第5話「箱庭の境界線」
王宮のバルコニーから見下ろす王都は、夜になると、巨大なクリスタルが放つ青白い燐光に包まれた。
それは幻想的で、どこか水槽の底を覗き込んでいるような錯覚を覚えさせる。街の灯りは定刻になると一斉に消え、人々は申し合わせたように眠りにつく。悪夢にうなされる者も、夜更かしをして不満を数える者も、この街には存在しない。
「先生、まだ起きていたんですか? 夜更かしは万病のもとですよ」
背後から、ミゼリが絹のような足音で近づいてくる。彼女の手には、銀のトレイに乗った温かいハーブティー。その香りは、前世で僕が彼女に勧めた「リラックス効果のある処方」を、完璧に再現していた。
「……ミゼリ。あの空のクリスタルに吸い上げられた『感情』は、その後どうなるんだ」
僕の問いに、彼女は楽しげに小首を傾げた。
「消えるわけではありませんよ。それは純粋なエネルギーとして精製され、この国の結界や、明かり、そして私の魔力の源になります。いわば、みんなの『苦しみ』が、この国の『豊かさ』に変換されているんです。素敵だと思いませんか?」
彼女の論理は、あまりにも完成されていた。
精神的な苦痛を物理的なエネルギーに置換する。それは、負の感情を「無駄なもの」として排除するのではなく、「再利用」するという究極の合理性だ。
しかし、そのプロセスにおいて、個人の「尊厳」という概念は完全に無視されている。
「君がやっているのは、社会全体の『感情的去勢』だ。痛みを知らない人間に、他者への共感は育たない」
「でも先生、共感なんて、傷つけ合うための道具でしかないって……あの日、診察室で感情的に訴えてきたのは、先生の方ですよ?」
彼女の言葉が、古傷を抉るように僕の胸に刺さった。
――ああ、そうだ。
前世の僕もまた、彼女のあまりに過剰な共感能力が引き起こす自傷行為を止めるために、「他人の感情なんてゴミ箱に捨ててしまえばいい」と、半ば自暴自棄に説得したことがあった。
彼女はそれを、文字通り「世界規模」で実行しているに過ぎない。
「先生。私は、先生が作りたかった世界を形にしているだけ。ここは、先生が誰にも傷つけられず、誰の心も壊さなくていい……真っ白な『無菌室』なんです」
彼女の手が、僕の頬を滑る。その指先の冷たさは、僕自身の「善意」の果てにある、報いの冷たさだ。
僕は彼女の瞳の中に、自分自身の傲慢な理想が鏡のように映っているのを見た。
この「無菌室」を壊すことは、僕が積み上げてきた臨床のすべてを否定することになるのかもしれない。
翌朝、僕は診察室の扉を叩いた。
閉じこもるのではなく、この歪んだ「平和」の中に、術士として介入するために。




