第十四話 断界
ガルが首を振るたび、左壁へ続く鎖が床を擦った。
俺から離れようとしたわけではない。首を振るたび、黒い帯に引かれて金属音が鳴っている。執行体の命令は止まっても、輪は毛の奥へ食い込んだままだった。
球体の上には、三つの候補が残っている。
名前へ意識を向けると、それぞれの下へ短い説明が開いた。
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《追跡標識》
触れた対象へ標識を残し、同一迷宮内で方向を追跡します。
《捕縛鎖》
迷宮の壁または床から、対象を拘束する鎖を生成します。
《断界》
迷宮が作った拘束または境界へ触れ、その一点を断ち切ります。
一つを選択してください。
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捕縛鎖の文字で、指が止まった。
執行体が使っていたものと同じなら、魔物を近づけずに戦える。右側へ回られても、先に足を止められるかもしれない。
左壁で鎖が鳴った。
ガルが首を掻こうとして、爪を途中で下ろす。傷へ触れるのを嫌がったのか、力が残っていないのかは分からない。帯の下から滲んだ血が、黒い毛を細く固めていた。
俺は《断界》へ触れた。
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《断界》を選択しました。
《追跡標識》《捕縛鎖》は取得できなくなります。
固有スキル《継承》Lv.1
継承能力《断界》Lv.1を取得しました。
《断界》Lv.1
迷宮が作った拘束または境界へ触れ、その一点を断ち切ります。
消費MP:3
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表示が消えても、手の中には何もなかった。刃も、光も出ない。左の指を開いてみたが、浅く切れた傷に黒い砂がついているだけだ。
ガルへ手を伸ばすと、低い唸りが返った。
「これ、切るぞ」
言葉が通じたとは思わない。それでも、いきなり触るよりはましだった。
首輪の継ぎ目へ指を近づけると、ガルの唇が上がった。黄色がかった牙の間から、熱い息が左手へ当たる。
手を止めた。ガルは俺を見ている。さっき命令に引かれ、俺へ向けたのと同じ牙だった。
違うのは目だった。首輪を壊そうとした最初の日も、こいつはこうして俺の手を見ていた。噛まない保証なんて一度もなかった。
俺は手を引く。
「……自分で外せるなら、それでもいい」
ガルの耳が後ろへ倒れた。
前脚で黒い帯を掻く。爪が毛へ入り、首の傷まで引っかけた。ガルはすぐに脚を下ろし、鼻から荒く息を吐く。
外せない。それでも、もう一度手を出す気にはなれなかった。
俺が床へ手をついた時、ガルが身体の向きを変えた。左壁の鎖が張り、首が途中で止まる。
割れた外殻の跡が、こちらへ向いた。
ガルは伏せなかった。牙も隠さないまま、首だけを低くする。
「じっとしてろ、は違うか」
口から出してから気づいた。命令を嫌う相手に言うことではない。
ガルの耳が一度だけ動いた。
「動いたら、俺が避ける」
これも大して変わらない。左手を伸ばした。
帯へ触れる前に、距離を一度外した。右目があった頃の感覚で指を出していた。首ごと向き直り、左目で継ぎ目を捉える。
今度は指先が黒い表面へ乗った。
濡れた革のような感触だった。見た目より柔らかく、その下にはガルの体温と脈がある。少し押すだけで首の筋肉が硬くなった。
《断界》を意識しても、何も起きない。
指をずらすと、帯の奥で細い振動が返った。壁へ続く鎖ではない。首輪の中を一周し、また触れた場所へ戻ってくる。
そこへ意識を押し込むと、頭の奥が冷えた。閉じた右目のさらに奥へ、細い針を入れられたような痛みが走る。肩が引け、指が帯から離れかけた。
ガルの喉が鳴った。唸りではない。深く吸い、長く吐く。
俺も息を吐くと、冷たさが指先へ戻った。
黒い帯の表面に、髪より細い灰色の線が浮いた。
その線は首輪だけに入り、下の毛や皮膚へは伸びない。俺が切る場所を決めたというより、触れているものの中から、迷宮が作った部分だけが勝手に分かれた。
帯が急に縮んだ。ガルの首へ食い込み、止まっていた赤い文字が二つだけ灯る。巨体が跳ね起き、牙が左手のすぐ横で閉じた。
腕を引きたくても、指が帯へ貼りついて動かない。赤い文字がもう一つ増えた。
ガルの前脚が俺の胸を押した。爪は立っていない。それでも身体が後ろへ倒れ、左腿の傷から血が溢れた。指先だけは離れなかった。
「切れろ」
自分の声が、妙に遠く聞こえた。灰色の線が帯の内側まで沈む。
音はしなかった。
首輪の輪が一箇所で割れ、両端が外へ跳ねた。つながっていた鎖が重みを失い、左壁から床へ落ちる。
ガルが俺の手を振り払い、二歩下がって首を激しく振る。切れた黒い帯と鎖が毛から抜け、執行体の外殻へぶつかった。
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《断界》を使用しました。
MP:1/16
視覚欠損を抱えた状態で、迷宮の拘束構造を切断しました。
称号《隻眼の攻略者》を取得しました。
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表示が揺れた。
右目の奥に残った痛みで、文字が二重に見える。左手を床についたまま吐き気をやり過ごしていると、黒い影が正面を横切った。
ガルが外れた首輪へ噛みつき、帯を振り回して床へ叩きつける。二度目で赤い文字が潰れ、三度目には帯の表面が裂けた。それでも放さず、奥歯で黒い輪を噛み砕く。
止める気にはならなかった。砕けた欠片が砂へ混じるまで、ガルは何度も顎を動かした。最後に鎖を前脚で押さえ、壁へつながっていた側を噛み切ろうとする。
「もう外れてる」
ガルはやめなかった。
俺のために壊しているわけではない。外れたかどうかも関係なく、首にあったものを自分の牙で形がなくなるまで壊したいらしい。
やがて鎖を放し、首を低くしたまま部屋の出口へ向かった。足音が遠ざかる。
追うために右手をついたが、肋骨の痛みで身体が持ち上がらなかった。ガルを呼び止める理由も、呼べば止まると思える理由もない。
黒い尾が曲がり角の手前で消えた。少しして、金属が壁へ当たる音がした。
戻ってきたガルは、口に小型リュックの肩紐を咥えていた。捕縛線に巻かれていた部分は千切れ、片方の紐だけが長く垂れている。俺の前まで引きずってくると、リュックを床へ落とした。
「それ、俺の」
ガルは息を吐き、前脚でリュックをこちらへ押した。俺の言葉に答えたというより、さっさと使えと言われた気がした。
ファスナーを左手でつまむ。指先が痺れて二度滑ると、ガルの鼻が横から寄ってきた。
「今やってる」
鼻先が離れる。
残っていたガーゼを出し、左腿へきつく巻いた。右肩は上着の内側まで濡れていたが、腕を脱ぐ余裕はない。浅い傷へ構っているうちに、深い方から動けなくなる。
水を一口だけ飲む。胃へ落ちた冷たさで吐き気が戻り、残りは蓋を閉めた。
ガルは部屋の中央へ顔を向けていた。半分が黒く、半分に赤い線の走った球体が、まだ床の上へ浮いている。
執行体を倒した直後より、脈は遅い。赤い光が弱くなるたび、周囲の壁から小さな振動が返る。止まりかけた心臓を、部屋全体で動かしているようだった。
ガルが球体へ近づく。首には、毛の抜けた輪と古い傷が残っていた。黒い帯も鎖もない。それでも一歩目だけは、何かに引かれるように頭が揺れた。
すぐに踏み直し、自分で球体の手前まで進む。
鼻を近づけたガルが、低く唸った。
球体の赤い線が一斉に消え、代わりに黒い表面の中央へ青い細線が走った。
俺が触れた時とは違う。縦に開いた青い線の奥で、何かがゆっくり回っている。
ガルは下がらなかった。俺も、まだ立てなかった。




