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第4話「静寂に満ちる平和な世界」

 ミゼリに連れられ、僕は初めて王宮のバルコニーへと足を踏み出した。

 

 視界に飛び込んできたのは、息を呑むほどに美しい王都の全景だった。白亜の建物が整然と並び、石畳の道は塵一つ落ちていない。空に浮かぶ巨大なクリスタルが、柔らかな光を街全体に降り注いでいる。

 

 争いも、怒声も、悲鳴もない。そこには、僕がかつて前世で夢想した「理想の秩序」が具現化されていた。

 

「見てください、先生。みんな、あんなに幸せそうに笑っています」

 

 ミゼリが手すりに細い指をかけ、慈愛に満ちた眼差しで街を見下ろす。

 広場では人々が行き交い、市場は賑わっているように見える。だが、目を凝らした瞬間、僕の背筋を冷たい震えが走り抜けた。

 

 行き交う人々は皆、判で押したような穏やかな微笑を浮かべている。転んで膝を擦りむいた子供ですら、泣き声を上げることもなく、ただぼんやりと立ち上がり、また微笑んで歩き出す。

 活気があるはずの市場には、値切る客も、威勢よく叫ぶ商人もいない。ただ、事務的な物量交換が静かに行われているだけだ。

 

「……彼らの瞳には、何も映っていない。ミゼリ、君は何をしたんだ」

 

「私が、皆の『痛み』を食べてあげているんです。先生が教えてくれた通り、感情をコントロールすれば、世界はこんなに静かになるんですよ」

 

 彼女は誇らしげに胸を張る。その言葉の端々に、僕が彼女に施した「認知行動療法」の断片が、魔法という凶器によって歪められた形で混じっていた。

 

 彼女は聖女の魔力を使い、国民の負の情動――怒り、悲しみ、不安を物理的に摘出し、空中に浮かぶあのクリスタルが吸い上げていたのだ。それは治療などではない。魂の去勢だ。

 

「先生。今の私は、あの日先生が言っていた『慈しみ深い人間』になれたでしょうか?」

 

 小首を傾げる彼女の瞳は、どこまでも澄んでいた。悪意も、罪悪感もない。ただ、僕という存在に承認されたいと願う、純粋な狂信者の輝きしかない。

 

 足元が崩れ落ちるような感覚に襲われる。


 目の前に広がるこの美しい王都は、平和などではない。巨大な、白亜の、静止した墓場だ。そしてその墓標を刻んだのは、他ならぬ僕が彼女に与えた語彙と理論だった。

 

「……君のやり方は、間違っている。これは人間としての生を否定しているのと同じだ」

 

 僕の言葉に、ミゼリは一瞬だけ悲しげにまつ毛を伏せた。だが、すぐにその唇は、三日月のような艶やかな弧を描く。

 

「じゃあ先生、私に『正しいやり方』を教えてくださいね? 先生の治療なら、きっとこの世界をもっと素敵にできるはずですから」

 

 彼女の細い指が、僕のシャツの胸元を弄ぶ。

 

 僕は彼女の横顔を見て確信する。


 この「仮初の平和」を壊さなければ、僕もまた、この静寂の中に埋もれて死ぬことになる。

 

 生存への渇望。そして、自分の理論が招いたこの惨劇への、拭い去れない責任感。

 僕は初めて、彼女から視線を逸らさずに、静かに告げた。

 

「ああ、いいだろう。……教えてあげるよ、ミゼリ」

 

 それは、聖女への宣戦布告。

 僕自身の過去と対峙するための、歪んだ「再診」の始まりだった。

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