第二十三話 帰る道
階段の暗がりから返った音は、一度きりだった。
人が叩いたなら、こちらの明かりは見えているはずだ。それでも呼ぶ声も、上がってくる足音もない。
ガルは二段下で止まり、鼻先を低くしたまま動かなかった。
「戻れ」
神崎が呼ぶと、ガルは階段ではなく俺を見た。
「俺に言っても聞かない」
「知ってる。お前よりはましかと思った」
ガルはもう一度下を嗅ぎ、自分でホームへ戻ってきた。担架の後ろを通り、美緒が置いた上着の近くで伏せる。
脇腹の毛は濡れたままだ。血が止まったようには見えない。
神崎は腕時計を見た。
「あと二分休む。村瀬、高梨さんの足。水野さんは水を少しずつ飲ませてくれ」
「先にガルを」
美緒が言った。
「触らせてくれない。近づけば余計に動く」
「置くだけなら?」
神崎は救急ポーチから厚いガーゼを一枚出した。美緒へ渡しかけ、途中で手を止める。
「足元に置けるか。身体には触るなよ」
美緒はガーゼを両手で持ち、ガルの正面から回り込もうとした。牙が少し見え、すぐに足を止める。
今度は後ろへ下がり、伏せたガルから腕一本分離れた場所へガーゼを置いた。
「ここ。使わなくてもいいから」
ガルは見もしなかった。
美緒が離れてから、前脚だけを伸ばす。爪の先でガーゼを引き寄せ、鼻先を一度押しつけた。
傷には当てず、その上へ顎を載せる。
「それじゃ止まらないよ」
美緒は不満そうだったが、もう近づかなかった。
高梨が水を一口飲む。水野がボトルを傾けすぎ、口の端からこぼれた。
「悪い」
「揺らすよりましです。足、さっきより熱いんですけど」
村瀬が靴紐を緩め、固定に使ったベルトへ指を入れる。
「締まりすぎてはいません。爪先の感覚は?」
「あります。痛いのも」
「それは消えない方がいいです」
高梨は笑おうとして、息だけを吐いた。
俺は壁へ背をつけたまま、左手を開いた。震えは小さくなっている。右肩は何もしなくても脈に合わせて熱く、上着を剥がせばまた血が出そうだった。
「さっきの壁、もう一度開けられるか」
神崎が平らになった茶色い壁を見ている。
「今は無理だ」
「どれくらい待てば使える」
「分からない。少し休んだくらいじゃ足りない」
MPが二しかないとは言わなかった。神崎も聞き返さず、壁を一度叩く。
音は浅く返った。防災倉庫も、閉じた扉も、その向こうには残っていない。
「次の列車まで待つのは」
水野が聞いた。
「また地上行きが来るとは限らん。ホームに残れば、あの黒いのも来る」
神崎の返事に、高梨が目を閉じる。
「じゃあ、下ですね」
「動かすぞ。痛みが増えたらすぐ言ってくれ」
「さっきから増えてます。止まってても同じです」
水野が何か言おうとしたが、高梨は先に担架の端を握った。
「落とさなきゃ大丈夫。行ってください」
ホームの端で、千紘が折れた傘の柄を床へ当てた。
「その前に、下の音を確かめてもいいですか」
返事を待つ間にも、柄を握る指が動いている。すぐ叩きたいのを止めているようだった。
「一回だけだ。返ったら呼びかける」
神崎が階段の横へ立つ。千紘は短く二度、間を空けて一度叩いた。
音が階段を下りていく。すぐには返らなかった。
千紘が右耳のイヤホンを押さえる。俺には何も聞こえないまま、十秒近く過ぎた。
下から、二度。
少し間を空けて、もう一度。
「同じだ」
村瀬が階段へライトを向ける。
「消防です! 聞こえたら返事をしてください!」
声は階段へ落ちていった。
返事はない。
代わりに、今度は左側の壁から金属音がした。短く二度。そのあと一度。
千紘が壁へ近づく。
「待て、離れるな」
「人じゃないです」
神崎に止められ、足だけを戻した。顔は壁へ向いたままだ。
「さっきの私の音です。叩いた時、二回目だけ傘の割れたところが鳴ってます。今のも同じでした」
「反響しただけじゃないのか」
「それなら、最初の音もです」
千紘はスマートフォンを操作した。録音中だった画面を少し戻し、音量を下げて再生する。
列車が来る前、防災倉庫へ向かう廊下で鳴らした一打が入っていた。金属の余韻に続き、遠くで高梨が息を詰める音も残っている。
再生を止める。
壁の向こうから、同じ一打が返った。
高梨の息まで、薄く混じっていた。
「今の音じゃない」
千紘がスマートフォンを下ろした。
「休憩室を出る前の音が、まだ下を回ってます」
美緒が水野の上着を抱え直す。
「誰かいるんじゃないの?」
「分からない。最初の一回は、私が前に鳴らした音だった」
千紘は分からないまま言葉を止めた。大丈夫とも、誰もいないとも続けない。
神崎が階段を照らす。
「先頭は俺と大月。三枝さんは真ん中で音を見てくれ。ガルは好きにさせる。担架を挟んで、美緒と水野さんは後ろだ」
「前は無理だ」
俺が言うと、神崎のライトが右肩へ向いた。
「歩けないか」
「右が見えない。階段の先で二人並ぶ方が邪魔になる」
「分かった。村瀬、前。大月は担架の左につけ」
言い直した神崎に、俺もそれ以上は返さなかった。
村瀬が先に階段へ入る。ガルは追い越さず、その一段後ろを歩いた。
十八段下りて小さな踊り場へ着くと、階段は左右へ分かれていた。左は上り。壁には「出口」と書かれた黄色い案内がある。右はさらに下り、「三番線」と表示されていた。
「出口?」
水野が担架の横から顔を上げる。
神崎はすぐには左へ行かなかった。
「三枝さん」
「待ってください」
千紘はしゃがみ、折れた傘の柄を左の手すりへ当てた。軽く叩くと、高い音が上り階段へ抜ける。
ほとんど間を置かず、俺たちの後ろから同じ音が返った。
全員が振り返る。
下りてきたはずの階段の上に、古い二番線は見えない。暗い段差が続くだけだ。
「左へ上がると、さっきの階段へ戻ります」
「見えるのか」
「聞こえただけです。出口の方へ行った音が、後ろから返ってきました」
千紘は右の手すりも叩いた。
今度の音は下へ伸び、途中で二つに分かれる。片方は遠く、もう片方は水の中へ沈んだように鈍くなった。
すぐには戻らない。
「こっちは先があります。広い場所と、水がある通路」
「そこまで分かるのか」
「広いところは。水はたぶんです」
千紘が立ち上がりかけ、何もないところへ手を伸ばした。
「どうした」
「文字が出ました」
視線が空中を追う。唇だけが少し動き、表示を最初から読み直していた。
千紘の前にあるものは、俺には見えない。
それでも形式は分かった。俺も何度か、同じ顔をしていたはずだ。
「スキルか」
「取得可能って。音界地図」
千紘が表示へ触れた。
その指は途中で止まる。
「取れない」
「ポイントは」
「ゼロです」
苛立ったようにもう一度触れ、表示が消えた。千紘は自分の指を見たあと、右の階段へ顔を向ける。
「なくても、さっきの出口が戻るのは分かります」
「なら十分だ」
神崎が言った。
千紘は頷かなかった。イヤホンを片耳へ押し込み、先に右の階段を見た。
俺の時もそうだった。取得できると分かった瞬間から、今まで生身でできていたことまで足りなく見える。言おうとして、やめた。今の千紘に聞かせても、慰めにもならない。
右の階段を下りる。
途中から空気が湿り、壁の下を細い水が流れ始めた。神崎と村瀬が担架の高さを合わせるたび、高梨の息が短くなる。
美緒は上着を抱えたまま、段数を小さな声で数えていた。
「二十七、二十八……」
三十を越えたところで、階段が終わった。
下にもホームがある。
さっきの二番線より天井が低く、線路の半分まで黒い水に沈んでいた。柱には「三番線」とある。その下へ貼られた駅名標も久世だった。
ガルが水際へ近づき、すぐに鼻先を上げる。
奥で何かが濡れた床を擦った。
「広い場所は、ここです」
千紘がホームを見回す。
「水の音は、あっち」
指した先に、半分開いた保守通路の扉があった。
神崎はホームへ全員を下ろしてから、俺の前へ来た。
「大月。お前の家の穴は、奥まで行って止めたんだな」
「第一層だけだ。全部止まったわけじゃない」
「入口から出てくる数は減った」
「今のところは」
神崎はそれで考え込まなかった。高梨の担架、美緒、閉じた階段を順に見る。
「上へ運ぶ道はない。地上も次のベルまでは声が届かん。ここで待っても駅ごと沈む」
水野が保守通路を見た。
「下へ行けば、止められるんですか」
「分からん」
神崎は濁さなかった。
「救助だけで帰れないなら、帰れるところまで攻略する。ほかに道を見つけたら、そっちへ変える」
村瀬が担架の持ち手を握り直す。高梨は寝たまま、固定された足を自分で少し中央へ寄せた。
「置いていけとは言いません。言っても水野が聞かないんで」
「当たり前だろ」
「だから、落とさないでくれればいいです」
水野は返事の代わりに、高梨の足元へ回った。
美緒が俺を見る。
「お兄ちゃんも消防?」
「違う」
「じゃあ、何?」
すぐに答えられるものがなかった。
「家の裏にも、こういうのがある」
美緒は少し考えたあと、納得していない顔のままガルへ向き直った。
神崎が保守通路の扉へ手をかける。
「三枝さん、向こうは」
千紘が傘の柄を上げた。
叩く前に、扉の向こうで水が動いた。
誰かが歩いた音ではない。
薄いものが床へ広がり、ゆっくりこちらへ寄ってくる。
扉の隙間から出た水が、千紘の靴先で一度だけ盛り上がった。




