第二十話 同じ地下二階
発車音の最後に、低い一音が重なった。
壁の青白い線が太くなる。
目の前へ半透明の表示が開いた。
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外部迷宮からの接続を検知しました。
要求元:沈降駅迷宮
接続先:第零迷宮
状態:未承認
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承認するための表示はなかった。
青白い接続線はB2の文字から離れ、俺の胸へ向かって伸びている。触れてもいないのに、右目の奥が押された。
「大月、何が見えてる」
「この駅が、第零迷宮につながろうとしてる」
「止められるか」
「分からない」
神崎の問いへ、すぐ答えられたのはそれだけだった。
下から救助ロープが引かれる。
村瀬が手すりへ両腕を回し、身体ごと押さえた。地上班が引いているなら、下へ声をかけても届かない。
「腰の金具を外せ!」
神崎に言われ、ベルトの左側を探った。指が金具を一度滑る。
右手を回そうとしたが、肩が動かない。
村瀬が俺の左へ手を伸ばし、金具を外した。解放されたロープが階段を下へ走り、暗がりへ吸い込まれていく。
終端を掴んだ神崎の手袋が手すりにぶつかった。ついさっきまで、俺の腰につながっていた側だ。
「地上、引くな! 応答しろ!」
無線には発車音だけが返った。
その音も途中で切れる。
救助ロープは動きを止めた。上から下りてきた一本と、下へ消えた一本が、同じ手すりを挟んでつながっている。
神崎がロープへ白い塗料で印をつけ、下側を少し引く。
手元の端につけたはずの印が、今度は俺たちの頭上から下りてきた。
「輪になってる」
村瀬が呟く。
「地上につながったまま、ここも通ってるんですか」
「今は断定するな。使えないことだけ覚えろ」
神崎はロープを手すりへ固定し直した。切れば地上側に何が起こるか分からない。腰の金具だけを外し、俺たちは命綱のない状態で踊り場へ残された。
スマートフォンが鳴った。
画面には三枝千紘と出ている。
「三枝」
『聞こえます。今、どこですか』
「地下二階」
『私もです』
「それは知ってる」
『そうじゃなくて、近いです。さっきより足音が大きい』
俺はスピーカーへ切り替えた。神崎が腕時計を見る。
「三枝さん、こっちから音を出します」
村瀬が手すりを工具で三回叩いた。
甲高い音が階段へ落ちていく。
通話の向こうでも、ほとんど同時に三回鳴った。そのあと少し遅れて、俺たちの左側の壁から同じ音が返る。
『二か所から聞こえました』
「こっちもだ」
『もう一回、今度は一回だけお願いします』
村瀬が叩く。
正面の階段から一回。左の壁から、少し遅れて一回。
ガルは階段へ顔を向けなかった。
左の壁際まで歩き、鼻先を床へ近づける。黄色い線はそこで途切れていた。壁の下に溜まった埃だけが、細く手前へ引かれている。
「左に何かある」
『そっちの音は低かったです』
「低い?」
『壁から聞こえた方です。反響じゃなくて、壁の向こうで鳴ったみたいな……すみません、うまく言えない』
千紘の声が遠ざかる。
通話の奥で、細い金属音が三回鳴った。
今度は左の壁が震えた。
ガルが前脚を一歩引く。毛の間から見えた傷が開き、脇腹へ新しい血が滲んでいた。
「三枝、今の音は」
『休憩室にあった傘立てです。壁を叩きました』
「そこにいて」
『います。もう叩きません』
こちらが止めた理由まで聞き返さなかった。
接続線はまだ俺の胸へ向いている。左へ動くと、それも追ってきた。ただ、ガルが嗅いでいる場所だけ、壁との間に小さな折れ目ができる。
バールの先を入れようとしても、隙間はない。
左手の手袋を外し、壁へ触れた。
冷たいタイルの感触が、途中で消える。
指先は壁に当たっているのに、その奥でもう一枚、薄いものが張っていた。第零迷宮の出口が閉じた時と似ている。違うのは、継ぎ目が固定されず、呼吸するように動いていることだった。
「境目があります」
神崎が隣へ来る。
「切れるか」
「一回なら」
「その先に三枝さんたちがいる保証は」
「ない」
通話の向こうで千紘が言った。
『でも、そっちの声が壁から聞こえます』
神崎は腕時計を見た。残りは九分を切っている。
「やれ」
「失敗したらMPがほとんどなくなる」
「それで何ができなくなる」
「次の境目は切れない」
「分かった。ほかは」
答えようとして、右目の奥がまた脈打った。吐き気が戻る。前と同じなら、切った境界はすぐ戻るかもしれない。指を離せば、この場所も見失う。
「開いても、長く持たない」
「村瀬、先に抜けろ。ガル、大月、俺の順だ」
「ガルは決めても」
「今そこを言い直すな」
村瀬が左壁の前へ立つ。ガルは指示を待たず、その横へ身体を低くした。
息を吐き、指先で動く継ぎ目を押さえる。
《断界》を使うと、胸の奥から熱が抜けた。
壁の向こうにあった薄い膜へ、青白い亀裂が走る。タイルの目地が左右へずれ、人一人が通れる幅だけ壁が折れた。
奥に暗い廊下がある。
「行け!」
村瀬が身体を横にし、上半身だけ隙間へ入れた。ライトを左右へ振る。
「床が一段低い。人影なし、通れます」
「抜けろ」
村瀬が向こうへ降りた。ガルが続く。
俺も足を出したが、床の高さを読み違えた。左足が空を踏み、裂けた壁の縁へ右肩からぶつかる。
息が止まった。
神崎に背中を押され、廊下へ転がり込む。右肩の下が濡れた。今度は確かめなくても、縫った場所が開いたと分かった。
最後に神崎が抜けた。
壁は防火服の背中を擦りながら閉じた。
向こうに残った救助ロープも、B2の表示も見えなくなる。
「立てるか」
「立てます」
「まだ聞いてない」
神崎は俺の右肩を見ていた。
父の上着に黒い染みが広がっている。触ろうとした神崎の手を避け、壁へバールをついた。
「先に四人」
「村瀬」
「俺が見ます」
村瀬が戻り、上着の肩口を開いた。ガーゼの上まで血が滲んでいるが、流れ落ちるほどではない。
「圧迫しながらなら動けます。帰ったら縫い直しです」
「帰れればな」
神崎が閉じた壁を叩く。返ってきたのは一度だけだった。
ステータスを開くと、HPは二十五、MPは二まで落ちていた。同じことは、もうできない。
◇
廊下の天井灯は、三本に一本だけがついていた。
案内板にはB2とある。
さっきまでいた場所と同じ階なのに、壁の色が違う。白かったタイルは薄い緑に変わり、ところどころへ古い広告の剥がし跡が残っている。
ガルが先に歩いた。
黄色い点字ブロックの手前で止まり、右の通路へ入る。
俺たちも線を踏まずに続いた。
「三枝、もう一度音を」
神崎が言ったが、通話は切れていた。発車音のあとに開いた通信時間が終わったらしい。
代わりに、壁を叩く音がした。
三回。少し間を空けて、二回。
村瀬が工具で三回、二回と返す。
すぐ近くで、何かが床を走った。
ライトを向ける。
通路の奥から黒い板状の頭が現れた。車輪の脚が黄色い線を噛み、壁へ触れそうな速さで近づいてくる。
「線を切れ!」
神崎が前へ出る。村瀬が腰の袋から折り畳んだゴム板を投げた。黄色い線の上へ落ちたが、端が丸まり、怪物の前脚が乗り越えた。
神崎の盾は地上に置いてきている。代わりに長い工具を横へ出した。黒い板がぶつかり、神崎の身体が後ろへ滑る。押し返しても怪物の脚は線から外れず、車輪だけが回り続けた。
ガルが横から肩を当てた。脇腹を庇ったせいで押し切れず、怪物の頭がガルへ向く。
俺はバールの曲がった先を黄色いブロックへ差し込み、左手だけで持ち上げた。一枚目は動かない。二枚目との境へ体重をかけると接着が剥がれ、黄色いブロックが浮く。中央の黒い軌道線が途中で折れ、怪物の車輪が空回りした。
「離せ!」
神崎が工具を捻る。
怪物の身体が黄色い線から外れ、床の濡れた場所へ転がった。
村瀬がゴム板を広げ、剥がれた線の上へ重ねる。怪物は脚を回したまま、その場で黒い頭を振った。
倒してはいない。
それでも通路の先は空いた。
ガルは怪物へ向かわず、壁を叩く音を追った。
角を二つ曲がる。
緑色の扉が少し開き、隙間から少女がこちらを見ていた。十歳にもなっていない。片手に折れた傘の柄を持ち、俺たちを見ても声を出さなかった。
「消防です。もう大丈夫」
神崎が膝をつこうとする。
少女は神崎ではなく、ガルを見た。怖がって下がると思ったが、握っていた傘の柄を床へ置く。
「この子、黒いの踏んでない」
ガルの足元を見て言った。
「そうだな。君も踏まなかったのか」
少女が頷く。
「お姉ちゃんが、音が返ってきたら扉のところ見ててって」
少女の後ろで扉がもう少し開き、三枝千紘が顔を出した。片手にスマートフォン、もう片方に金属の傘立てを持っている。
俺を見るなり、視線が眼帯から右肩の血へ落ちる。
「本当に来たんですね」
「消防だけの方がよかった?」
「その怪我で来るとは思ってませんでした」
声は責めるより先に、少し呆れていた。
「三枝も同じだろ」
「私は来た時は怪我してません」
言い返したあと、千紘の手から傘立てがずれた。床へ落ちかけた金属を、少女が両手で受け止める。
千紘は礼を言い、持ち直した。
震えているのは指だけだった。
「中に二人います。歩けない人が奥です」
神崎と村瀬が先に入る。
「消防です。名前を聞かせてください」
「水野です。こっちは高梨。足をやってます」
狭い休憩室の床に、駅員が二人座っていた。高梨は腫れた足首を傘とベルトで固定され、水野は濡れた制服の上着を子供へかけている。
壁の下から水が薄く入り始めていた。
「三枝さん以外に、ステータスが出た人は」
神崎が聞くと、駅員二人と少女は首を振った。
「壁の線に触ったの、私だけです」
神崎が高梨の状態を見ている間、千紘は扉の外へ耳を向けた。白いイヤホンは耳から外れ、胸元へ垂れている。
「さっきの黒いの、まだいます」
「線から外した。動けない」
「それだけじゃないです」
千紘が顔を上げた。
天井の向こうで、重いものが走り抜ける音がした。
部屋全体が細かく震える。
「上を走ってます」
今まで聞いた発車音とは違うベルが鳴った。
駅員二人が同時に通路へ顔を向ける。
『二番線に、列車がまいります』
電気の切れていた案内板が点灯した。
そこには出口ではなく、下向きの矢印が表示されていた。




