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『世界のシナリオにハメられた「黒煙の魔女」の娘、一子相伝の【魔法障壁全貫通】で理不尽な運命もバカ王子もすべてブチ抜く  作者: ルツ


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灰色の夜明けと、名もなき村の傭兵――漂流者クロエの再誕

二つの月が、空を支配していた。

 一つは冷たく凍てついた青白い光を放ち、もう一つは獣の眼のように血濡れた赤色で地を照らしている。ここは王都ではない。かつてのレオナが愛した、あるいは憎んだ理すら存在しない、神大陸の辺境。

 王都を飲み込んだ白銀の閃光と、黒煙の魔女が放った「全存在抹消」の奔流。その記憶は、まるで他人の物語を覗き見ているかのように、極めて曖昧で遠い。

 泥の匂いと、微かな潮騒の音。

 クロエは、村はずれの小さな小屋でゆっくりと瞼を開いた。

 身体が重い。まるで、一度解体された身体を無理やり繋ぎ合わせたかのような、チグハグな感覚。指先を動かそうとすると、微かな痺れとともに、魔力回路が未発達のままの回路のように軋んだ音を立てる気がした。

「……うなされていたのかい?」

 枕元に座っていた老婦人が、慈しむような手つきでクロエの額に触れる。その手は温かく、王都でレオナが味わったどの魔法の治癒よりも心地よく、無防備なものだった。

 彼女は、村の救済者であった。名もなきこの辺境の村で、漂流者の娘を拾い上げ、一週間もの間、献身的に看病し続けてきた聖母のような人物だ。

「……ごめんなさい、おばあさん。また、よく分からない……でも、どこか懐かしい場所へ行かなければならないような、そんな夢を」

 クロエはそう呟きながら、自分の手を見つめる。

 記憶はない。自分を「最強の魔女」だと定義する術式も、高潔な傲慢さも、すべては霧の中に消えてしまった。今の彼女に残されているのは、ただ、この村の人々の生活を守りたいという、純粋で無垢な衝動だけ。彼女は、自分が何者かという問いに対して、今のところは「クロエ」という名前以上の答えを見つけられずにいた。

 その時だった。彼女の魂の深淵で、どこか無機質で、しかし極めて明晰な思考が響いた。

(――非効率的だ。あのような老いぼれに情をかけるなど、私の持つ魔力の無駄遣いに過ぎない。クロエ……今の貴女は、私の器だ。そんな村の娘ごときを演じて、何の意味がある?)

 脳内で響く、かつてのレオナの思考。

 それは冷酷な嘲笑ではなく、あくまでゲームの攻略本を読み上げるような、論理的かつ合理的な提言だった。かつてのレオナは、この世界を「攻略すべきゲーム」として捉えていた。だからこそ、彼女にとってこの村での生活は、魔導と戦略に彩られた王都の情勢に比べれば、あまりに情報の解像度が低く、生存効率の悪い、退屈な箱庭に過ぎないのだ。

 クロエは、ふっと小さく微笑み、心の中で答えた。

(……うるさいな。これは無駄なんかじゃないよ。「生きる」ってことなんだと思う。……ねえ、レオナ。貴女だって、ゲームの攻略ルートをなぞるだけじゃなくて、誰かのために何かをしたいって、一度くらいは思っていたんじゃないの?)

 クロエの問いかけに、深淵の声は一瞬だけ沈黙した。

 それは意図的に黙ったというよりは、クロエという未知の変数に対する「演算停止」に近い。かつての最強の魔女は、論理だけでは導き出せない「情動」という名のバグを突きつけられ、一瞬だけ再起動に時間を要したのだ。その沈黙の中には、確かにかつてのレオナが抱えていた、名付けようのない孤独の気配が色濃く漂っていた。

(……ふん。感情論で反論するとは、実に低確率な試行だ。だが、今の状況下での生存率向上が見込めるなら、その「絆」というパラメータも考慮に入れておこう)

 レオナの声は相変わらず淡々としていた。しかし、そこには突き放す響きはなく、どこか新しい戦術を習得しようとする研究者のような、奇妙な納得感が含まれていた。

 その時、小屋の扉が勢いよく開かれた。

 日光が部屋に差し込み、埃が舞う。そこに立っていたのは、一人の男だった。村の傭兵副団長・アルヴィン。大剣を背負い、無骨な革鎧に身を包んだ男。その顔には、この過酷な神大陸で幾多の魔獣と渡り合ってきた者特有の、鋭くも深い慈愛が刻まれていた。彼は荒い息を吐きながら、獲物を担いだまま、ニカッと笑った。

「おい、クロエ。少しは顔色が良くなったか? ――お嬢ちゃん、今日からお前も俺たちの『家族』だ。二度と、あんな砂浜で一人で死にそうな顔をするんじゃないぞ」

 アルヴィンの言葉。その音色が、クロエの心臓を強く打ち鳴らす。

 彼の手は、戦士のそれでありながら、クロエに与えられた役割という名の「絆」を象徴していた。彼女は、彼の中に「強さ」と「優しさ」の両方を見た。それは、かつてのレオナが執事のジーク以外には決して向けなかった、信頼の形にも似ていた。

 クロエは立ち上がった。足元はまだふらつくが、彼女の瞳には確かな決意が宿っている。

「……ありがとう、アルヴィンさん。私、ここで生きていきたい。……強くなりたいの。みんなを守れるように」

 彼女の言葉に、アルヴィンは驚いたように目を丸くし、それから豪快に笑った。

「強くなりたい、か。いい目だ。傭兵団に入れたいくらいだが、まだ身体がなまってやがる。まずは村の周りの掃除からだ。手伝ってくれるか?」

「ええ、喜んで」

 そう答えたクロエの指先が、無意識のうちに空をなぞる。

 そこには、かつてのレオナが最強を誇った「貫通魔法」の術式が、薄く、霞のように浮かび上がっていた。もちろん、彼女にその術式の全貌を理解する理屈はない。けれど、身体が、細胞が、その魔力の流れを記憶しているのだ。

 クロエは、アルヴィンに続くようにして小屋を出た。

 神大陸の朝。二つの月が沈み、代わりに黄金の陽光が荒野を照らし始める。

 ここから先、彼女がどんな道を選ぶのか。最強の魔女の記憶が戻ったとき、彼女は「クロエ」として今の優しさを抱き続けられるのか。あるいは、再び「レオナ」の論理武装を纏うのか。

 彼女は知らない。この小さな村での、傭兵アルヴィンとの出会いこそが、かつての世界を塗り替えた「最強の魔女」を、本当の意味での「人間」へと完成させるための、魂の対話の始まりであることを。

(――アルヴィン……か。この男、どこか昔の騎士たちに通ずるものがある。クロエ、警戒を怠るな。だが……今のところは、その選択を観測しておこう)

 レオナの声は研究者のように静かだった。しかし、その言葉の端には、クロエの可能性を認め始めた、微かな期待が混ざっているように感じられた。

 二つの魂が、少しずつ、しかし確実に重なり合っていく。最強の牙を隠し持った少女は、神大陸の灰色の砂の上で、初めて自分の足で大地を踏み締めた。

 それは、世界を救うための旅路などではなく、たった一人の少女が自分自身の心を取り戻すための、気が遠くなるような長い物語の始まりだった。

 風が吹き抜ける。村の向こう側から、魔獣の咆哮が聞こえてきた。

 アルヴィンが剣の柄に手をかける。クロエもまた、その横で静かに身構えた。

 彼女はまだ、自分が何者なのかを知らない。けれど、今目の前にいるこの男を、村のみんなを、絶対に守り抜くという強烈な「渇望」だけが、彼女を突き動かしていた。

 二つの月が消え、新しい夜明けが、彼女という名の物語に光を当てる。

 最強の魔女と、無垢な村の娘。二人の魂が、神大陸の荒野で静かに咆哮した。

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