トリガー――降臨、黒の獣と崩れゆく理
黒龍の残骸は、空中で光の塵となって霧散した。
王都を埋め尽くしていた戦火の匂い、魔法の焦げ付いた臭気、そして絶望。それらすべてが、まるで最初から存在しなかったかのように、虚空へと吸い込まれていく。王都の住人たちは、自分たちが今何をしていたのかも思い出せず、ただ広場で立ち尽くし、空を仰いでいた。
レオナは、瓦礫の山の上に立ち、その光景を冷徹な視線で見つめていた。
勝利したという実感はなかった。それどころか、心臓の奥底で、かつてないほどに不吉な警報が鳴り響いている。
「……終わった? いや、違う」
レオナが呟いたその瞬間、彼女の足元に、魔法陣とは根本から異なる「記号」が浮かび上がった。それは幾何学模様ではなく、世界そのものを構成する「論理式」の断片だった。
真っ赤に輝くその紋様は、レオナがこれまでハッキングしてきたどのプログラムよりも強固で、そして凶悪な「死の刻印」として彼女の足元を縛り付けた。
「お嬢様、退がってください!」
ジークが鋭く声を上げ、レオナの前に躍り出る。その表情は、普段の冷静沈着な執事のものとは明らかに違っていた。彼が恐れているのは、強大な敵ではない。かつて主が最も愛し、そして最も畏怖していた存在の帰還だ。
黒龍の破壊は、この世界のセキュリティにおいて最も重い、最上級の「緊急プロトコル」を起動させるためのトリガーに過ぎなかった。
王城の跡地で、夜空が耐えきれぬ悲鳴を上げて引き裂かれた。
空間が物理的に押し潰され、そこから溢れ出したのは、純粋な「黒」だった。かつて辺境の地で、ジークがその生涯をかけて仕え、忠誠を誓い、そして今もその名を口にするたびに魂が震えるような――かつて『大奥様』と呼ばれた『黒煙の魔女』の姿が、そこに具現化した。
「あぁ……やはり、そう来るのね」
レオナは杖を強く握りしめる。彼女が鏡を見るたびに幻影として追いかけてきた、あの懐かしくも恐ろしいシルエット。
そこに立っていたのは、かつてこの国のすべての理を恐怖させた『黒煙の魔女』。レオナの母親その人の姿だった。しかし、その瞳にはかつてレオナに向けた慈愛の光はなく、あるのは世界を管理するシステムの「管理者権限」だけ。無機質で、無慈悲で、そして絶望的なまでに完璧な『理』の化身だった。
「お母さん……?」
レオナの声が、わずかに震えた。
かつて自分が「全貫通」という歪な力を磨き、世界を壊そうと足掻き続けたのは、この背中を追うためだった。お母さんがかつて見ていた景色、お母さんがこの世界を「ゴミだ」と切り捨てた理由、そのすべてを理解したかった。
だが、今の目の前にいるのは、愛する母ではない。かつての最強の魔女を、システムがバックアップデータから復元し、都合よく操っているだけの「空っぽの残骸」だ。
『レオナ。貴女はよく頑張った。だが、バグの排除はここで終わる』
その声は、空気を振動させるのではなく、直接レオナの脳内に流し込まれた。
王都全体が、大奥様の放つ魔力の重圧に圧殺され、地面がミシミシと沈下する。ジークはレオナの前に立ち、ボロボロになった身体で黒剣を構えた。その背中は、かつての主を守り抜こうとした、悲壮な決意に満ちている。
「レオナ様、下がってください……! あれは、あの大奥様がシステムに完全に取り込まれた姿です。貴女が積み上げてきたすべてを否定し、貴女という存在を『無』へ還すための最後の装置……!」
「下がれって、無理よ。ジーク」
レオナは不敵に笑い、自分を縛る赤い「死の刻印」を、あえてその指先で引き裂いた。バリバリという火花が散る。彼女の瞳には、恐怖ではなく、かつてないほどの昂揚が宿っていた。
「……私の魔法を、お母さんに真っ向からぶつけられる。これ以上ないくらい、面白いチャンスじゃない。勝てるか負けるかなんて、どうでもいいわ。……私はただ、この最強の理不尽を、私の手で『貫通』したいだけ」
レオナが放った貫通魔法の何倍もの高密度な魔力が、魔女の周囲で淀み、空間を歪めていた。空には無数の光の矢が浮かび、大地からは影の触手が這い上がる。魔女が右手を軽く振るだけで、王都の半分を飲み込んでいた瓦礫が、原子レベルまで分解されて消滅していく。
それは、レオナがこれまで戦ってきた「偽りの英雄」たちとは、次元が違った。
これは、最強の魔女がこの世界を支配していた時代の再現であり、同時に、システムが「バグ」を掃除するために用意した、最も残酷な拒絶の形だった。
「さあ、舞踏会のクライマックスよ。お母さん。……私が、貴女を超えるところ、見ていてよね!」
レオナが叫び、漆黒の閃光が放たれる。
それが、絶望的な戦いの始まりの合図だった。
空を焦がす黒煙と、世界を穿つ白銀の光。二つの最強が交錯する王都の廃墟で、ジークはただ、その光景を食い入るように見つめ続けることしかできなかった。彼にとって、崇拝した大奥様と、今最も愛するレオナ様がぶつかり合うこの場所は、この世で最も過酷な地獄であり、同時に、二人の最強の魂がぶつかり合う、この世で最も美しい戦場でもあった。
戦いは、始まったばかりだ。
レオナが抱える「最強」への執着と、大奥様が守る「理」の壁。
その果てに何が待っているのか、この時点でのレオナには知る由もなかった。ただ、彼女の全神経は、かつて憧れた母の背中を、今度こそこの手で貫くことにだけ注がれていた。




