第二十四話 スライム
千紘の靴先で、水が膨らんだ。
透明な膜がつま先を覆い、靴紐の間へ入り込む。水とは違う粘り方だった。
「足を引け!」
千紘が後ろへ下がろうとする。
靴だけが床へ残った。
身体が傾き、俺は左腕を掴んだ。右肩へ遅れて痛みが走る。千紘は靴から踵を半分抜いたまま踏みとどまり、透明なものを床ごと引き延ばした。
千紘を離しても、左手の指がすぐには開かなかった。地下の冷気とは違う冷たさが、指先から手首まで残っている。
ガルが前へ出る。
「噛むな」
透明な膜へ鼻を近づけたところで、ガルも顔を背けた。濡れたコンクリートの臭いに、酸っぱい薬品のようなものが混じっている。
「そのまま動かすな」
神崎が救急ポーチから吸水パッドを抜き、千紘の靴の前へ広げた。
「三枝さん、これを踏めるか」
「靴が動きません」
「足だけ抜くぞ」
俺が脇を支え、神崎が靴の踵を押さえた。
千紘の足が靴下ごと抜ける。
透明な塊が靴を包んだまま盛り上がった。吸水パッドへ触れた部分だけが白く濁り、薄く広がっていた身体が一か所へ寄っていく。
中に灰色の丸いものが見えた。
「石?」
美緒が担架の横から言った。
丸いものは塊の中を逃げるように動いている。
バールを振り上げかけ、止めた。右腕では下ろせない。左だけで叩けば、粘液を周りへ飛ばす。
平たい先を床へ滑らせる。
吸水パッドごと透明な塊を押さえ、灰色の核へ先端を重ねた。
「三枝、足を離せ」
「もう離してます」
千紘は靴下の足を浮かせていた。
バールを靴底で踏む。
硬いものが割れた。
透明な塊が動きを止め、吸水パッドの上へ崩れる。靴へ絡んでいた膜も水のように薄くなったが、ゴムの表面には細かな穴が残った。
視界の中央へ文字が浮かぶ。
――――――――――
通常種を討伐しました。
――――――――――
「スライム……」
口から出た名前に、水野が保守通路を見る。
「あれが?」
「そう出た」
千紘も何もないところを見ていた。
「レベルが二になりました」
驚くより先に、指が宙を動く。
「ポイント、一」
「取れるぞ」
言い終わる前に、千紘は表示へ触れていた。
短く息を止め、今度は右耳のイヤホンを外す。
「音界地図、取れました。音を出すと、返ってきた場所が少し残るみたいです。消費は二」
「今の残りは」
「八です。最大が十になって、今は八」
最大値が増えても、現在MPは八のままらしい。
神崎が溶けかけた靴へライトを向ける。
「歩けるか」
千紘は足を戻した。体重をかけると靴底が少し沈む。
「走らなければ」
「走ることになったら脱げ。水野さん、倉庫か何か分かるか」
半分開いた扉の向こうは、膝下ほどの高さまで暗い水が溜まっている。左右の壁へ配管が走り、奥には金属棚と黄色い扉が見えた。
水野は鍵束を持ったまま、扉の表示を拭う。
「排水設備室です。今の駅とは位置が違いますけど、中に吸着材と手動の排水弁があるはずです」
高梨が担架から顔を向けた。
「古い型なら、弁は奥じゃない。入口の右に盤がある」
「見えるか?」
「扉の裏です。たぶん」
水野が半開きの扉をさらに引く。
すぐ裏に灰色の盤があった。取っ手を回して開くと、黄色いハンドルが一つ入っている。
「これだ」
「まだ回すな」
神崎が止めた。通路の水面に、細い盛り上がりがいくつもできている。
一つではない。奥からこちらへ、透明な筋が重なりながら動いてきた。
「下がれ。担架を階段側へ」
村瀬と水野が高梨を運ぶ。美緒も上着を抱えて続こうとして、ガルの前に置いたガーゼを振り返った。
白い布が水に引かれている。
「ガルの、動いてる」
ガルが先に気づいた。顎を上げ、ガーゼから離れる。
布の下で透明なものが膨らんでいた。ホームの排水溝から細い膜が伸び、ガルの血を吸ったガーゼへ絡みついている。
ガルが前脚を上げる。
「踏むな。血に寄ってる」
足は下りなかった。
代わりに、ガルは横の金属製ベンチへ身体を当てた。脚が床を擦り、大きな振動がホームへ走る。
ガーゼを包んでいた塊が止まった。
透明な膜がベンチの方へ細く伸びる。
「音じゃない」
千紘が折れた傘の柄を床へ落とした。軽い音には反応しない。
「床の揺れを追ってます」
「なら、寄せられる」
村瀬がすぐ担架の頭側へ回り、水野も高梨の足元を持った。美緒は抱えていた上着を胸へ寄せ、二人が動かす前に階段へ上がる。
神崎は三人が水から離れるのを見て、高梨へ顔を向けた。
「排水弁を開けたら、どう流れる」
「水が排水槽へ落ちます。動けばですけど。入口から奥へ流れるはずです」
「排水槽は」
「黄色い扉の手前。床に大きい格子がある」
通路の水が扉を越え始めた。
スライムの核らしい灰色が、近いものだけでも四つ見える。水へ沈むたび位置が分からなくなった。
水野が盤のハンドルへ手をかける。
「回しますか」
神崎はすぐ答えず、通路と階段を見た。
「三枝さん。中の広さを見られるか」
千紘が片方のイヤホンを耳へ入れ、傘の柄で扉の金属枠を叩いた。
澄んだ音が配管と水面を走る。
千紘の目が見えない線を追った。顔が右へ、次に奥へ動く。
「黄色い扉まで十五メートルくらい。右の壁に棚が二つ。床の格子は扉のすぐ前です」
「核は」
「四つ……違う。右の排水溝にもう一ついます。水の中だと輪郭が広がって、場所がずれます」
千紘がこめかみを押さえた。
「MPは六。続けては使わない方がいいです」
「一回で十分だ。水野さん、開けてくれ」
黄色いハンドルが回る。
最初は何も起きなかった。
水野が両手で力をかける。錆びた軸が鳴り、通路の奥から低い音が返った。
床の水が動く。
俺たちの足元から離れ、黄色い扉の方へゆっくり流れ始めた。
透明な膜も一緒に引かれる。
「棚まで行けるか」
神崎に聞かれ、水野は濡れた床を見た。
「長靴があれば」
「俺が行く」
「その肩で?」
「左は動く」
「一人では行かせん。俺と並べ」
神崎が俺の腰の簡易ベルトを掴んだ。
「腕が止まったら、ワイパーを離せ。倒れるまで持つな」
返してから、一歩入ろうとした。
「駄目です」
千紘が腕を伸ばした。
「右の排水溝にいた一つ、入口の下へ来てます」
足を止める。
水面だけでは何も見えない。
バールの先で床を探ると、透明な膜が鉄へまとわりついた。引き上げた表面から細い煙が出る。
そのまま入っていれば、足首まで包まれていた。
「先に入口を乾かす」
神崎が救急ポーチの残りを見た。吸水パッドは数枚しかない。
高梨が階段から声を出す。
「中の棚。液体用の吸着材があるはずです。白か灰色の袋」
「取りに行くために必要なんだ」
水野が言う。
「扉の裏を見ろ。保守用の柄、掛かってないか」
村瀬が扉をいっぱいまで開く。
裏側に、長い水切りワイパーが二本掛かっていた。
神崎が一本を外し、透明な膜の下へ差し込む。ゴムの先へ粘液が絡み、入口から奥へ押されていく。
俺ももう一本を取った。
「大月、無理に速く押すな。散る」
「分かってる」
二本を並べ、床の水ごとゆっくり押す。
粘液は左右へ逃げようとした。神崎が壁側を塞ぎ、俺が排水溝側から中央へ寄せる。
右肩は使えない。左腕だけで柄を押すたび、肋骨の奥が痛んだ。
五歩進んだところで、棚へ手が届く。
白い袋が二つあった。
水野が後ろから来ようとする。
「そこにいろ。袋だけ送る」
一つをワイパーの柄へ引っかけ、入口へ滑らせる。村瀬が受け取り、封を切った。
灰白色の粒が床へ落ちる。
濡れたところから塊になり、透明な膜の動きが鈍くなった。
「全部撒くな。排水槽の前に残せ」
神崎はもう一つの袋を自分で持った。奥へ進むほど水の流れが強くなる。灰色の核が一つ、俺のワイパーを避けて左の壁へ寄り、配管の根元にある細い溝へ入り込んだ。
ガルが階段から低く唸った。俺ではなく、壁の上を見ている。核を追って顔を上げると、透明な膜が配管を伝い、右側から頭上へ回っていた。
見えた時には近い。
身体が先に下がった。膜の先端が頬の前を落ち、父の上着へ触れる。布が湿った直後、焦げたような穴が開いた。
神崎が吸着材を掴み、膜へ投げる。
灰白色の粒を巻き込み、透明なものが床へ落ちた。
「前だけ見るな!」
「見えてなかった」
言い返し、ワイパーで塊を排水槽側へ押す。
黄色い扉の前に、大きな格子が見えた。流された粘液が集まり、灰色の核が四つ、五つとぶつかっている。
神崎が残りの吸着材を格子へ撒いた。
粘液が水を失い、白く濁る。
「核が出ます! 左に二つ、格子の奥に一つ。右のはまだ壁です!」
千紘の声が入口から届く。
位置が分かれば、俺の左手だけで全部を追う必要はない。神崎のワイパーも、入口にいる村瀬の柄も同じ格子へ届く。
俺は左の二つへバールを滑らせ、一つ目を踏み割った。二つ目は粘液の中で逃げたが、神崎のワイパーが進路を塞ぎ、戻ってきたところへバールを落とす。
格子の奥には届かない。村瀬が入口に残っていたワイパーの柄を伸ばし、隙間へ押し込むと、核が手前へ転がった。
「大月!」
靴底で割った。その時、右の壁から透明な塊が落ちた。神崎の肩へ向かっていた。
ガルがまたベンチを蹴った。大きな振動がホームから通路へ入り、落ちかけた塊が途中で形を変える。入口側へ薄く伸びたところで、神崎が身体を外し、ワイパーで格子へ叩き落とした。
残った核が二つ、白い粘液の中で重なった。バールの平たい先を載せ、今度は一度で踏み抜く。通路の水から力が抜け、粘りのあった膜が崩れて排水槽へ流れていった。
視界へ新しい表示が重なった。
――――――――――
沈降駅迷宮・第三ホーム保守区画の危険度が低下しました。
レベルが上がりました。
Lv.8 → Lv.9
最大HP 88 → 94
最大MP 22 → 24
未配分能力値を4獲得しました。
スキルポイントを1獲得しました。
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現在HPは二十五、MPは二のままだった。
息を吐くと、右肩だけでなく左腕まで重くなっている。左手を開こうとすると、薬指だけが一拍遅れた。
水切りワイパーを壁へ立てかけ、バールを拾おうとする。指が柄を弾き、一度床へ落とした。
村瀬が先に屈む。
「次に落としたら、俺が持ちます」
「まだ持てる」
「次に、です」
左手で掴み直した。今度は指を一本ずつ柄へ巻きつける。
「終わった?」
美緒が階段から覗く。
「ここのは」
俺が答えると、ガルが先に通路へ入った。白く濁った水を避け、乾いた部分だけを選んで歩く。
千紘は片足を引きずりながら、その後ろへ続いた。
「靴、替わるものを探せ」
「先に出口です」
「その靴で走れないだろ」
「走らないで済む道を探します」
言いながらも、金属棚の下にあった黒いゴム長靴を見つけると足を止めた。左右を確かめ、傷んだ靴だけを脱いで履き替える。
サイズが大きく、一歩ごとに踵が浮いた。
ガルは排水槽の手前で止まっていた。呼吸のたびに脇腹の毛が開き、乾きかけた血の下から新しい赤が滲んでいる。
「今度は処置する」
神崎が言うと、ガルの唇が上がった。
「押さえたら暴れる」
「なら、お前が前にいろ。村瀬、洗浄液と圧迫材」
ガルの正面へしゃがむ。冷えた左手を見せると、鼻先が近づき、すぐに離れた。
「触るのは脇腹だけだ。終わったら離れる」
通じたとは思わない。それでもガルは伏せず、俺を見たまま四本の脚で立っていた。
村瀬が少し離れた位置から洗浄液を傷へ流す。ガルの背が跳ね、喉の奥で音が鳴ったが、噛みつかなかった。
汚れを落とし、厚い圧迫材を脇腹へ当てる。幅の広い伸縮帯を腹へ回す時だけガルが一歩動き、美緒が階段から名前を呼んだ。
「ガル。もうちょっとだけ」
耳が美緒へ向く。
村瀬が帯を留めるまで、今度は動かなかった。
「応急処置です。走ればまた開きます」
ガルは身体を振ろうとして途中でやめた。巻かれた帯を一度嗅ぎ、俺たちから離れて奥の扉へ向かう。
高梨の担架を通路へ運び入れる。
排水設備室の奥には、もう一つ扉があった。水野の鍵は合わなかったが、神崎と村瀬が押すと錆びた枠ごと外れる。
向こうにもホームが見えた。
柱の表示は三番線。
床には、さっき撒いた灰白色の吸着材が細く続いている。
俺たちが入ってきた階段の前まで、反対側から。




