第十五話 第零迷宮
青い線の奥で回っているものを見ていると、左壁の方から乾いた音が届いた。
忘れていた園芸縄が、どこかで石を擦っている。一度止まり、また鳴った。父が外から引いたらしい。こちらの返事を待っているのか、少し間を空けてもう一度だけ縄が擦れた。
戻らないといけない。そう思って手をついたが、腕は身体を持ち上げなかった。右肩から力が抜け、肋骨の奥で遅れて痛みが広がる。
ガルがこちらを振り返った。
「先に出てもいいぞ」
耳は動いたが、出口へは向かわない。球体と俺を交互に見て、その場へ伏せた。
待っているのか、動けない俺を見張っているのかは分からない。小型リュックを左肘へ引っかけ、床を這う。二度進んだだけでガーゼの下が熱くなった。
球体までは、腕を伸ばせば届くところにある。
青い線へ左手を近づけると、球体の回転が止まった。
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第零迷宮第一層核
収容準備が完了しました。
固有スキル《継承》の保持者が接触してください。
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持ち上げて運ぶのかと思っていた。
球体は両手で包める程度でも、床へ何も支えず浮いている。今の腕で抱えたところで、入口まで持って帰れる気はしない。
指先で青い線へ触れた。
表面が縦に開く。
中には青白い輪が幾重にも重なり、それぞれが違う向きへ回っていた。機械に見えるのに、歯車も軸もない。近づいた指へ輪の一つが傾き、そのまま左手を通り抜ける。
冷たさはなかった。代わりに、足元の石が脈打った。
球体から青い線が流れ出す。手首へは上がらず、床を這って壁へ散った。赤い筋だけが表面へ残り、何度か明滅したあと、内側から細かく割れていく。
ガルが立ち上がった。割れた球体へ飛びかかろうとはしない。首を低くし、青い線が壁の中を走る音を追っている。
最後に残った黒い殻が崩れた。
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第零迷宮第一層核を収容しました。
保有迷宮核:1
レベルが上がりました。
レベル:6 → 7
HP:9/76
MP:1/18
未配分能力値:8
スキルポイント:3
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最大値だけが増え、傷の痛みは何も変わらなかった。
床へ落ちた核の殻が、黒い砂へ混じる。砂は青い線に触れた端から沈み、執行体の身体も一緒に崩れ始めた。
胸の外殻が消えると、刺さっていた鉈が横へ倒れた。取りに行こうとして、やめる。柄までは三歩もない。けれど今は、その三歩を立って進めなかった。
ガルが鉈へ鼻を寄せた。
「それは噛むな」
言った直後、ガルが柄を咥えた。刃を床へ引きずり、俺の方へ持ってくる。
「噛むなって」
ガルは鉈を落とし、鼻先で柄を押した。言うことを聞いたわけではない。それでも、鉈は手元へ戻った。
空の鞘は腰の後ろに残っている。鉈を収めるのに三度手間取り、最後は柄の方を動かしてどうにか入れた。
青い線が部屋の四方へ行き渡る。
執行体の残骸が完全に沈むと、正面の壁へ四角い継ぎ目が現れた。人一人が通れる幅から、ガルの肩が触れずに抜けられるところまでゆっくり広がる。
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迷宮核収容数が1に到達しました。
施設《核保管室》を開放しました。
施設《簡易倉庫》を開放しました。
現実側接続点を展開します。
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壁が音もなく奥へ退いた。
向こうにあったのは、今までの通路より狭い部屋だった。黒い石でできているのは同じだが、床に砂はない。左壁の奥にはもう一つ小さな空間があり、浅い棚だけが並んでいる。
中央には、腰ほどの高さの台座があった。青白い輪がその上で回っている。さっき球体の内側にあったものだ。透明な膜に包まれ、手を伸ばせば触れられそうな距離にある。
ガルが先に入った。棚の匂いを嗅ぎ、台座を避けて奥へ進む。敵がいないと分かっている動きではなかった。入口へ戻れる距離を残し、何度も後ろを見ている。
俺も膝を使わず、腕だけで継ぎ目を越えた。
部屋の右側には、もう一つ開口部がある。奥から入ってきた空気に、埃と油の匂いが混じっていた。
知っている匂いだった。黒い石の向こうへ、祖父の物置が続いている。
壁に掛けた錆びた鋸。古い肥料袋を押し込んだ棚。今朝バールを出した時、俺が閉めたはずの木戸まで見えた。
ただ、物置の一番奥にあった板壁だけがなくなっている。
代わりに核保管室が口を開け、黒い床が古いコンクリートの途中まで入り込んでいた。
物置の木戸が勢いよく開いた。
「在真!」
父が園芸縄を片手へ巻いたまま入ってくる。俺を見つけて二歩進み、その先が黒い床へ変わっていることに気づいて足を止めた。
「……なんだ、ここ」
「俺も今見た」
「木戸の隙間が青くなってた。開けたら、お前がいるし」
「お前、どこから出てきた」
俺が背後を指すと、父は核保管室の奥を見た。回収執行体の部屋までは一直線ではなく、青い光だけが継ぎ目の向こうへ続いている。
説明を待つより先に、父がこちらへ踏み込んだ。
「立てるか」
「無理」
「だろうな」
しゃがんだ父が、俺の右腕を取ろうとする。
「そっちは肩が開いてる」
「先に言え」
左側へ回り直し、脇の下へ腕を入れられた。身体が起きるだけで肋骨に響き、息が止まる。
ガルが低く唸った。
父の腕へではない。俺の右肩から落ちた血を見て、喉を鳴らしている。
「ガル、外へ行け」
父が言うと、ガルの耳が伏せられた。
「それ、命令するな」
「今その話をするのか」
「首輪、やっと切ったんだ」
父はガルの首を見た。毛の抜けた輪と血の乾いた古傷が、もう何にも隠れていない。
口を開きかけてやめ、俺の腰を抱え直す。
「なら、お前が先に出ろ。あいつは勝手にする」
物置のコンクリートへ安全靴が着いた。
朝の光は、迷宮の青よりずっと白かった。左目が慣れるまで顔を伏せていると、父がポケットからスマートフォンを出す。
「救急へ電話する」
「入口のことは」
「お前の傷より後だ」
言い返す気力が残っていなかった。
父が通報している間に、ガルが核保管室から出てくる。俺たちのそばでは止まらず、開いた木戸を抜けて庭まで歩いた。
首を上げ、山の匂いを嗅ぐ。
林へ行くのかと思ったが、ガルは物置の脇へ回った。壁際の乾いた土を二度掻き、そこへ身体を横たえる。
木戸を閉めても、黒い部屋は消えなかった。
工具棚の奥で青い輪が回っている。壁へ掛けた鋸の刃が、そのたびにかすかに震えた。




