第二十一話 下の二番線
『二番線に、列車がまいります』
放送が終わっても、案内板の矢印は下を向いたままだった。
休憩室の天井を、重い振動が右から左へ抜けていく。蛍光灯のカバーが鳴り、壁際へ入り込んでいた水に細かな波が立った。
「列車はどっちへ行った」
神崎が聞くと、千紘はすぐには答えなかった。イヤホンを片方だけ耳へ戻し、もう片方を床近くへ垂らす。
「右から左です。でも、遠ざかってないです。さっきより低いところで鳴ってます」
「下へ移ったってことか」
「たぶん。走り抜けた音じゃなくて、同じ場所を一段ずつ下りてるように聞こえます」
また天井が軋んだ。
高梨が床へついた手を滑らせ、水野が肩を支える。固定した足首はさっきより腫れ、靴の縁へ皮膚が押しつけられていた。
「ここを出る。水野さん、ほかに職員用の通路は」
「奥に防災倉庫があります。その先の扉から二番線へ出られますけど、そこは地下じゃ――」
水野は案内板を見て言葉を止めた。矢印が一度消え、また下向きに点灯する。
「担架も倉庫です。鍵はあります」
水野は自分から立ち上がり、濡れた上着のポケットを探った。鍵束を一度取り落としたが、少女が拾うより先に掴み直す。
「俺も行きます」
村瀬が扉へ向かう。
「二人で見てこい。三枝さんはここに残って、音が変わったら止めろ」
「私も行きます。防災倉庫の向こうから、一回だけ金属音が返ってます」
千紘は神崎の返事を待たず、傘立てを壁へ戻した。代わりに折れた傘の柄を少女から受け取り、床を一度叩く。
短い音が廊下へ出た。
左側からはすぐ返った。奥から来た音は少し低く、最後に車輪が転がるような震えが混じる。
「あっちにも黒いのがいます。近くはないけど、止まってもいません」
「先にそれを言え」
「今、聞こえました」
神崎は何か返しかけ、村瀬の腰へ残っていたゴム板を指した。
「持っていけ。見つけても倒そうとするな。倉庫までの道と担架だけ見ろ」
村瀬、水野、千紘の三人が廊下へ出る。ガルが立ち上がったが、あとを追わなかった。少女と扉の間へ身体を置き、裂けた耳だけを廊下へ向けている。
俺も壁から背を離した。右肩へ当てていたガーゼが上着に貼りつき、引かれた皮膚の奥が熱を持つ。
「座ってろ」
「列車が来る場所で?」
「立ってるよりはましだ。今のお前に担架の前は持たせない」
神崎は俺の返事を待たず、高梨の足元へしゃがんだ。固定に使われた傘とベルトを触り、緩んでいないことだけを確かめる。
「高梨さん、足以外に痛いところは」
「右の肩もぶつけました。でも、そっちは動きます」
「吐き気は」
「今はないです」
答えた直後、高梨の目が天井へ動いた。放送前のベルが、今度は部屋の外で鳴っている。
少女がガルの後ろから顔を出した。
「また来る?」
神崎は大丈夫とは言わなかった。
「来る前に場所を変える。あの人たちが担架を持って戻るから、君は水野さんの上着を持っててくれるか」
少女は自分に掛けられていた濡れた上着を両腕で抱えた。ガルの尾が床を一度擦ったが、振り返らない。
廊下の奥で金属が倒れた。
続いて、何かを引きずる音が近づく。ガルが身体を低くし、喉の奥で短く鳴らした。
「村瀬!」
「戻ります!」
先に千紘が扉へ滑り込んだ。折れた傘の柄を持ったまま、後ろへ顔を向けている。
「担架はありました。黒い線が廊下を伸びてきてます」
村瀬と水野が、折り畳まれた布担架を運び込む。その後ろの床で、水の下を細い黒色が走った。
点字ブロックに現れたものと同じ黒い軌道線が、濡れた床の継ぎ目を選んでこちらへ延びている。
ガルが前へ出ようとした。
「待て、踏むな」
俺が声をかけると、ガルは止まらず、軌道線の手前で横へ跳んだ。少女から離れた場所へ移り、牙を見せる。
通路の奥で、車輪が回った。
「担架へ乗せる。大月、扉を見ろ。来たら床を剥がせ」
「分かった」
バールを左手へ持ち替え、廊下へ出る。軌道線はさっきより近い。床材の下へ潜り、継ぎ目を一つ進むたび、水面が細く割れていた。バールの先を差し込む。左腕だけでは深く入らず、靴底で曲がった部分を踏んだ。
床材が浮き、軌道線が途中で切れた。先端だけが水の中で揺れ、その向こうから板状の頭が現れる。
車輪の脚は床の継ぎ目へ乗っていた。途切れた場所まで走ってくると、前脚が水へ落ちる。身体は止まったが、後ろ脚だけが空回りを続けた。
「通れる。長くは止まらない」
振り返ると、高梨は担架へ移されていた。神崎と村瀬が前後を持ち、水野が固定した足を横から支えている。
少女は上着を抱えたまま千紘の隣へ立っていた。千紘は少女の手を握らず、歩き出すのを待っている。
「行けますか」
聞かれ、少女が頷いた。
「ガルは?」
「自分で来る」
俺が答えるより先に、ガルは止まった個体の横を抜けた。噛みつかず、廊下の奥へ進んで一度だけ振り返る。
防災倉庫までは二十メートルもなかった。
それでも担架の歩幅では遠い。神崎たちが揺らさないよう進む間に、止めた個体の車輪音がまた高くなる。
千紘が途中で足を止めた。右壁へ傘の柄を当て、叩かずに耳を寄せる。
「三枝」
「前からも来ます」
正面には何も見えない。倉庫の白い扉と、壁へ沿って走る青い配管があるだけだった。
ガルは配管へ鼻先を近づけ、すぐ離れた。
金属の内側を、何かが走る。
「床じゃない。上です」
千紘が言った直後、青い配管が壁から外れた。
黒い板が配管を軌道にして滑り出す。丸い脚で金属を挟み、頭をこちらへ向けたまま落ちてきた。
少女の身体が固まる。
俺は左手を伸ばし、上着ごと肩を引いた。少女が倒れ込み、その姿が俺の右側へ消えた。
見えない。
黒いものが右から近づく音だけが、急に大きくなった。
ガルが床を蹴る。
衝撃は俺には来なかった。黒い個体とガルが壁へぶつかり、外れた配管が二人の間へ落ちる。
右へ顔を向けた時には、ガルが板状の頭を床へ押さえていた。脇腹から血が落ちている。
「ガル、離れろ!」
耳がこちらへ動く。それでも牙は放さない。
個体の脚が配管へ戻ろうと回り、ガルの傷口を掻いた。
千紘が落ちた配管を両手で引いた。重さに腕が下がったが、床を擦りながら軌道型個体から遠ざける。
「こっち、持ってください!」
水野が高梨の足から手を離し、配管の端を持つ。二人で引くと、金属が壁際から離れた。
車輪が空を回る。
ガルはようやく口を放した。倒れた個体を一度嗅ぎ、千紘と水野の間を抜けて倉庫の扉へ向かう。
神崎が担架を持ったまま言った。
「全員いるな。大月、お前の右は」
「二人いる」
「私と黒い子」
少女が足元で補った。
ガルが扉の前で身体を振った。床へ血と水が散り、少女は顔を背けたが、離れなかった。
防災倉庫には、ヘルメット、毛布、非常用の水が棚へ残っていた。水野は担架の横を通るとき一本だけ取り、高梨へ渡す。自分の分は取らなかった。
奥の防火扉には「二番線」と書かれている。現在の久世駅で、二番線は地上一階にある。
神崎が押し棒へ手を置く。
「三枝さん。向こうに列車はいるか」
千紘は扉へ近づき、耳をつけず、少し離れたところで目を閉じた。
しばらくして、首を振る。
「今はいません。でも、左のずっと奥でベルが鳴ってます。ここへ近づいてます」
「開けるぞ。村瀬、担架を先に出すな」
扉が重く開いた。
冷たい風が倉庫へ入る。湿った地下の匂いに、錆と古い油が混じっていた。
向こうにはホームがあった。
床の端へ黄色い線が伸び、その下に二本のレールが沈んでいる。壁の駅名標には確かに「久世」とあるが、文字の横へ貼られた古い広告も、茶色いタイルも、俺の知っている駅にはなかった。
「ここ、二番線じゃない」
水野が呟いた。
神崎は聞き返さず、ホームの左右を照らした。人影はない。ベンチは一つだけ倒れ、時計は六時十二分で止まっている。
俺たちの後ろで防火扉が閉まり始めた。
村瀬が手を入れたが、押し戻せない。神崎と二人で支えても、扉は少しずつ枠へ収まっていく。
「手を抜け」
「でも、戻れなくなります」
「挟まれたら一人減る」
村瀬が手を離す。扉は音を立てずに閉じ、押し棒も、二番線の表示も平らな茶色の壁へ変わった。
ガルが壁を嗅いだあと、ホームの端へ向く。
俺も左目で暗い線路を追った。
レールは途中で崩れ、コンクリートの塊に埋まっている。列車が通れる状態ではない。
それでも、トンネルの奥に白い光が二つ現れた。
千紘がイヤホンを外す。
「来ます」
今度の声は、確かめるためのものではなかった。




