第二十五話 同じ三番線
扉の向こうから続く灰白色の粒は、三番線の端を通り、下りてきた階段の前まで伸びていた。
途中には俺たちの靴跡がある。
大きなゴム長靴を引きずった千紘の跡も、ガルが白い粒を避けた跡も残っている。見覚えがあるというより、数分前につけたばかりだった。
「回って戻ったのか」
水野が保守通路と階段を見比べる。
「曲がってません。設備室は真っ直ぐでした」
千紘は片方だけ大きい長靴を床へ擦り、足跡を確かめた。踵が浮くたび、ゴムが遅れて鳴る。
神崎が担架を下ろさせた。
「全員、ここで止まれ。高梨さん、痛みは」
「増えてます。爪先は動きます」
「吐き気」
「ないです」
村瀬が固定した足首と爪先を確認する。その横で、水野は高梨に残っていた水を一口だけ飲ませた。
俺はバールを床へついた。
柄を握っている感覚が薄い。手袋越しに指を動かし、落とさない位置を探っていると、村瀬が手を出した。
「さっき落としました」
「今は持ってる」
「次は今です」
言い方が少し違うと思ったが、直す気にはならなかった。
左手を開く。村瀬がバールを受け取り、自分の救助ベルトへ通した。
「返せる時に返します」
「なくすなよ」
「大月さんの物じゃなくて、元は消防のです」
第一層へ置いてきたものを神崎が持ち帰ったので、忘れていた。
何も持たなくなると、身体の揺れが余計に分かる。壁へ左肩をつけても、呼吸のたびに背中が壁を擦った。
ガルも先へ行かなかった。
伸縮帯を巻かれた脇腹を壁から離し、ホームの中央へ伏せている。呼吸はさっきより遅い。走る気配はないが、耳だけは保守通路の出口へ向いていた。
美緒が近づきすぎない場所へ座る。
「白いの、ここにもあるね」
「俺たちが撒いたやつだ」
「じゃあ、ずっと同じところ?」
答えられず、灰白色の跡を見る。
同じ場所なら、排水設備室の入口も見えるはずだった。だが、ホームにある扉は一つだけで、今出てきた側にしかない。
「同じに見える別のホームかもしれません」
千紘がスマートフォンを出す。
「音界地図を使います。残り四になります」
「一回で見ろ。分からなければ、無理に続けるな」
神崎に言われ、千紘は折れた傘の柄を柱へ当てた。一度目は小さく鳴らす。反響が消える前に少し高さを変え、もう一度叩いた。視線をホームの左右へ動かし、途中で目を閉じて右耳のイヤホンへ指を添える。
「階段と設備室は、後ろでつながってます」
「後ろ?」
「壁の向こうです。真っ直ぐ歩いたはずなのに、途中から曲げられてる。たぶん、ホームを一周してます」
水野が壁を叩いた。
「こんな薄い壁の中を?」
「距離もそのままじゃないです。音が重なって、同じ柱が二か所にあります」
千紘の眉が寄る。
「気持ち悪い」
能力の説明ではなく、その言葉が先に出た。
少し待ってから、ホームの中央にある古い構内案内図へ顔を向ける。
「あそこだけ、返ってきません」
壁へ貼られた案内図は、茶色く変色したアクリル板で覆われていた。現在地を示す赤い丸は三番線にある。出口、改札、地下商店街へ伸びる線のほとんどが、剥がれた紙で読めない。
「空洞か」
「音を吸ってるだけかもしれません。でも、ほかの壁とは違います」
「MPは」
「四です」
千紘が表示を確かめ、スマートフォンをポケットへ戻す。
神崎と村瀬が先に案内図へ向かった。俺も壁から離れようとしたが、神崎の手が上がる。
「大月は担架の左」
「見に行くだけだ」
「見たあと触るだろ」
否定できず、高梨の横へ移る。
水野が案内図の端を撫でた。
「これ、地図を貼ってるだけじゃない。枠が扉になってます」
「今の久世駅にもあるのか」
「似た点検口はあります。でも、客から見える場所には出してません」
高梨が担架から首を上げる。
「昔の避難通路じゃないか。改装前の図面に、ホームから地下街へ抜ける横穴があった」
「埋めたやつ?」
「今の駅では。ここが同じかは知らない」
水野の鍵束は、枠の小さな鍵穴へ入らなかった。
村瀬がバールの先を差し込もうとする。枠の下で止まり、ライトを近づけた。
「一度じゃないですね」
ネジの頭が削れ、アクリル板の角には新しい擦り傷が重なっている。床へ落ちた錆の上には、小さな裸足の跡があった。
人間の子供より幅が広く、指が長い。
ガルが立った。
走らず、案内図から三歩離れたところまで来る。鼻先を床へ近づけると、圧迫帯の下で腹が動いた。
「いるのか」
俺が聞くと、ガルは案内図を見ず、ホームの暗い端へ顔を向けた。
見張られている。
そう思って左目を凝らしても、人影はなかった。
「開ける。村瀬、上だけ浮かせろ。水野さんは鍵の側を押さえて」
神崎は案内図の正面へ立たず、端から手をかけた。村瀬がバールを差し込み、枠を少しだけ浮かせる。
隙間から冷たい風が出た。
ガルが唸らない。
「向こうを確認します」
村瀬がライトだけを差し入れ、枠の上下へ光を振る。
「通路。床は乾いてます。正面、十メートルくらいでシャッターです。動くものは見えません」
「開けろ」
二人が枠を引く。
案内図ごと壁が内側へ開いた。
裏には狭い通路があった。天井は低く、両側へ古い配線が垂れている。奥のシャッターは腰の高さまで持ち上げられ、その向こうに店の看板らしいものが見えた。
床の端には、飲料の空き容器、切れた布、錆びたボルトがまとめて寄せられている。
迷宮が散らしたものには見えない。
誰かが通る場所だけを空けていた。
「先に俺と村瀬。三枝さんは入口で音を聞け。大月は――」
「担架の左だろ」
「分かってるなら言わせるな」
神崎と村瀬が半身だけ通路へ入る。
ガルはあとを追わなかった。案内図の横へ座り、俺たちが動き始めるのを待っている。
担架を持ち上げる。
俺は左側を歩くだけだったが、狭い通路では高梨の肩が壁へ触れそうになる。右側の距離が分からず、水野の声に合わせて身体を寄せた。
「あと少し左。そこで真っ直ぐです」
美緒は高梨の上着を抱え、千紘の後ろを歩く。大きな長靴が配線へ引っかかるたび、千紘は足を上げ直した。
十メートルほど進み、シャッターの前で止まる。
向こうは地下商店街だった。
天井から垂れた案内板には「久世地下街」とある。半分の店はシャッターが閉まり、開いている店も商品棚が倒れていた。
ただ、荒れ方がおかしい。
菓子店の棚から、袋に入った物だけが抜かれている。工具店の正面には、空になった金属箱が積まれていた。衣料品店の前では、切った布が太さごとに分けて束ねられている。
水野が小さく息を呑む。
「駅の備品があります」
閉じた店の前へ、赤い駅員旗と誘導灯が立てかけられていた。どちらも持ち手へ布が巻かれ、小さな手でも握れる太さに変えられている。
ガルが通路の奥で立ち止まった。
圧迫帯を巻いた脇腹を庇い、伏せるまではしない。鼻先だけを右の店舗へ向けている。
「何匹だ」
神崎が低く聞く。
答えはない。
千紘がイヤホンを外した。
「三か所。右の店と、正面のシャッターの奥。もう一つは後ろ……」
全員が案内図の通路を振り返る。
何もいない。
「音界地図は使ってません。今、床を踏んだ音です」
千紘は声を落としたまま、右の店舗を見る。暗いショーウィンドウの下で何かが動き、濁った緑色の指が床に置かれた細い針金を引いた。
村瀬が足を止めた。靴先から十センチも離れていない場所に針金が張られている。先は倒れた案内板の裏へ続いていた。
「罠です」
神崎が担架を下げさせる。
暗がりの中で金属が鳴った。
三回。
少し間を空けて、二回。
救助班が地下二階で使った合図と同じだった。
「反響じゃないです」
千紘が言う。
正面のシャッターの奥から、もう一度、三回と二回が返った。
今度は最後に、低い笑い声が混じっていた。




