灰色の砂と、失われた「最強の牙」――漂流者の目覚めと、クロエの誕生
世界が断線した。
王都を飲み込んだ白銀の閃光と、黒煙の魔女が放った「全存在抹消」の奔流。二つの「最強」が衝突したその中心点において、物理法則は瓦解し、概念そのものが砕け散った。王城、学園、そしてレオナがかつて「支配」しようとしたこの世界の理そのものが、あまりの魔力の密度に耐えかねて霧のように消滅していく。
レオナの視界を埋め尽くしていたのは、母の瞳の中にあった「冷酷な管理者」としての冷徹な光と、崩れゆく王城の瓦礫の中で、必死に手を伸ばしていた執事・ジークの歪んだ表情だった。
――あぁ、お母さん。貴女が求めていた「正しい世界」って、こんなに静かなものだったのね。
意識の最後でそう呟いた瞬間、彼女の身体は時空の裂け目に飲み込まれ、王都という名の「物語」から強制的にログアウトさせられた。
* * *
波の音。
それは、王都の地下牢で響いていた重苦しい鎖の音でも、学園の舞踏会で流れていた甘美なワルツの調べでもなかった。
もっと原始的で、もっと容赦のない、荒ぶる大海原の咆哮だ。
レオナは、泥にまみれた砂浜で目を覚ました。
全身が鉛のように重い。指先を動かそうとするだけで、全身の魔力回路が焼け付くような痛みを訴える。空を見上げると、そこには見知らぬ二つの月が浮かんでいた。一つは青白く冷たく、もう一つは血のように赤黒い。ここは、彼女がかつていた王都とは星の配置も、魔法の質も異なる、未知の大陸「神大陸」の辺境だった。
「……ここ、は」
掠れた声が、自分の喉から出た。
立ち上がろうとして、足元がよろめく。視界が極端に狭い。まるで、壊れたモニター越しに世界を見ているような違和感。彼女は自分の手を見つめた。白く、細く、泥に汚れた手。
けれど、その手を見ても、自分自身が「何者」なのかが思い出せない。
レオナ、という名前。
悪役令嬢、という役割。
全貫通、という名の牙。
そして、ジークという名の執事。
それらの単語が脳裏に浮かぶたび、頭が割れるような激痛が走り、記憶の断片が砂のように崩れ去っていく。自分が何のために戦い、なぜこんな見知らぬ場所で倒れているのか。一切が霧の中だ。ただ、胸の奥底で、焼けるように熱い「何か」だけが、まるで飢えた獣のように疼いている。
「……分からない。何も、思い出せない」
彼女は立ち上がった。砂浜には、かつての自分に関係するものは何一つ落ちていなかった。ただ、衣服の胸元に、酷く汚れた勲章のような布切れだけが残されている。彼女はそれを握りしめ、ふらりと歩き出した。
その時だった。彼女の魂の深淵から、冷たく、機械的な声が響いた。
(――演算を開始しろ。周囲の環境を解析し、生存のための最適解を導け。それが貴様の……レオナ、の役割だろう?)
「誰……?」
彼女は空中に向かって問いかけた。けれど、返事はない。その代わりに、彼女の視界に無数の赤いラインが走る。右手の指先が、無意識のうちに空をなぞる。そこには複雑怪奇な「魔法式」が浮かび上がっていた。かつて彼女が王都で最強を誇った、あの貫通魔法の術式だ。
しかし、今の彼女にはその術式が何を意味するのか分からない。ただ、反射的にその形を作ることが、自分にとっての「生存」であるかのように、本能がそれを求めている。
彼女は、魔法使いとしての卓越した才能を宿したまま、それを制御するための「理」をすべて失っていた。まるで、最高級の武装を施された機体から、操縦マニュアルだけが抜き取られたような状態だ。
歩き続けること数時間。
砂浜を抜けた先には、見たこともないほど巨大で、不気味にそびえ立つ密林が広がっていた。彼女は、その森の奥から、何かがこちらを覗き込んでいる気配を感じた。
――獣だ。
こちらの世界に住む、魔力を食らう飢えた捕食者。彼女は反射的に立ち止まった。逃げるべきか、戦うべきか。彼女の理性は「分からない」と答える。けれど、彼女の身体は違った。彼女の筋肉が緊張し、魔力回路が戦闘態勢へと移行する。記憶はなくても、この身体が「殺し合い」の作法を、細胞レベルで記憶していた。
彼女が追いつめられ、絶体絶命の瞬間、森の木陰から一人の男が飛び出した。
神大陸の辺境村で傭兵副団長を務める男、アルヴィンだった。彼の振るう大剣が閃き、魔獣の首を叩き斬る。
「……おい、生きてるか? お嬢ちゃん」
アルヴィンが泥にまみれた少女を抱え上げ、村へと駆け込む。村はずれの小さな家で、少女を看病したのは、この村で慎ましく暮らす高齢の夫婦だった。数日後、高熱にうなされながら目覚めた少女を、老夫婦は慈しむように見守っていた。
「……ここは?」
「神大陸の北端、名もなき村だよ。海辺で倒れていたところを、アルヴィンが助けてくれたんだ」
老婆が温かなスープを差し出しながら、優しく微笑む。
「名前を思い出せないんだろう? ……お前さん、今日から『クロエ』だ。私がずっと昔、可愛い孫娘につけようと思っていた名前だよ」
クロエ。
その響きが、少女の心に静かに馴染んだ。
「クロエ……。うん、ありがとう」
少女がその名を噛み締めた瞬間、彼女の魂の深淵で、冷たい声が再び響いた。
(――甘い。……名前など、記号に過ぎない。戦う力を持たぬ者に慈悲など、ただのノイズだ。クロエ、貴様は脆弱だ。記憶を失い、家畜のように温かなスープに酔いしれるつもりか?)
かつての「最強の魔女」の思考が、今の彼女の意識を冷酷に嘲笑う。クロエは老夫婦の温かな手を取りながら、その内なる冷徹な声に対し、無意識のうちに拒絶の意思を返していた。
(……うるさい。おじいさんとおばあさんは、私を助けてくれたの。これが……人間がすることでしょう?)
かつてのレオナにはなかった、「優しさ」という概念。
「効率」ですべてを測っていた彼女の中に、今は不確かな「感謝」が芽生えている。その感情のゆらぎが、かつてのレオナの理屈を少しずつ、しかし確実に侵食し始めていた。
名前を繰り返すたびに、胸の奥で何かが静かに震える。
彼女はまだ知らない。この村での穏やかな生活が、いずれ彼女の魂を二つに引き裂くこと。そして、この村で自分を助けてくれたアルヴィンとの出会いこそが、最強の魔女を「本当の人間」へと変えるための、最初のトリガーになることを。
二つの月が輝く神大陸。
かつて世界を貫いた牙は今、無垢な少女の輪郭を纏い、老夫婦の愛に包まれて新たな一歩を踏み出した。レオナの意識の海に、初めて「誰かを守りたい」という名もなき感情が芽生えたその日。
かつて最強だった女の、魂の統合に向けた長い物語が、静かに幕を開けた。
クロエとして生きる少女は、やがて来る嵐も知らず、老夫婦の家で小さな安らぎを覚える。しかし、彼女の指先は無意識に、夜な夜な空中に「全貫通」の軌跡を描き続けていた。
忘却したはずの力と、芽生えたばかりの心。
この二つが一つに重なるとき、彼女はかつての自分を超越した、本当の意味での「最強の魔女」として蘇るはずだ。
遠く、森の向こうで魔獣が咆える。
クロエは窓の外を見つめ、何かに呼ばれるような予感を感じていた。
旅立ちは、近い。




