第十七話 消防の男
四月十日、午前十時五十八分。
父からの着信を取ると、画面いっぱいに紺色の背中が映った。消防と白く入った上着の向こうに、祖父の家の物置が見える。
『来たぞ。お前も見てろ』
「近い。もう少し離して」
父がスマートフォンを引く。紺色の男は三人いたが、物置の前まで来たのは一人だけだった。
三十歳くらい。ヘルメットは被らず脇へ抱え、胸には油性ペンが二本差してある。片方は蓋がなかった。腰へ巻いた救助用の縄を外そうとしたところで、物置の壁際から低い唸りが届く。
ガルが起き上がっていた。男ではなく、縄の先についた金属環を見ている。
『あれが例の狼か』
「ガル」
『名前を聞いたんじゃないが、分かった。神崎宗吾。昨日、電話で聞いたと思う』
男が父の持つスマートフォンへ顔を向ける。右側に立たれたせいで、首ごと向かなければ表情が見えなかった。
「一昨日、俺を運んだ人ですか」
『いたよ。お前、半分も目を開けてなかったけどな』
覚えていなかった。返事をしないままでいると、神崎は金属環を腰の後ろへ回した。ガルの唸りが少し低くなる。
『大月さん、木戸を開けます。狼が動いたら閉めてください』
『俺にできるのか』
『閉めるだけでいいです。捕まえようとしなくていい』
父は南京錠を外し、木戸を引いた。工具棚の奥に黒い床が現れる。昨日の動画より青い光が強く、鋸の刃だけでなく、壁へ立てた鍬の柄まで細かく震えていた。
神崎はすぐには入らなかった。敷居の幅を測り、黒い床へ棒を伸ばし、先端を数秒置いて引き戻す。変色も熱もないのを確かめると、後ろの隊員へ手を出した。
『ロープ。車じゃなくて外の柿へ取れ。入口が変わったら車ごと持っていかれる』
父のカメラが柿の木へ動く。俺が最初に園芸縄を結んだ幹へ、太い救助用の縄が回された。
『あれ、木が抜けませんか』
『抜けたら庭ごと諦める。今ある中では一番ましだ』
神崎はヘルメットを被り、顎紐を締めた。縄を自分の腰へつなぎ、物置の入口から核保管室までの床へ黄色い印を一枚ずつ貼っていく。
「中に敵はいない」
『昨日はいなかった、だろ』
「第一層のやつは倒した」
神崎の手が止まった。青い輪を避けたまま、父のスマートフォンへ左手を向ける。
『その話はあとで聞く。今は出口が二つあるって話だけでいい。こっちから入って、家の裏へ出られるんだな』
「通路はつながってます。ただ、途中に曲がり角がある。黒い砂が残ってたら足元も――」
『全部言おうとしなくていい。どっちへ曲がる』
「最初は左。その先で青い線を追えば、執行体がいた部屋に出る」
『執行体』
「倒したやつです」
神崎はそれ以上聞かなかった。腰の縄を一度引き、後ろの隊員が握っていることを確かめてから、黒い部屋へ入った。
青い光がヘルメットへ滑る。奥の継ぎ目を越える前に一度しゃがみ、黄色い印を床ではなく右壁へ貼った。
『床は消えるかもしれん。印は壁へ寄せる。村瀬、五メートルずつ出せ。張るなよ』
無線から短い返事がした。神崎の背中は核保管室の奥へ消え、救助用の縄だけがゆっくり黒い床を滑っていく。
父が小さく息を吐いた。
『お前と同じだ』
「どこが」
『止める間を作らない』
「装備も人もいる」
『そこじゃない』
父は木戸の前へ立ったまま動かなかった。ガルも物置へは近づかず、父から数歩離れたところで伏せ直す。ただし眠ってはいない。黒い入口へ耳を向け、縄が擦れるたび鼻先を上げていた。
十分を過ぎたあたりで、救助用の縄が止まった。
『神崎さん』
父が物置へ声を投げる。返事はない。
「引かないで」
『分かってる』
父の手はもう縄へ伸びていた。触れる直前で止まり、握らずに膝へ戻す。
画面の外から、別の隊員が神崎を無線で呼んだ。雑音のあと、息の混じった声が返る。
『問題ない。古いバールが一本落ちてる。回収して、元の入口へ向かう』
「俺のです」
『今それを言うのか』
父がこちらを見た。神崎にも聞こえていたらしく、無線の向こうで短く息を吐く音がした。
『名前でも書いとけ。あと七分』
通話画面の時刻が午前十一時二十二分へ変わる。
父は物置を出て、家の裏へ回った。柿の木から延びた細い園芸縄は、以前と同じように黒い半円形の入口へ続いている。その横へ消防の太い縄が並び、少しずつ外へ送られていた。
先にヘルメットが出た。
神崎が黒い境をくぐり、斜面へ片膝をつく。右手には平たいバールを持っていた。作業着の膝と靴へ黒い砂がついているが、血は見えない。
立ち上がるより先に後ろを振り返り、縄を二度引く。
『通れた。そっちの入口は維持。物置側も閉めるな』
無線へ指示した直後、視界の中央に文字が開いた。
――――――――――
第零迷宮第一層に属する、すべての現実側接続路で生還経路を確認しました。
第一層の安定化が完了しました。
レベルが上がりました。
レベル:7 → 8
HP:29/82
MP:5/20
未配分能力値:12
スキルポイント:4
――――――――――
昨日からさらに十戻っていたHPは、そのまま二十九だった。最大値だけが遠ざかり、起こしていた背中が急に重くなる。
神崎が斜面で動きを止めた。何もない空中へ目を向けてから、父のスマートフォンを見る。
『そっちにも何か出たか』
「そっちにも?」
『出た顔だな。話は病院で聞く』
それだけ言い、神崎はバールを父へ渡した。
◇
午後二時前、神崎は本当に病室へ来た。
救助服の上着だけ脱ぎ、紺色のシャツの袖を肘まで上げている。左手には開けた缶コーヒーを持っていたが、椅子へ座るまで一度も口をつけなかった。
父は窓際に立ったまま、神崎が出した記録用紙を先に読んでいる。
「家の裏から物置まで、歩いて二十三分。中で何も出なければな」
「もう何もいないと思います」
「思う、は記録に書けない。いないのを確かめた範囲まで書く」
神崎は胸のペンを抜き、紙の端へ何か足した。蓋のない方を使ったせいで、戻す時に指へ黒い線がついた。
「それで、さっきの表示。お前にもステータスがあるな」
父が紙から顔を上げる。
「ステータス?」
俺は答えず、神崎を見る。
「俺にもある。久世東小へ入った時に出た。数字を見れば、身体が前より動くのも分かる。ただな」
神崎は缶コーヒーを右手へ持ち替えた。左の脇腹へ触れかけ、やめる。
「傷は数字より遅い。今のお前が立てないのは、見れば分かる」
「立てます」
「看護師を呼ぶか?」
ベッドの柵へ手を置いたまま、力を入れるのをやめた。神崎は笑わず、紙へ視線を戻す。
父が記録用紙を畳んだ。
「止めてください。こいつ、退院したらまた入る」
「入るだろうな」
「消防がそれを言うんですか」
「入口は封鎖できます。でも、大月君が別の入口を見つけないところまでは見張れません」
神崎は俺の方へ向き直った。
「止められないから認める、とは言ってない。入るなら、入った時刻と出口と、中に残っている人間を言え。お前の能力の名前は、今は聞かない」
「人はいなかった」
「ガルがいただろ」
返す言葉が止まった。神崎はそこだけ待ち、続ける。
「次も人間がいないとは限らない。扉を開けられるのがお前だけなら、それも先に言え。能力を全部見せろとは言わないが、帰れなくなる情報まで隠すな」
「危ないことと、帰り道は話します。能力は全部言わない」
「順番が逆な気もするが、今はそれでいい。嘘は混ぜるな」
了承したわけではない。神崎も、こちらが従ったとは思っていない顔だった。
枕元のスマートフォンが震えた。
大学の連絡アプリに、三枝千紘から個別のメッセージが届いている。
『昨日の音、駅の中でも録れました。駅員さんにも聞いてもらっています』
十一秒の音声ファイルが添付されていた。
再生すると、病室へ短い発車音が流れた。昨日はオンライン越しで拾えなかった旋律が、今度ははっきり聞こえる。
最後の音が消れたあと、低い音が一つだけ残った。
音楽ではない。地下の広い空間で、重い扉が閉じたような響きだった。
神崎の手から、ペンが止まる。
「もう一回」
再生し直す。二度目の低音が終わる前に、神崎の腰の無線が鳴った。
『久世救助一、出動指令。久世駅南口、地下連絡路内で黒色構造物が拡大。駅員二名と連絡取れず。閉鎖シャッターへ内部から衝突音あり』
神崎は立ち上がった。開けた缶コーヒーが椅子の下へ置かれ、中身がほとんど減っていない。
「その録音、送ってくれ」
「三枝が今、駅にいます」
メッセージへ続きが届いた。
『南口の人を外へ出しています。地下でもう一回鳴りました』
画面を見せると、神崎は一度だけ時刻を確かめた。
「名前と連絡先も。本人には、消防へ渡すと先に送れ」
病室を出ながら無線へ応答し、廊下の角で姿が消える。走る足音だけが少し残り、すぐ別の台車の音へ紛れた。
俺は三枝へ返信してから、未配分能力値を開いた。
感覚へ指を合わせる。八という数字は、右側を返してはくれない。そのまま触れず、筋力へ三、耐久へ三、敏捷と器用と精神へ二ずつ振った。
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名前:大月在真
種族:人間
レベル:8
HP:29/88
MP:5/22
筋力:13
耐久:18
敏捷:17
器用:11
感覚:8
精神:18
未配分能力値:0
スキルポイント:4
称号:
《第零迷宮初踏破者》
《隻眼の攻略者》
固有スキル:
《継承》Lv.1
継承能力:
《断界》Lv.1
一般スキル:
《呼吸合わせ》Lv.1
《境目抜け》Lv.1
《足場読み》Lv.1
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数字が変わると、指先まで熱が回った。けれど右肩を持ち上げれば縫った場所が引かれ、左腿にも鈍い痛みが残っている。
ベッドから足を下ろしたところで、椅子の下に残された缶コーヒーが目に入った。
廊下の遠くで、神崎を呼ぶ院内放送が一度だけ流れた。




