第十九話 救助班
黒い線は、シャッターの向こうへ消えた。
沈んだ駅舎から、遅れて金属の潰れる音が上がってくる。
「三枝」
通話は戻らない。
スマートフォンを耳から離し、画面を見た。圏外ではない。アンテナは二本立っているのに、呼び出しへ切り替わる前に接続が切れる。
画面の時刻は午後六時十九分だった。病院を出て、まだ四十分も経っていない。西に残っていた明るさは、沈んだ駅舎の向こうでほとんど消えていた。
南口へ近づこうとすると、左腿が曲がらなかった。バールをついた先で黒い砂が薄く震えている。
ガルがこちらを見た。
脇腹の毛が濡れていた。黒いせいで色は分からないが、息をするたび、その場所だけが細かく動く。
「見せろ」
手を出すと唇が上がった。
「分かった。触らない」
ガルは鼻先をシャッターの下へ戻した。
背後から走ってきた神崎が、俺の左腕を掴んだ。西口へ回っていたはずなのに、もう防火服の肩が黒い砂で汚れている。
「何人だ」
「四人。三枝と子供一人、駅員が二人。駅員の一人は歩けない」
「場所」
「地下二階。でも、上がっても地下二階に戻るって」
神崎が無線を取る。
「南口地下、要救助者四。うち一名歩行不能。駅員用階段から入ったあと、経路が反復している。救助班をこっちへ回せ」
『西口の流出が止まりません。北側も地下駐車場から退避中です』
「何分なら出せる」
返事の代わりに、複数の声が無線の奥で重なった。
神崎は舌打ちを飲み込み、周囲を見た。駅前にはまだ避難しきれていない人がいる。シャッターから出た怪物は、点字ブロックを車止めで塞がれたまま、黒い頭をぶつけ合っていた。
動ける隊員を地下へ回せば、外が薄くなる。
分かっていても、下には四人いる。
「もう一回かけろ」
「つながらない」
「発車音の前は」
「つながった。切れたのは、三枝に表示が出た直後です」
神崎の視線が一瞬だけ止まる。
「あの人にも出たのか」
「レベル一って言ってた」
広場の向こうで、消防車が短く警笛を鳴らした。車止めを越えようとしていた怪物が音へ黒い板を向ける。
その直後、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
三枝千紘からの着信だった。
「今どこ」
『地下二階です』
「それは聞いた」
『私も、それしか分からないです』
声は近かった。さっきまで混じっていた靴音が消え、代わりに低い機械音が続いている。
神崎が俺からスマートフォンを取り、通話をスピーカーへ変えた。
「消防の神崎です。三枝さん、周りに何が見える」
『駅員さんの休憩室だと思います。扉の外に乗務員って書いてありました。廊下より少し高くなってて、床に黄色い線はありません』
「そこへ移った理由は」
『廊下の線を、さっきの黒いやつが通りました。女の子が見つけたんです。音が来る前に』
通話の奥で、子供が何か言った。
『うん。もういないよ』
千紘の声が少し遠くなる。言い聞かせたあと、スマートフォンへ戻った。
『駅員さんの一人は足首が腫れてます。もう一人が傘とベルトで固定してくれました。出血は止まってます』
「三枝さん自身は」
『怪我はないです。さっき出た表示も、HPは三十で減ってません』
「扉を閉めて、その部屋から動かないでください」
神崎が言うと、短い間が空いた。
『ずっとは無理です』
「理由は」
『壁の向こうで、水の音が増えてます。それに、発車音が鳴るたび廊下が少し下がるんです。次に鳴ったら、扉より低くなるかもしれません』
千紘は焦っている。それでも、聞こえたものと見えたものを混ぜなかった。
「今は出るな。五分ごとにこっちからかける」
『五分じゃなくて、発車音のあとにしてください。今のところ、その時だけアンテナが戻ってます』
神崎が俺を見た。
俺が頷くと、千紘は続けた。
『次の音が来るまで、出口になりそうな音だけ探します。子供は駅員さんと一緒にいます』
「一人で遠くへ行くな」
『廊下の角までです』
「角まで行って、戻れなくなった人間を今から迎えに行くんだよ」
『それは……そうですけど』
後ろで駅員らしい男が笑い、すぐ咳に変わった。
千紘も小さく息を吐く。
『じゃあ、扉から見える範囲にします』
「そうしてください。音が鳴ったらこっちからかけます」
『分かりました』
そこで通話は切れた。今度は突然ではなく、千紘の指で切られた。
◇
現場本部は、駅前ロータリーから一本離れた薬局の駐車場へ移されていた。
広げた机の上に駅の構内図が置かれ、南口、西口、地下駐車場の三か所へ赤い印がついている。どの入口も、図面にある高さより低くなっていた。
「民間人は入れられない」
白いヘルメットの隊長は、俺の病院の腕輪を見て言った。
「その足で地下へ下りるつもりか」
「下りたことはあります」
「駅じゃないだろ」
「でも、あの境目は知ってる」
何を知っているのか聞かれ、答えに詰まった。
《断界》まで話せば、使わせろと言われるかもしれない。第零迷宮の核に触れたことまで広げれば、今度は地下へ近づけなくなる。
「ステータスがあって、レベル八です」
神崎がこちらを見る。
隊長の顔は変わらなかった。
「第零迷宮の第一層を止めたのはこいつです」
神崎が構内図から指を離した。
「内部から二度生還して、現実側の接続路も開いてる。境界が変わった時、俺たちより先に気づく可能性があります」
「それでも負傷者だ」
「はい」
「認めるな」
「怪我してるのは見れば分かります」
右肩を上げようとして、途中で止まった。見せる必要はなかった。
神崎が構内図の駅員用階段を指で叩く。
「俺と村瀬で入ります。大月は入口まで。中で経路が変わった時だけ判断させる」
「判断させるなら、一緒に入れ」
「お前に言ってない」
「入口からじゃ見えない」
神崎は眉間を押さえた。
駅の方から、何かが割れる音が続いた。無線では西口の怪物が一体、封鎖線を越えたと叫んでいる。
隊長はそちらへ二人回し、残った人数を数え直した。
「十五分だ」
隊長が神崎へ言う。
「一層だけ確認。要救助者の位置を掴めなければ戻れ。次が沈む前に全員地上へ出す」
「大月は」
「隊員ではない。従わせられん人間を班には入れられない」
「なら、協力者でいいです」
自分で言うと、神崎が横目を向けた。
「言葉だけ変えても同じだぞ」
「全部には従わない」
「分かってる。止まれと戻れは聞け。救助する順番も俺が決める」
「能力を使うかは俺が決めます」
「好きにしろ。倒れたら勝手に担ぐ」
隊長が構内図を畳んだ。
「十五分を過ぎたら、協力者ごと引き上げる。村瀬、記録を残せ」
「了解」
机の横で装備を確認していた村瀬が返事をした。昼に祖父の家へ来た隊員だった。俺の身体を上から下まで見てから、予備のヘルメットを差し出す。
「右、見えないんだったな」
「はい」
「俺は右後ろにいる。急に振り向くなよ。顔からぶつかる」
顎紐を左手で締めた。右肩に救助用の帯は通せず、腰だけの簡易ベルトへ変えられた。防火服は羽織れなかった。父の古い上着の上から、薄い救助用プロテクターを重ねる。
用意を終えた頃、父の車が薬局の前へ戻ってきた。
歩けない老人を北の避難所へ運んできたらしい。父は運転席から降り、俺のヘルメットと腰のロープを見た。
「帰る話は」
「四人、下にいる」
「お前が行かなきゃ駄目なのか」
「分からない。だから入口まで見る」
父は何か言いかけ、車の後部を開けた。出してきたのは、破損したリュックではなく、車載用の小さなライトだった。
「電池は替えた」
受け取ると、父は平たいバールの泥をタオルで拭いた。
「それも置いていけとは言わない」
「言っても置かないから?」
「置かないだろ」
バールを返し、父は腰の救助ロープを一度引いた。
「切れるなよ」
それがロープのことか、俺へ言ったのかは聞かなかった。
◇
駅員用階段は、南口のシャッターから二十メートルほど離れた路地にあった。
灰色の扉は半分までしか開かない。地面と一緒に沈んだ枠へ、歩道のアスファルトが引っかかっている。
村瀬が油圧器具で隙間を広げた。
冷たい空気が吹き上がる。その中に、濡れた線路と古い埃の匂いが混じっていた。
ガルが路地の奥から現れた。
誰にも呼ばれていない。脇腹を庇いながら扉まで来ると、消防のロープを避けて中を嗅ぐ。
「そいつも入れるのか」
村瀬が聞いた。
「俺には止められない」
「便利な言い方だな」
神崎がガルの前へ腕を出した。触れずに、階段との間を塞ぐ。
「怪我してる。外で待て」
ガルは神崎を見上げた。
数秒してから腕の下をくぐり、階段へ下りた。
「聞かないのが二匹になった」
「一緒にしないでください」
「今のところ同じだ」
神崎が先に続く。俺は左手にバール、右手にライトを持った。右腕を身体へ寄せたままでは光が揺れる。村瀬が後ろから自分の灯りを重ねた。
階段は十二段で踊り場へ着いた。壁にB1とある。
さらに十二段。B2。
見慣れた駅の地下通路が、ライトの先へ伸びていた。
床は濡れている。黄色い点字ブロックの上だけが乾き、その中央を細い黒線が走っていた。
ガルは線へ乗らず、壁際へ寄る。
「ここから十五分だ」
神崎が腕時計を押した。
村瀬は階段の手すりへ黄色いテープを巻き、救助ロープを一度引いた。地上側から引き返される。まだつながっている。
「三枝」
呼んでも返事はなかった。
遠くで水が落ちている。その音に混じり、一度だけ金属を叩く音がした。ガルの耳が動き、通路ではなく、俺たちが下りてきた階段の下へ顔を向ける。
「下がある」
B2の踊り場から、さらに階段が続いていた。
構内図にはない。
神崎が先に二段下り、足を止める。俺たちも続いた。
十二段下りると、壁にはまたB2と書かれていた。黄色いテープを巻いた手すりも、そこにある。
村瀬が後ろを振り返る。
上にいるはずの地上班へ続くロープが、階段の上ではなく、さらに下から伸びていた。
「引くな!」
神崎が無線へ叫ぶ。
遅かった。
腰のベルトが下へ引かれ、左足が一段落ちる。肋骨へ痛みが走り、バールを手すりに挟んで止まった。
下の暗がりから、俺たちのロープが引かれている。
ガルが低く唸った。壁のB2表示の下へ、青白い線が浮かぶ。
右目を失った時に見たものと、同じ色だった。眼帯の下で、もうないはずの目の奥が脈打つ。
その線だけが、俺の方へ曲がった。
発車音が鳴り始めた。
今度は地上からではない。
階段の下で、まだ見えないホームから聞こえていた。




