置線って言ったな」
「言いました」
「今の久世駅に車両を置く線はない。回送は隣の駅まで抜く」
「昔の駅なら?」
神崎が聞く。
「分からない。改装前でも、こんな地下まで線路はなかったはずだ」
ガルが机から離れた。
部屋の奥へ進み、暗い監視盤の前で鼻先を上げる。
低い唸りが続いた。
「あっちに何かある」
美緒が言う。
監視盤は壁一面を塞いでいる。画面はすべて消え、下の操作卓にも明かりはなかった。
ガルが近づくと、一番端の画面へ白い点が浮かんだ。
一つ。
二つ。
古いテレビが点く時のように、中央から薄い光が広がる。
「触るなよ」
神崎がガルへ言った。ガルはそちらを見もしない。床と監視盤の隙間を嗅ぎ、脇腹を庇いながら横へ移った。
画面に部屋が映った。天井近くから見下ろした白黒の映像だった。机の前に水野と千紘。壁際に俺。担架の高梨、美緒、神崎、村瀬。その奥にガルがいる。
俺が顔を上げるより少し遅れて、画面の中の俺も右目のない顔を上げた。
「カメラ、どこですか」
村瀬が天井へライトを向ける。
煙感知器の横に、小さな黒い半球が埋まっていた。
「あれか」
「たぶん。だから八って分かったんですかね」
「犬まで数える電話は、駅員じゃないだろ」
高梨の声が低くなる。
水野が受話器を机へ置いた。戻さず、コードを伸ばしたままにする。
「声は人でした」
「人の声ではあった」
神崎が監視盤へ近づくと、隣の画面も点いた。誰もいないホームが映る。柱の表示は二番線だった。時計は六時十二分で止まり、黄色い線だけが濡れたように光っている。
画面が乱れ、地下街の通路へ切り替わった。
赤い駅員旗を持ったゴブリンが二体、柱の陰へ走る。その後ろを、ほかの個体が小さな袋を抱えて追っていた。人間を探している様子ではない。一体が落とした旗が床を滑り、画面の外へ吸われるように消えた。すぐあと、黒い窓の列が通路の向こうを横切った。
「列車?」
美緒が高梨の上着を掴む。
「地下街を走ってる」
「線路もないのに」
水野が画面へ一歩近づいた。
列車の窓はすべて暗い。
運転席らしい先頭部が映ったが、人影はなかった。前照灯だけが白く潰れ、ホームでもない通路を通過していく。
ゴブリンたちは柱へ張りついたまま動かなかった。
列車が消えてからも、しばらく顔を出さない。
「あいつらも逃げてる」
俺の声に、誰も返さなかった。
監視盤の下で赤い明かりが点く。
横長の路線図だった。
現在の久世駅より線が多い。二番線と三番線の下に細い線が回り込み、いくつもの四角を通って輪になっている。
赤い点が、その輪を一つずつ進んでいた。
「これが列車か」
神崎が指で追う。
「なら、中央防災室はどこだ」
水野が路線図の端を探した。
表示の文字は薄れ、一部が剥がれている。
高梨が担架から上半身を起こした。
「右下。白い札の横」
水野がライトを向ける。
小さな四角の下に、中央防災室と書かれていた。
輪になった線の上にある。
「部屋を通るのかよ」
村瀬が監視盤を見た。
「壁の向こうが線路なんじゃないですか」
「だったら、この部屋は線路の脇だ」
高梨は路線図から目を離さない。
「でも電話は、回送を入れるって言った」
壁の向こうを通るだけなら、俺たちへ退避を命じる必要はない。回送が入るのは、この部屋そのものだ。
赤い点が一つ進む。
中央防災室まで、あと三つだった。
「退避先は留置線だったな」
神崎が言う。
「言われたとおりには行かない。ほかの出口を探す」
「三分ですよ」
水野が時計のない壁を見る。
「短くなってるかもしれません」
神崎が監視盤の奥へ走り、村瀬は反対側の毛布と消火器を退け始めた。水野も受話器を机へ残したまま、操作卓へ回る。
俺も立とうとしたが、膝へ力を入れたところで床が揺れた。
「座ってて」
美緒が毛布を俺の肩へかける。
「高梨さんに使え」
「もうある」
担架を見ると、高梨の脚にも別の毛布が載っていた。
いつ掛けたのか分からなかった。
「じゃあ、ちょっとだけ」
美緒は毛布の端を俺の左腕へ押し込み、監視盤へ戻った。
千紘はまだ机の近くにいる。
能力を使い切ったせいか、壁から背を離せていない。それでも受話器のそばで片耳を澄ませていた。
「何か聞こえるか」
「さっきの男の人は、もう」
言葉を切り、千紘が監視盤の奥を見る。
「列車の音はあります。あの壁の後ろを、右から左へ」
「路線図と同じか」
「たぶん。でも、もう一つ音がする」
「何の」
「扉みたいな音です。何枚も、順番に開いてます」
ホームで列車の扉が開く音を思い出した。乗る者のいない扉が、二両ごとに同じ傷を見せていた。監視画面がまた切り替わり、今度は暗い車内が映る。座席に人はいない。
床には赤い駅員旗と、食料の袋が落ちている。ゴブリンが運んでいたものだった。
一番奥の扉が開いた。続いて、その手前の扉。その次。
見えない何かが車両を移り、画面の手前へ向かってくるように。
「消せないんですか」
水野が操作卓のボタンを押したが、手応えはない。赤い点がまた進む。
あと二つ。
「こっち、扉があります!」
村瀬が消火器の脇で声を上げた。
折り畳んだ毛布を退けると、壁と同じ色の細い扉が出てきた。取っ手はなく、中央に丸い金具だけがある。
「バールでいけるか」
「穴が小さすぎます」
水野が操作卓の下をいっぱいまで開けた。鍵はなく、束ねた紙と、赤い柄の金属棒が一本入っている。
「これじゃないですか」
先端は四角く削られていた。村瀬が受け取り、扉の金具へ差したが、半分までしか入らない。
「向きが違う」
高梨が言った。
「一回抜いて、溝を上」
「見えるんですか」
「その棒、昔の防火扉のやつに似てる。たぶんだ」
村瀬が向きを変えると、今度は奥まで入った。
「当たりです」
「回せ」
神崎も扉の前へ戻る。二人で棒を押すと、壁の中で重い留め金が外れた。
同時に電話が鳴った。受話器は机の上に置かれたままだった。水野が振り返る。灰色の本体だけが、短いベルを繰り返している。
『残留、八』
受話器を取っていないのに、男の声が聞こえた。
『移動を確認できません』
「開けろ!」
神崎と村瀬が扉を引く。
冷たい風が入ってきた。
先は、人一人が通れる幅の保守通路だった。片側に低い手すりがあり、その向こうは底の見えない空間へ落ちている。
遠くに二本の黒い線が浮いていた。
線の上を、白い光が動いている。
「担架、通せます」
水野が幅を見て言う。
「ぎりぎりですけど」
路線図の赤い点が、中央防災室の一つ手前へ入った。監視盤の奥で何かが外れ、壁だと思っていた板がわずかに開く。隙間から白い光が差した。
電話のベルは止まらない。千紘が机から離れた。
「来ます」
今度は、能力を使うまでもなかった。




