第二十二話 地上行き
白い光が二つ、崩れた線路の奥で揺れた。
右側の一つを見落とし、顔を向けてから初めて前照灯だと分かる。腹の底へ響く振動は近づいているのに、埋まったレールからは車輪の音がしなかった。
「ホームの中央へ寄れ。村瀬、担架を壁側に」
神崎と村瀬が高梨の担架を持ち上げる。水野は固定した足首を支え、三人で倒れたベンチの後ろへ下ろした。千紘は少女を先に壁際へ下がらせる。
俺も壁へ寄ろうとして、バールの先を床へ引っかけた。右肩を庇ったままでは身体を立て直せず、靴底が黄色い線の近くまで滑る。
ガルが上着の裾を咥えた。
強く引かれ、左膝から床へ落ちる。すぐ横の線路で、崩れていたコンクリートの隙間から黒いものが染み出した。
二本の黒い帯が瓦礫の上を走る。
曲がったレールを直すのではない。途切れたところを無視し、列車のための仮設軌道がトンネルからホームの先までつながっていく。
「列車が線路を作ってる……」
千紘の声は、こちらではなく前照灯へ向いていた。
暗がりから銀色の車体が現れた。正面の窓に運転士はいない。青い帯の塗装はところどころ剥がれ、行き先表示だけが白く光っている。
地上行き。
列車は崩れたコンクリートの上を通っている。それでも車体はほとんど揺れず、ホームへ入る直前になって、遅れてブレーキの音が天井から降ってきた。
「音、上からです」
千紘がイヤホンを外した。
「車輪からじゃない。放送と一緒に、天井で鳴ってます」
「止まるまでは近づくな」
神崎が手を上げる。
銀色の車体が俺たちの前をゆっくり通った。窓の中に人影はなく、白い吊り革だけが同じ方向へ揺れている。
三両目が来たところで列車は止まり、床の下から短い電子音が鳴った。扉が一斉に開いた。
向こう側の窓へ、明るい駅前が映っていた。
消防車の赤色灯。規制線の前に集まる人。南口の屋根も、駅前のロータリーも見える。
ついさっきまでいた場所だった。
「外……」
高梨が担架の上で肘を立てた。痛めた肩が動かず、途中で顔を歪める。
「あれ、南口ですよね。あそこへ出られるんじゃ」
水野は答えなかった。開いた扉へ二歩近づき、車体の番号を見ている。
「この車両、もう走ってないです」
「似たのじゃなくて?」
「俺が入った年に、最後の一編成がなくなってます」
千紘が折れた傘の柄で床を一度叩いた。
音は車内へ入り、奥へ抜けなかった。同じ大きさの反響が少し遅れて二度返る。
「向こうの駅から、何も聞こえません。人がいるのに、足音も車の音も」
窓の向こうでは消防隊員が走っていた。赤色灯も回っている。
音だけがなかった。
俺の胸元から、青白い接続線が浮かんだ。
未承認接続を示したものと同じ色だった。細い光は開いた扉へ伸び、車内の床を通って、向こう側の明るいホームへ続いている。
一歩だけ近づく。
ガルが前へ回り込んだ。傷の開いた脇腹をこちらへ向け、開いた扉との間に立つ。
「退け」
耳が動いただけだった。
「乗る気か」
神崎に聞かれ、扉から目を離す。
「線を見てただけだ」
「足も出てたぞ」
返さず、バールを握り直した。右肩の血が上着へ貼りつき、腕を下げても熱が残っている。
車内放送が流れた。
『この列車は、地上階へまいります。お乗り遅れのないよう、ご注意ください』
ホームにいた全員が、開いた扉を見た。
高梨が浅く息を吐く。少女もベンチの背から顔を出していたが、明るい駅前よりガルの脚を見ている。
「乗せない」
神崎が言った。
村瀬が担架の持ち手へ手を置いたまま、列車と神崎を見比べる。
「ここに残るのも危なくないですか」
「危ない。だからって、行き先の分からんものへ負傷者ごと入れない」
「地上行きとは出てます」
「書いてあるだけだ」
水野が車体から離れた。
「俺も乗りません。この形の電車なら、そもそも地下へ入れない」
高梨は何か言いかけたが、起こしていた身体を担架へ戻した。額に浮いた汗を、制服の袖で拭う。
千紘は列車の端へ顔を向けていた。
「同じ音が繰り返してます」
「何がだ」
「扉の奥です。吊り革が鳴る音と、座席の下で何かが擦れる音。二両分聞こえて、そのあとまた最初に戻ってます」
言われて車内を見直す。
隣の車両。その奥にも、同じ位置で吊り革が揺れていた。窓に入った細いひびまで、二両ごとに繰り返されている。開いた扉の上で時刻表示が六時十二分へ変わり、ホームの止まった時計も同じ時刻を示していた。外はもう夜だったはずなのに、窓の向こうだけが白い朝のまま動いている。
発車ベルが鳴った。
千紘のスマートフォンが震える。圏外だった画面にアンテナが一本立ち、神崎の無線からも潰れた声が漏れた。
『――地下班、応答――』
神崎が無線を口元へ上げる。
「神崎。要救助者四名と合流、全員生存。現在地は古い二番線、上り経路なし」
『地下の反応が、ホームへ――』
「もう一度」
雑音の向こうで誰かが叫んだ。
返事は続かなかった。
千紘が右を向く。
「来てます。黄色い線の上」
俺も首ごと向けた。
ホームの端を、黒い板状の頭が走ってくる。丸い四肢は黄色い線から外れず、前照灯の残る暗がりを真っ直ぐこちらへ近づいていた。
神崎たちは担架の前後へ回ったが、壁際には逃げ込める扉もない。
「そのまま奥へ運べ。線は俺が切る」
バールを左手で持ち、黄色いブロックの継ぎ目へ差し込む。
浅い。力をかけても先端が滑った。
もう一度入れ直す。右手を添えかけ、肩の奥が引きつって指を離した。
車輪音が近づく。
千紘が俺の横へ来た。何も言わず、床から浮いたバールの曲がりへ靴を載せる。
「そこ、踏んだら滑る」
「じゃあ、外さないでください」
千紘が体重をかけた。
俺は先端が抜けないよう左手で押し込む。黄色いブロックが端から浮き、下に溜まっていた黒い水が靴へかかった。
もう一度踏み込まれる。
接着剤が剥がれる音と一緒に、ブロックが一枚持ち上がった。
板状の個体は止まらない。
「まだ来ます」
千紘がバールから足を退ける。
個体は途切れた黄色い線の直前で前脚を浮かせた。勢いのまま身体が傾き、後ろ脚だけが線の上で回る。
止まったのは一瞬だった。
板状の頭がホームの縁へ向く。黄色いブロックの外側に埋め込まれた銀色の帯へ、前脚が触れた。
そちらから回り込むつもりだ。バールを抜こうとしたが、浮いた床材へ噛んで動かない。
ガルが横を抜けた。
「待て!」
呼んでも速度を落とさない。
黒い個体が銀色の帯へ乗ったところへ、ガルが側面からぶつかった。板状の頭がホームの外へはみ出し、丸い脚が空を掻く。
列車の扉が閉まった。
千紘が息を呑む。
「動く」
車体は音もなく滑り出していた。
ガルがもう一度頭を振る。噛みついた個体を線路へ落とし、自分はホームへ後ろ脚を掛けた。
銀色の車体が黒い個体を巻き込む。
硬いものが砕ける音が足元から響いた。遅れて、天井から大きな走行音が降ってくる。
ガルはホームへ上がっていた。脇腹から落ちた血が床へ続いている。
「こっちへ来い」
俺が呼ぶと、一度だけ振り返った。
そのまま俺の横を通り過ぎ、担架の後ろで足を止める。水野が触れようとした手を避け、腹を見せない向きで伏せた。
列車が速度を上げる。
窓の向こうには、まだ明るい駅前が映っている。同じ消防隊員が何度も走り、同じ場所で振り返り、次の窓でもまた走っていた。
最後の一両が通り過ぎる。
窓の中の時計も六時十二分だった。
列車は崩れた線路の先へ入り、車体ごと暗闇へ消えた。瓦礫の上に敷かれていた仮設軌道が、端から砂へ崩れていく。
神崎の無線が黙る。千紘の端末も圏外へ戻っていた。
床へ噛んでいたバールを抜くと、左手が細かく震えていた。握り直しても止まらない。
「大月、座れ」
「まだ動ける」
「それは見れば分かる。三分座れ」
神崎は担架を床へ下ろし、村瀬に高梨の状態を見させた。自分はガルの前へしゃがんだが、手は伸ばさない。
「触らん。血だけ見せろ」
ガルは顔を背けた。
「嫌われましたね」
村瀬が言うと、神崎はガルから目を離さなかった。
「最初から好かれちゃいない」
少女が水野の上着を持ったまま、ガルの脇腹を覗こうとする。ガルはそちらには牙を見せず、身体の向きを少し変えただけだった。
「子供、近づきすぎるな」
「美緒です」
少女が神崎を見る。
「桜井美緒。子供じゃないです」
神崎は一度口を閉じた。
「美緒、そこから先には行くな。血で滑る」
美緒は頷き、上着を畳み始めた。左右の袖が合わず、途中でやめて高梨の担架の横へ置く。
千紘は外していたイヤホンを耳へ戻そうとして、手を止めた。耳の縁が赤くなっている。
「少し外してた方がいい」
「次が来たら、近づく前に分からなくなる」
「片方で聞けるだろ」
千紘は返事をせず、右だけを耳へ入れた。左のイヤホンは胸元へ垂らす。
ホームの奥で照明が一つ点いた。
さっきまで壁しかなかった場所に、下り階段がある。
水野が立ち上がり、壁の表示へライトを向けた。
「連絡通路……でも、下りしかない」
階段の上にある案内板へ、遅れて文字が浮かぶ。
三番線。
その下の矢印も、下を向いていた。
ガルが先に立ち、階段へ鼻先を入れる。
二段下りたところで動きを止めた。
暗がりの中から、何かを叩く音が一度だけ返ってきた。




