第2話「死の淵の微熱」
視界が、不快な熱を帯びたまま、ゆっくりと明転していく。
鼻腔を突いたのは、春の陽光の匂いではなく、鼻の奥がツンとするような消毒液の、無機質な臭気だった。
――ああ、そうか。
僕はまだ、夢の中にいるのだ。腹部を貫かれたあの熱い違和感も、ブラウスを汚した彼女の返り血も、すべては出来の悪い悪夢の残滓に過ぎない。
目を開ければ、そこにはいつも通りの、清潔で、退屈な診察室が広がっているはずだ。
重い瞼を押し上げると、案の定、見慣れた景色が僕を待っていた。
真っ白な壁。整理整頓された本棚。
そして、僕が長年使い込んできた革張りの椅子。
「……先生。気分はどうですか?」
聞き慣れた、鈴を転がすような声。
椅子の背後から、彼女が音もなく現れた。前世で僕を刺した時の、あの狂気を孕んだ表情ではない。数年前、初めて僕の前に現れた時のように、どこか頼りなげで、けれど深い慈愛を湛えた瞳。
ただ、一つだけ決定的な違和感があった。
彼女が纏っているのは、あの白いブラウスではない。雪のように白い、それでいて金糸の刺繍が細密に施された、見たこともないほど豪華な「聖女」の法衣だった。
「ここは……?」
声を絞り出そうとして、絶句した。
脇腹に、焼熱の杭を打ち込まれたような激痛が走ったからだ。
「動かないで。……まだ、傷が『定着』していないんです」
彼女の冷たい指先が、僕の腹部にそっと触れる。
見下ろすと、シャツの下に隠されたあの刺し傷が、異様な光を放っていた。それは単なる傷口ではない。傷口を中心に、青白い血管のような紋様が皮膚の下を這い回り、脈動している。
彼女は、その「傷」を愛おしそうに撫でた。
「先生が私にくれた痛み。……それを核にして、先生をこちらの世界に繋ぎ止めました。これが先生の、この世界での『魔力の源』になるんですよ」
「何を……言っているんだ」
混濁する意識の中で、僕は彼女の言葉を咀嚼しようと試みる。
リソース。定着。それは僕が彼女との対話において、精神の安定度を測るために多用した語彙だった。それが今、彼女の口から、おぞましいほど甘い響きを伴って吐き出されている。
彼女は恍惚とした表情で、僕の顔を覗き込んだ。
「先生、ここは誰も邪魔しない、二人だけの診察室ですよ。……外の世界は、先生が教えてくれた通り、とっても『静か』に整えておきました」
彼女が、診察室の大きな窓を、ゆっくりと開け放つ。
吹き込んできたのは、春のそよ風ではなかった。
見たこともないほど巨大なクリスタルが、重力を無視して天空に鎮座している。その下には、白亜の塔が立ち並び、雲を貫くほど巨大な王都が広がっていた。
前世の街並みなど、どこにもない。ここは、僕の知る物理法則が死に絶えた、異質の空間だ。
「……私は、先生を救うために、この世界を盗んだんです」
彼女の声が、誇らしげに響く。
窓の外に広がる王都。そこを行き交う人々は、まるでおもちゃの兵隊のように整然と動き、争いの一片すら感じさせない。
美しく、完璧で、生命の躍動を欠いた、静止した世界。
僕は理解した。
ここは僕の診察室ではない。彼女の執念が、僕の理論を歪めて具現化させた、巨大で、美しい「牢獄」なのだ。
「おかえりなさい、先生」
彼女が僕の首筋に顔を埋める。
腹部の傷が、彼女の体温に呼応するように、ドロリとした熱を帯びて拍動した。




