第十八話 沈む駅
床へ足をつけた途端、左腿の縫った場所が内側から引かれた。
ベッドの柵を左手で掴む。立ち上がる前に病室の扉が開き、戻ってきた看護師と目が合った。
「何してるんですか」
「トイレ」
「さっき一人で行かないでって言いましたよね」
点滴台を押して近づいてきた看護師に肩を支えられる。右へ回られ、気づくのが遅れた。身体を戻されるだけで肋骨へ痛みが走り、結局、腰はベッドからほとんど浮かなかった。
父は椅子の下に残された缶コーヒーを拾い、窓際の棚へ置いた。俺がもう一度足を下ろそうとすると、何も言わず靴をベッドの下へ押し込む。
「駅へ行く」
「今ので、どうやって」
「車なら」
「運転するのは俺だ」
父の声は怒鳴るより低かった。看護師は俺たちを一度ずつ見て、担当医を呼んでくると言い残す。
そのあとに来た医師からは、右肩がもう一度開けば縫い直すだけでは済まないこと、左腿は深く曲げないこと、少なくとも今夜は病院にいることを言われた。
聞き終えても考えは変わらなかった。ただ、同意書へ名前を書く時、右腕を上げられず左手でペンを持つ。普段より崩れた自分の名字を見て、一度だけ手が止まった。
◇
父が迎えに戻ったのは、午後五時四十分だった。
外はまだ明るいはずなのに、病院の正面玄関には投光器が出ていた。久世駅から半径一キロに避難準備情報が出され、路線バスも駅前へ入らなくなっている。
着替えの上から父の古い上着を借りた。右肩へ袖を通せず、片側だけ羽織って車椅子に乗る。病院の外まで押した父は、駐車場で車椅子を止めた。
「家へ戻る。それでいいな」
「駅へ寄って」
「寄らない」
「じゃあ、ここで降ろして」
父は車の鍵を持ったまま動かなかった。言い返すと思っていたが、先に大きく息を吐く。
「戦うな。神崎さんへ録音のことを話したら帰る」
「見てから決める」
「そう言うと思った」
後部座席へ座ると、足元に平たいバールがあった。昼に神崎が持ち帰ったまま、土も拭かれていない。
「これ、持ってきたのか」
「家に置こうとした。ガルが車へ乗ったから、そのまま来た」
振り返る。
荷室の暗がりで二つの目が開いた。ガルは毛布の上へ伏せ、こちらを見ても立ち上がらない。首には外れた帯の跡が残り、車が曲がるたび耳だけが動いた。
「降ろさなかったの」
「お前が言ったんだろ。勝手にさせろって」
父はそれ以上話さず、車を出した。
駅へ近づくにつれ、対向車ばかりが増えた。歩道を同じ方向へ急ぐ人の中に、買い物袋を持ったままの人もいる。交差点ごとに警察官が立ち、駅側へ向かう車を止めていた。
父は三つ目の規制線で消防の確認を受け、病院からの帰宅途中だと説明した。俺が神崎の名前を出すと、警察官の視線が眼帯と病院の腕輪へ落ちる。
「連絡はこっちで取ります。車は入れません」
そこで待つよう言われた直後、久世駅の方から発車音が流れた。
普段なら一番線と二番線で交互に鳴る短い旋律だった。街の電気はついているのに、駅舎の窓だけが暗い。
最後に低い音が重なった。
足元のアスファルトがわずかに沈み、規制用の赤い灯が一つ倒れた。
無線を聞いていた警察官が駅へ顔を向ける。その隙に車を降りた。左腿へ体重をかけた瞬間、傷が脈打つ。バールを杖のように地面へつき、身体を支えた。
「在真」
父も運転席を降りる。
荷室の扉は閉まっていたはずだった。ガルは開いた後部ドアから道路へ下り、俺たちの横を通り過ぎる。規制線の手前で一度止まり、騒ぐ人ではなく駅の暗い窓へ鼻先を向けた。
低い唸りが続く。
「ガル」
呼んでも振り返らない。警察官が腰の警棒へ手をかけたが、駅側から走ってきた消防隊員の声で動きを止めた。
「そいつはそのまま! 近づかなければ襲わない!」
ヘルメットを被った神崎だった。昼のシャツではなく救助服へ戻り、頬に黒い汚れがついている。俺を見ると足を止めた。
「何でいる」
「退院しました」
「その腕輪をつけたまま通る退院があるか」
神崎は俺の返事を待たず、父へ向いた。
「大月さん、北側へ回ってください。歩けない人を乗せる車が足りてません。こいつは俺の見えるところへ置きます」
「置くって」
「今、言い方を選ぶ時間がないです」
父は納得していなかった。それでも駅へ続く道路と、後部座席の空いた車を見比べ、運転席へ戻る。
「勝手に消えるな」
俺とガルのどちらへ言ったのか分からなかった。
神崎は俺の左側へ回り、歩き始める。駅前広場には消防車と救急車が斜めに停まり、普段の乗降場を塞いでいた。地下商業区へ下りる南口は防火シャッターで閉じられ、中央が外側へ膨らんでいる。
その前で、黄色い駅員用の拡声器を持った女が老人を誘導していた。
肩までの髪。片耳にだけ入れた白い有線イヤホンで分かった。
「三枝」
呼ぶと、女がこちらを見る。俺の顔ではすぐ分からず、眼帯と病院の上着を見てから名前を探すように口を開いた。
「大月さん?」
「何してるんですか、ここで」
「録音を駅員さんへ聞いてもらいに来ました。そのあと地下から人が上がってきたので、外まで一緒に」
千紘は拡声器を近くの駅員へ返した。俺の右側へ立ちかけ、返事が遅れたのを見ると左へ移る。
「入院してたんですか」
「今はそれより、地下の音は」
「最初は二番線でした。でも、十五分前から南口の下でも鳴ってます」
千紘はイヤホンを外し、片方をこちらへ向けた。受け取ろうとして、コードが短いことに気づく。顔を寄せる前に、閉じたシャッターの向こうで何かがぶつかった。
金属板の中央がさらに膨らむ。
神崎が腕を上げた。
「全員、シャッターから離れろ! 南側、車両の後ろまで下がれ!」
千紘はイヤホンをポケットへ押し込み、近くに残っていた親子の背中を押した。俺も動こうとしたが、バールがアスファルトの継ぎ目へ引っかかる。
シャッターの下端が持ち上がった。
黒い砂が先に流れ出す。
その中から、濁った緑色の腕が伸びた。小さな人型が腹這いで外へ抜け、錆びたパイプを杖にして立ち上がる。続いて、同じ姿がもう一体。
「ゴブリンだ。学校にいたやつと同じ」
神崎が盾を持った隊員を前へ出す。
一体目がパイプを振り上げた。盾へ叩きつける前に横から器具をかけられ、アスファルトへ押さえ込まれる。二体目は助けず、シャッターへ戻ろうとした。
その足元を、細長い四本脚が滑った。
犬ほどの大きさはある。ただし頭に目も口もなく、横へ長い黒い板がついていた。脚の先は車輪のように丸く、地面を蹴らず、点字ブロックの線に沿ってこちらへ走る。
ゴブリンの身体が横へ弾かれる。黒い板は振り返らず、黄色い線へ乗った。
二体、三体。その後ろでも同じ頭が重なっている。
消防隊員が盾を並べる前に、一体が列から外れた。避難中の親子へ向きを変える。
ガルが走った。
黒い身体が低く伸び、横から怪物へぶつかる。車輪の脚が浮き、二体がもつれて歩道へ転がった。
残る一体がガルの脇腹へ板状の頭を打ちつける。古い傷と同じ場所だった。ガルの息が潰れ、身体が横へ流された。
バールを持ち上げる。右肩は途中までしか上がらない。左手へ持ち替え、怪物の前脚が点字ブロックへ戻ったところを横から叩いた。
金属を殴ったような衝撃が肘まで返る。
一度では折れない。振り直そうとして左腿が抜け、膝が地面についた。怪物の黒い板がこちらへ回る。
「大月、伏せろ!」
神崎の盾が頭上を通った。
板とぶつかり、白い火花が散る。神崎は怪物を押し返さず、盾を斜めにして勢いを横へ流した。その先へガルが噛みつき、車輪の脚ごと地面へ押さえる。
「脚です。線へ戻ると走る」
「先に言え」
「今分かった」
神崎が別の隊員へ合図する。二本の器具が脚を挟み、点字ブロックから持ち上げた。怪物は車輪を激しく回したが、空中では前へ進まない。
ほかの個体も黄色い線の上ばかりを走っている。
消防車を横づけし、隊員たちがゴム製の車止めと土嚢を点字ブロックへ積み始めた。通路を失った怪物は黒い板を左右へ振り、互いにぶつかって止まる。
弾き飛ばされたゴブリンは、片腕を引きずりながら黄色い線を避け、持ち上がったシャッターの下へ戻っていった。地面へ押さえられた一体だけが、パイプを離して歯を剥いている。
別の隊員が腕と足へ拘束帯を回す。ゴブリンは噛みつこうと首を振ったが、盾で押さえられたまま消防車の陰へ運ばれていった。
倒したわけではない。それでも避難する人との間に時間はできた。
神崎が左脇へ腕を入れ、立たせる。
「戦うなって言われなかったか」
「言われました」
「聞けよ、一回くらい」
右肩の下が熱かった。上着へ触れた指に血はつかなかったが、縫い目の奥が引きつっている。
広場へ発車音が流れた。
今度は途中から音程が下がり、最後まで鳴り切らない。怪物たちの脚が同時に止まった。
駅舎全体が沈んだ。
大きく傾いたわけではない。階段を一段下りるように、建物だけが地面へ落ちた。正面玄関の床が広場より低くなり、ガラス戸の下半分がアスファルトの陰へ隠れる。
南口のシャッターも一緒に沈む。持ち上がっていた隙間が閉じ、黒い砂と怪物の脚を途中で挟んだ。
誰かが子供の名前を呼んだ。
避難していた親の声ではない。シャッターの奥から、薄く聞こえた。
千紘が振り返る。
「今、下に子供がいます」
神崎もシャッターへ近づいたが、無線が重なった。西口でも同じ怪物が流出し、隊員一人が負傷。北側では地下駐車場の壁が割れ始めている。
「聞こえた場所は」
「この下です。女の子が一人。もっと奥に男の人が二人います」
「二人は駅員だ。救助班を回す。三枝さんは北へ」
千紘は頷いた。神崎が西口へ走り、俺も隊員に肩を貸されて消防車の後ろまで戻される。
ガルは来なかった。
シャッターの前に残り、挟まれた怪物の匂いを嗅いでいる。呼んでも耳を一度動かすだけだった。
北側へ向かったはずの千紘の姿も見えない。
スマートフォンを出す。大学の連絡アプリには、八分前のメッセージが一つ届いていた。
『南口の横に、駅員用の階段が残っています。下の人を見てきます。消防の人に場所を伝えてください』
電話をかける。
三度目でつながった。
『大月さん』
「戻って。神崎さんが救助班を回す」
『戻ってます。上に向かってるんですけど、地下二階の表示が三回出ました』
息は乱れているが、走ってはいない。通話の向こうで、一定の間隔を空けて靴音が響く。その間に小さな咳が混じった。
「子供は」
『一緒です。駅員さんも二人。片方は歩けません』
発車音が遠くで鳴った。こちらの駅前ではない。スマートフォンの奥、千紘のいる階から聞こえる。
『待って。壁に線が出てます』
「触らないで」
返事はなかった。
靴音が止まり、子供の咳だけが残る。
『文字が……名前と、レベル一。これ、ステータスってやつですか』
何も答えていないのに、通話が切れた。
かけ直しても、呼び出し音は鳴らない。
南口の前でガルが吠えた。
閉じたシャッターの下へ黒い線が走り、駅舎がもう一段、地面の中へ沈んだ。




