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現実世界にダンジョンが現れたが、俺は誰にも従わない ~家の裏の第零迷宮から世界を攻略する~  作者: HATENA 
第六章 繰り返すホーム

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第二十六話 返された合図

 笑い声は長く続かなかった。


 正面のシャッターの奥で何かが擦れ、また静かになる。


「返すな。村瀬、そのまま」


 神崎の声が低くなる。


 村瀬は上げかけた足を戻さず、靴底を浮かせたまま止まっていた。ライトだけを下へ向け、針金の先を追う。


 倒れた案内板の裏に、車輪のついた低い台車が隠されていた。上には空の金属箱が積まれ、前輪へ差し込まれた工具が無理に車止めにされている。


 針金はその工具へ結ばれていた。


「踏ませる罠じゃないです。向こうが引く」


 村瀬が言った途端、針金が少し張った。


 靴先の前で、細い線が床から浮く。


「足を取って、台車も出す気か」


「たぶん。切ると工具が抜けます」


 俺からは案内板の右端が見えない。覗こうと首だけ先に動き、身体が一拍遅れてついてきた。


 壁へ手をつく。指先に力が入らず、手袋がタイルを滑った。


「後ろ、近づいてます」


 千紘は案内図へ戻る通路を見たまま言った。


 右耳からイヤホンを外し、コードを握っている。


「一人?」


 神崎が聞く。


「分からないです。さっきより音が低い。屈んでるかも」


 言い終わらないうちに、正面で金属が三度鳴った。


 間を空けて二度。


 今度は右の店舗から、同じ数だけ返る。


 千紘の顔がそちらへ向いた。


「返事じゃない」


「何が違う」


「まだ分かりません。けど、前の音を聞いてから動いてます」


 神崎が一度だけ後ろを見る。狭い避難通路へ戻れば、屈んで待つ何かに近づく。ここにいれば、担架ごと台車を受ける。


「水野さん、左の店は入れるか」


 左側には古い薬局があった。シャッターは胸の高さで止まり、下に商品棚が倒れている。


 水野が店の中へライトを向けた。


「棚を起こせば。奥に従業員口もあったはずです」


 高梨が担架の上で息を吐く。


「レジ横の鎖、まだ残ってないか。防火戸の手動用だ」


「見えます。ガラスをどければ届きます」


「素手でやるな。美緒ちゃん、俺の上着を水野さんに渡して」


 美緒は抱えていた上着を一瞬見た。


「寒くない?」


「今は邪魔になる」


 納得した顔ではなかったが、水野へ渡す。水野は上着を腕へ巻き、割れたガラスを押しのけた。


「村瀬、針金を押さえろ。俺が担架を寄せる。大月は美緒ちゃんと千紘を左へ」


「後ろは」


「俺が見る。お前は右が見えない」


 言い返す前に、また三度鳴った。千紘が息を止め、続く二回が来る前に折れた傘の柄を床へ二度打ちつける。


 硬い音が二つ、地下街へ走った。


 右の店舗で、濁った緑色の腕が動く。


「今です。あれ、最後の二回を待ってた」


 針金が強く引かれた。村瀬がバールを寝かせ、床と針金の間へ差し込む。線は靴へ届かず、平たい鉄へ巻きついた。


 案内板の裏で工具が抜け、台車が飛び出した。床のわずかな傾斜を拾い、金属箱を鳴らしながらこちらへ走る。思っていたより速い。


 神崎が担架の頭側を掴んで左へ引き、水野も薬局から腕を伸ばして足側を引き込む。高梨の固定された脚がシャッターへ当たりそうになった。


「もう少し下げて!」


 千紘の声に合わせ、神崎が担架の向きを変えた。


 俺は美緒の肩を押して薬局へ入れようとした。右から何かが風を切る。


 音より先に、千紘が俺の救助ベルトを掴んだ。


「そっちじゃない!」


 身体が左へ崩れた。


 短い槍が父の上着を掠め、シャッターへ突き刺さる。穂先は包丁の欠片だった。


 右肩を庇って床へ手をつく。左の掌が滑り、肋骨の奥で息が詰まった。


 台車が村瀬へ迫る。


 村瀬は針金を絡めたバールを捨てず、そのまま横へ引いた。台車の前輪が針金へ乗り上げ、倒れた案内板へ斜めにぶつかる。


 積まれていた金属箱が散った。


 箱の一つが俺の脚へ当たったが、痛みを確かめる暇はなかった。暗い店舗から、小柄な影が二つ出る。


 一体は駅の出口表示を切った板を盾にし、もう一体は赤い駅員旗を持っていた。


 旗が下がる。


 正面のシャッターの下から石が飛んだ。


「顔を伏せろ!」


 神崎の声と同時に、ヘルメットへ硬いものが当たる。


 美緒が薬局の棚の陰へしゃがんだ。水野は高梨の固定した脚を抱え、シャッターへ当たらないよう手前へ寄せる。


 ガルが右の店舗との間へ入った。


 走ってはいない。脇腹を庇いながら身体を横へ向け、通路を塞ぐ。喉の奥から出た音で、盾を持つゴブリンの足が止まった。


 そいつは逃げなかった。


 盾の縁から短い鉄棒を出し、ガルの顔へ振る。


 ガルは頭を引いた。鉄棒が床を叩く。


 踏み込もうとして、前脚が一度止まる。白い伸縮帯の端に赤が滲んだ。


「ガル、行くな!」


 俺の声に従ったわけではない。


 ガルはその場で牙を見せ、薬局の入口から離れなかった。


 三度、二度。


 赤い旗の柄が床を叩く。


 正面から石が一つ飛び、右の盾持ちがガルの脇へ回ろうとした。ガルが入口へ身体を寄せると、すぐ外へ戻る。


「それが合図です!」


 千紘が傘の柄を握り直す。


 次に三度鳴る。


 その二度を待たず、千紘が同じ間隔で床を二度叩いた。


 盾のゴブリンが先に飛び出した。


 仲間の音だと思ったのか、こちらを見たまま薬局へ走る。だが、正面から石は来ない。赤い旗も上がったままだった。


 ゴブリンが途中で足を止める。


 村瀬が横からバールを振った。


 盾ではなく、突き出していた鉄棒を叩き落とす。神崎が背後へ回り、救助ベルトを腕ごと身体へ巻きつけた。


 小さな身体が暴れる。


 爪が神崎の手袋を掻き、耳元で甲高い声が鳴った。言葉には聞こえない。怒鳴り声とも、仲間を呼ぶ音ともつかなかった。


「噛むぞ」


「分かってる。村瀬、脚」


 村瀬が足首を押さえる。


 俺も起き上がろうとしたが、左手が床から離れなかった。腕へ力を入れると視界が狭くなり、薬局の白い棚がゆっくり傾く。


「そのままでいて」


 千紘がこちらを見ずに言う。


 折れた傘の先は正面へ向いたままだった。


「今、前が下がってます。右はまだいます」


「後ろは?」


 神崎に聞かれ、千紘は一度だけ避難通路へ顔を向けた。


「動いてません」


 水野が薬局の奥から鎖を見つけた。


「下ろします。そこ、頭を入れないでください」


 鎖を引くと、天井の防火戸がゆっくり落ち始める。錆びた音が地下街へ響き、右の店舗にいた影が奥へ引いた。


 正面から赤い旗だけが見える。


 左右へ一度振られ、そのまま暗がりへ消えた。


「村瀬、そいつを中へ。殺すな。まだだ」


「暴れますよ」


「だから先に入れろ」


 村瀬がゴブリンの脚を持ち上げ、神崎と二人で薬局へ引く。ガルは入口を空けなかった。拘束されたゴブリンを見下ろし、唸り声を少し強くする。


 首ではなく、腕へ巻かれた救助ベルトを見ていた。


「金具は外せ」


 俺が言うと、神崎がこちらを見る。


「逃げるぞ」


「音が嫌いなんだ。布だけにしろ」


 ガルの耳が後ろへ伏せている。


 神崎は一瞬迷い、ベルトの金具を外した。代わりに高梨の上着を裂かず、商品棚から落ちていた厚い布を腕へ巻く。


「これでいいか」


「俺に聞くな」


 ガルの唸りは止まらなかった。それでも薬局の外へ戻り、暗い店舗へ顔を向ける。


 防火戸が腰の高さまで下りた。


 その下から、散らばった金属箱と倒れた台車が見える。ゴブリンの姿はない。


 千紘がやっと傘の柄を下ろした。


「三か所じゃなかった」


「増えたのか」


「最初からです。近い音しか拾えてなかった」


 地下街の奥で、何かが床を叩いた。


 三回、二回。


 少し離れた店からも返る。


 さらに奥から、もう一つ。


 防火戸のこちら側で、捕まえたゴブリンが笑い始めた。


 さっき聞いたものより高く、息の足りない声だった。


 神崎と村瀬に押さえられたまま、そいつは俺たちではなく、暗い地下街の方を見ていた。

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