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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第六章 繰り返すホーム

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第二十八話 線を渡る

 車輪音は一つではなかった。


 薬局の扉の向こうから近づくものと、黒い線の先から来るもの。速さも響く高さも違う。


 逃げたゴブリンは壁へ背をつけたまま動かなかった。


「こいつも渡れないのか」


 神崎が黒い線の手前で止まる。


「渡らないだけかもしれない」


 俺は壁から左手を離せなかった。通路を横切る線は細いが、隠すものが何もない。


 村瀬がバールの先で床を探る。


「線だけ浮いてます。下に溝はないです」


「剥がせそうか」


「やれば。でも、その前に来ます」


 黒い線の上を滑っていったボルトが見えなくなる。車輪音が一度大きくなり、壁の中で向きを変えた。


 ガルが低く唸る。


 薬局側ではなく、反対の搬入口へ顔を向けていた。


「千紘、どっちが先だ」


「今のままだと分かりません」


 片耳のイヤホンを外し、千紘が壁へ手をつく。


「音界地図を使います。これでMPはなくなります」


「使ったあと歩けるか」


「使わなくても、あれが来たら歩けません」


 神崎は一度だけ顔をしかめた。


「一回で見ろ。無理なら言え」


 千紘が折れた傘の柄を構えた。


 叩く前に、逃げたゴブリンが甲高い声を出す。威嚇するように歯を見せたが、視線は傘の先へ向いていた。


「音、増えるの嫌なのかな」


 美緒が高梨の担架の横から言った。


 千紘は傘を下ろさなかった。


「すぐ終わらせる」


 通じるはずのない言葉をゴブリンへ向け、床を一度叩く。


 反響が返る前に、近づく二つの車輪音が重なった。


 千紘の肩が強張る。


 左を向き、次に薬局側へ首を戻した。目は閉じたまま、傘の柄を胸へ引き寄せる。


「前のは床です。もう一つは、薬局の壁を走ってます」


「何秒だ」


「数えられません。後ろの方が先。前は途中で一回曲がる」


 声が少し掠れていた。


「線は?」


「ここでつながってます。隠せば、両方止まると思います」


 千紘が目を開く。


 すぐに壁へ肩をつけた。大きな長靴の踵がずれ、片方の膝が落ちる。


「MP、ゼロです」


 俺は手を伸ばしかけたが、届く前に水野が千紘の腕を取った。


「座る?」


「あとで。今座ったら、立つのに時間かかります」


 水野は手を離さず、周囲へライトを向ける。


 搬入口の脇に、畳んだ黒い板が立てかけられていた。表面へ黄色い筋が入り、端には持ち手がある。


「これ、使えませんか」


 水野が一枚を引き出す。


 床の段差へ敷くゴム板だった。厚さは指二本分ほどあり、裏側には滑り止めの突起が並んでいる。


「線を覆える」


 神崎と村瀬が持ち上げる。


 長さは足りるが、二人で持っても中央がたわんだ。黒い線へ近づけると、薬局側の車輪音が急に高くなる。


「反応してます」


 千紘が水野の腕を掴んだまま言う。


「そのまま置け」


 神崎たちがゴム板を倒す。


 厚い板が黒い線へ重なった。


 逃げたゴブリンが先に動いた。


「待て!」


 神崎の声を無視し、ゴム板の上を駆け抜ける。裸足が黄色い筋を二度踏み、線の向こうへ渡った。


 振り返らない。


 二十メートル先の扉へ走り、取っ手へ飛びついた。開かないと分かると、足元の小さな点検口を蹴り始める。


「渡れる」


 俺が言うと、神崎が首を振った。


「あいつが軽いだけかもしれない。まず一人。走らせるな」


 水野が美緒の肩へ手を置く。美緒はゴム板の前で一度止まり、見えない板の下ではなく、すぐ近くまで来ている車輪音の方を見た。


 ガルが美緒の横へ立った。


 渡るのではなく、鼻先で背中を一度押す。


 美緒は板へ乗り、走らず三歩で向こうへ抜けた。ガルはその場に残った。


 水野が続く。渡り切るとすぐ振り返り、千紘へ手を伸ばした。


「千紘、行けます?」


「右の靴が引っかからなければ」


「そこは自分で何とかして」


「はい」


 千紘の長靴が黄色い筋へ乗った時、薬局の壁が震えた。


 黒い板状の頭が、配線穴から半分だけ出る。


 丸い四肢が壁を削り、ゴム板の端で空回りする。千紘は足を止めず、水野の手を借りて向こうへ下りた。


「止まった!」


 村瀬が声を上げる。


 個体は床へ下りられない。板の縁へ頭を押しつけ、同じ場所で車輪を回し続ける。


「見るのはあとだ。担架を先に通す」


 神崎と村瀬が高梨を持ち上げる。


 ゴム板の幅では、二人が横へ並べない。頭側を神崎が持ち、村瀬は足側を後ろ向きに進む。


「揺らすなよ」


 高梨が言う。


「それは板に言ってください」


 村瀬が一歩乗るたび、ゴムが沈む。


 固定した脚が傾き、高梨の息が止まった。


「下げる?」


「止まるな。行って」


 水野が向こう側から担架の縁を受け取る。


 三人で傾きを戻し、そのまま板を越えた。


 高梨を水野へ預け、神崎と村瀬は板を戻る。


 こちら側に残ったのは俺と神崎、村瀬、ガルだけだった。渡る人数が減るほど、板を押さえる手も減っていく。


 前方の車輪音が近づき、搬入口の内側からもう一つ黒い頭が現れた。最初の個体とは反対側で止まり、ゴム板へ体当たりする。板がこちらへずれ、下から黒い線が細く見えた。


「村瀬、バール!」


 神崎の声が飛ぶ。


 村瀬が担架から離れ、板の持ち手へバールを差し込んだ。線が露出する前に、体重をかけて押し戻す。


 二体が両側から板を削る。


 ゴムの焦げるような匂いがした。


「大月、今だ」


 俺は壁から手を離した。


 一歩目で左脚が遅れる。板へ乗ると、右側で黒い頭が跳ねた。


 見えない。


 身体がそちらへ向きかけ、足裏が黄色い筋から外れた。


「真っ直ぐ!」


 千紘の声が前から来る。


 左だけを見る。


 板の向こうに伸びた千紘の手と、美緒の靴が見えた。そこへ足を出す。


 水野が救助ベルトを掴み、向こうへ引いた。


 板を下りた途端、膝が床へつく。


 美緒が避けるのが少し遅れ、肩へ触れた。


「ごめん」


「大丈夫。ちょっとだけ」


 痛くなかったとは言わなかった。


「神崎、来い!」


 俺が振り返る。


 神崎は先にガルを見た。


「行け」


 ガルは動かない。


 村瀬がバールで板を押さえ、神崎がその肩を支えている。二人が残れば最後に板を押す者がいなくなる。


 ガルはゴム板の端を嗅いだ。


 前脚を載せ、体重をかける。二体がぶつかるたび板が揺れたが、黒い線は隠れたままだった。


「先に村瀬!」


 神崎がバールを受け取り、村瀬が板を渡る。続いてガルが歩き始めた。走らず、脇腹を二体から遠ざけるように身体を斜めにする。


 薬局側の個体が頭を振り、板の端が浮いた。ガルの後脚はまだ残っている。神崎がバールの平たい先を持ち手へ通し、板ごと床へ踏みつけた。


「そのまま行け!」


 ガルが最後の脚を引き抜く。神崎はバールを持ち上げ、その勢いで板を蹴った。黒い線が露出する前に向こう側へ飛び移り、着地した肩を村瀬が受け止める。神崎はそのままバールを返した。


 ゴム板がずれ、黒い線が現れた。二体の軌道型個体が同時に動き出す。


 互いへ向かって。


 板の中央で黒い頭が正面からぶつかり、硬い音が狭い通路を震わせた。


「止まって見るな。扉へ」


 神崎が息を切らしながら言う。


 逃げたゴブリンは、まだ扉の下を蹴っていた。


 上には色の褪せた札がある。


 中央防災室。


 水野が取っ手を確かめ、横の赤い蓋へ気づいた。透明板はすでに割れ、中の非常解錠レバーが露出している。


「開けます」


 レバーを下げると、扉が内側へ少し動いた。ゴブリンが最初に隙間へ身体を入れる。


「待てって言っても待たないよな」


 村瀬が扉を大きく開ける。中は駅の防災設備を集めた部屋だった。壁一面の監視盤は暗い。机、古い無線機、消火器、折り畳んだ毛布が残っている。


 ゴブリンは机の下を抜け、奥の配線蓋を引き剥がした。人間の肩も入らない穴へ潜り、切れた布だけを床へ残す。追う者はいなかった。


 高梨の担架を部屋へ入れ、ガルまで通ったところで村瀬が扉を閉める。外では、ぶつかった二体の車輪がまだ床を削っていた。その音が少しずつ遠ざかる。


 部屋の暗さに目が慣れかけた時、机の上で音が鳴った。古い灰色の電話機だった。一度切れ、また鳴る。


 水野は受話器へ手を伸ばしたが、触れる前に止めた。

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