第3話「賢者の再定義」
喉の奥に張り付いた彼女の名を呼ぼうとして、激しい眩暈に襲われた。
僕の脳が、網膜に映る彼女の姿に「別の情報」を強引にラベル貼りしていく。強烈な既視感と共に、知らないはずの記憶が、古くからそこにあったかのように居座り始める。
彼女は、この帝国の第一聖女だ。
自分の記憶が、外側から未知の指によって侵食され、塗り替えられていく生理的な不快感に襲われ、僕は自分の正気を疑わざるを得なかった。脳が目の前の光景を、現実として受け入れるための整合性を、勝手に捏造し始めている。
「……ミゼリ・ラトランド」
その名が口をついて出た瞬間、僕の中で「彼女」と「聖女」が分かちがたく癒着した。そして同時に、僕自身の名前さえもが、得体の知れない記号へと書き換えられていく。
セト。この国の言葉で「知を編む者」を意味する、呪いのような役職名。
「……ああ、そうです。セト様。やっと、この世界の身体と名前が馴染んだのですね」
ミゼリが慈しむように僕の頬を撫でる。
「召喚……? 儀式をしたのか。僕を無理矢理この世界に落とすために」
「無理矢理だなんて、心外です。私はただ、先生をこちらの安全な揺り籠へ移しただけ。……ここは帝国の最奥。誰も先生を害することはできません」
彼女が扉を開け放つと、白亜の廊下に控えていた侍女たちが、一斉に床に額を擦りつけた。
「賢者セト様の御目覚めを祝し、全土に恩赦を!」
僕の名が唱和された。
しかし、彼女はその歓喜の声を、冷淡な一瞥で凍りつかせる。
「下がれ。この御方に触れていいのは、私だけだと言ったはずです」
侍女たちが震えながら退散していく。その光景に、僕は圧倒的な格差を突きつけられた。前世では僕の患者であり、社会の端にいた彼女が、ここでは生殺与奪の権を握る神に等しい存在として扱われている。
僕はふらつく足取りで、彼女の手を逃れようと出口へ向かったが、診察室の扉に触れた瞬間、不可視の障壁が僕を撥ね退けた。
「先生、あの日。私と一緒に死んでくれて嬉しかった」
ミゼリが背後から僕の首に腕を回す。吐息が耳をくすぐり、甘い香りが思考を麻痺させる。
「でも、次はもっと長く楽しみましょう。……死よりも深い、永遠を」
その言葉に、僕の背筋に氷のような戦慄が走った。
この女は、狂っている。
だが、その狂気の根源は、他ならぬ僕が数年かけて彼女に植え付けた「依存」の種だ。彼女をこのままにしておけば、僕は生涯、この白い部屋から出られない「飼い犬」として朽ちるだろう。
恐怖の底で、沈んでいた精神科医としての本能が、微かに、しかし鋭く脈動した。
――生き延びるために。
僕は、彼女のそばにいなければならない。
聖女という仮面の裏側にある、肥大化した執着を解体し、まともな人間に戻す為に。それが、この異世界という名の巨大な監獄から脱出するための、唯一の生存戦略だ。
「……わかったよ、ミゼリ。すべて君の言う通りにしよう」
僕は震える指先で、彼女の細い手を握り返した。
それが、偽りの救済の始まりであるとも知らずに。




