第二十六話 返された合図
笑い声は長く続かなかった。
正面のシャッターの奥で何かが擦れ、また静かになる。
「返すな。村瀬、そのまま」
神崎の声が低くなる。
村瀬は上げかけた足を戻さず、靴底を浮かせたまま止まっていた。ライトだけを下へ向け、針金の先を追う。
倒れた案内板の裏に、車輪のついた低い台車が隠されていた。上には空の金属箱が積まれ、前輪へ差し込まれた工具が無理に車止めにされている。
針金はその工具へ結ばれていた。
「踏ませる罠じゃないです。向こうが引く」
村瀬が言った途端、針金が少し張った。
靴先の前で、細い線が床から浮く。
「足を取って、台車も出す気か」
「たぶん。切ると工具が抜けます」
俺からは案内板の右端が見えない。覗こうと首だけ先に動き、身体が一拍遅れてついてきた。
壁へ手をつく。指先に力が入らず、手袋がタイルを滑った。
「後ろ、近づいてます」
千紘は案内図へ戻る通路を見たまま言った。
右耳からイヤホンを外し、コードを握っている。
「一人?」
神崎が聞く。
「分からないです。さっきより音が低い。屈んでるかも」
言い終わらないうちに、正面で金属が三度鳴った。
間を空けて二度。
今度は右の店舗から、同じ数だけ返る。
千紘の顔がそちらへ向いた。
「返事じゃない」
「何が違う」
「まだ分かりません。けど、前の音を聞いてから動いてます」
神崎が一度だけ後ろを見る。狭い避難通路へ戻れば、屈んで待つ何かに近づく。ここにいれば、担架ごと台車を受ける。
「水野さん、左の店は入れるか」
左側には古い薬局があった。シャッターは胸の高さで止まり、下に商品棚が倒れている。
水野が店の中へライトを向けた。
「棚を起こせば。奥に従業員口もあったはずです」
高梨が担架の上で息を吐く。
「レジ横の鎖、まだ残ってないか。防火戸の手動用だ」
「見えます。ガラスをどければ届きます」
「素手でやるな。美緒ちゃん、俺の上着を水野さんに渡して」
美緒は抱えていた上着を一瞬見た。
「寒くない?」
「今は邪魔になる」
納得した顔ではなかったが、水野へ渡す。水野は上着を腕へ巻き、割れたガラスを押しのけた。
「村瀬、針金を押さえろ。俺が担架を寄せる。大月は美緒ちゃんと千紘を左へ」
「後ろは」
「俺が見る。お前は右が見えない」
言い返す前に、また三度鳴った。千紘が息を止め、続く二回が来る前に折れた傘の柄を床へ二度打ちつける。
硬い音が二つ、地下街へ走った。
右の店舗で、濁った緑色の腕が動く。
「今です。あれ、最後の二回を待ってた」
針金が強く引かれた。村瀬がバールを寝かせ、床と針金の間へ差し込む。線は靴へ届かず、平たい鉄へ巻きついた。
案内板の裏で工具が抜け、台車が飛び出した。床のわずかな傾斜を拾い、金属箱を鳴らしながらこちらへ走る。思っていたより速い。
神崎が担架の頭側を掴んで左へ引き、水野も薬局から腕を伸ばして足側を引き込む。高梨の固定された脚がシャッターへ当たりそうになった。
「もう少し下げて!」
千紘の声に合わせ、神崎が担架の向きを変えた。
俺は美緒の肩を押して薬局へ入れようとした。右から何かが風を切る。
音より先に、千紘が俺の救助ベルトを掴んだ。
「そっちじゃない!」
身体が左へ崩れた。
短い槍が父の上着を掠め、シャッターへ突き刺さる。穂先は包丁の欠片だった。
右肩を庇って床へ手をつく。左の掌が滑り、肋骨の奥で息が詰まった。
台車が村瀬へ迫る。
村瀬は針金を絡めたバールを捨てず、そのまま横へ引いた。台車の前輪が針金へ乗り上げ、倒れた案内板へ斜めにぶつかる。
積まれていた金属箱が散った。
箱の一つが俺の脚へ当たったが、痛みを確かめる暇はなかった。暗い店舗から、小柄な影が二つ出る。
一体は駅の出口表示を切った板を盾にし、もう一体は赤い駅員旗を持っていた。
旗が下がる。
正面のシャッターの下から石が飛んだ。
「顔を伏せろ!」
神崎の声と同時に、ヘルメットへ硬いものが当たる。
美緒が薬局の棚の陰へしゃがんだ。水野は高梨の固定した脚を抱え、シャッターへ当たらないよう手前へ寄せる。
ガルが右の店舗との間へ入った。
走ってはいない。脇腹を庇いながら身体を横へ向け、通路を塞ぐ。喉の奥から出た音で、盾を持つゴブリンの足が止まった。
そいつは逃げなかった。
盾の縁から短い鉄棒を出し、ガルの顔へ振る。
ガルは頭を引いた。鉄棒が床を叩く。
踏み込もうとして、前脚が一度止まる。白い伸縮帯の端に赤が滲んだ。
「ガル、行くな!」
俺の声に従ったわけではない。
ガルはその場で牙を見せ、薬局の入口から離れなかった。
三度、二度。
赤い旗の柄が床を叩く。
正面から石が一つ飛び、右の盾持ちがガルの脇へ回ろうとした。ガルが入口へ身体を寄せると、すぐ外へ戻る。
「それが合図です!」
千紘が傘の柄を握り直す。
次に三度鳴る。
その二度を待たず、千紘が同じ間隔で床を二度叩いた。
盾のゴブリンが先に飛び出した。
仲間の音だと思ったのか、こちらを見たまま薬局へ走る。だが、正面から石は来ない。赤い旗も上がったままだった。
ゴブリンが途中で足を止める。
村瀬が横からバールを振った。
盾ではなく、突き出していた鉄棒を叩き落とす。神崎が背後へ回り、救助ベルトを腕ごと身体へ巻きつけた。
小さな身体が暴れる。
爪が神崎の手袋を掻き、耳元で甲高い声が鳴った。言葉には聞こえない。怒鳴り声とも、仲間を呼ぶ音ともつかなかった。
「噛むぞ」
「分かってる。村瀬、脚」
村瀬が足首を押さえる。
俺も起き上がろうとしたが、左手が床から離れなかった。腕へ力を入れると視界が狭くなり、薬局の白い棚がゆっくり傾く。
「そのままでいて」
千紘がこちらを見ずに言う。
折れた傘の先は正面へ向いたままだった。
「今、前が下がってます。右はまだいます」
「後ろは?」
神崎に聞かれ、千紘は一度だけ避難通路へ顔を向けた。
「動いてません」
水野が薬局の奥から鎖を見つけた。
「下ろします。そこ、頭を入れないでください」
鎖を引くと、天井の防火戸がゆっくり落ち始める。錆びた音が地下街へ響き、右の店舗にいた影が奥へ引いた。
正面から赤い旗だけが見える。
左右へ一度振られ、そのまま暗がりへ消えた。
「村瀬、そいつを中へ。殺すな。まだだ」
「暴れますよ」
「だから先に入れろ」
村瀬がゴブリンの脚を持ち上げ、神崎と二人で薬局へ引く。ガルは入口を空けなかった。拘束されたゴブリンを見下ろし、唸り声を少し強くする。
首ではなく、腕へ巻かれた救助ベルトを見ていた。
「金具は外せ」
俺が言うと、神崎がこちらを見る。
「逃げるぞ」
「音が嫌いなんだ。布だけにしろ」
ガルの耳が後ろへ伏せている。
神崎は一瞬迷い、ベルトの金具を外した。代わりに高梨の上着を裂かず、商品棚から落ちていた厚い布を腕へ巻く。
「これでいいか」
「俺に聞くな」
ガルの唸りは止まらなかった。それでも薬局の外へ戻り、暗い店舗へ顔を向ける。
防火戸が腰の高さまで下りた。
その下から、散らばった金属箱と倒れた台車が見える。ゴブリンの姿はない。
千紘がやっと傘の柄を下ろした。
「三か所じゃなかった」
「増えたのか」
「最初からです。近い音しか拾えてなかった」
地下街の奥で、何かが床を叩いた。
三回、二回。
少し離れた店からも返る。
さらに奥から、もう一つ。
防火戸のこちら側で、捕まえたゴブリンが笑い始めた。
さっき聞いたものより高く、息の足りない声だった。
神崎と村瀬に押さえられたまま、そいつは俺たちではなく、暗い地下街の方を見ていた。




