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第1話「再会の約束」

 窓の外は、今日という日を祝うような穏やかな春の夕暮れだった。


 真っ白な部屋を挟んで、彼女はいつになく晴れやかな顔で座っている。


 数年前、世間を震撼させたあの凄惨な事件を起こした日の面影は、もはやどこにもなかった。


 退院後も続いた、定期的な面会。今日がその最後の日だった。


 彼女は今や、善良な市民として社会に溶け込んでいる。僕の手で彼女の精神を繋ぎ止め、出口まで導き切ったという確信が、僕の胸を静かに満たしていた。


「先生。私、やっとわかったんです。世界がこんなに綺麗だったなんて」


 彼女の言葉に、僕は喉の奥で澱んでいた熱が引いていくのを感じた。


 数年に及ぶ対話。彼女の精神の深淵に潜り込み、もつれた糸を一本ずつ解きほぐしてきた。


 ようやく、出口に辿り着いたのだ。そう、確信していた。


「それは良かった。君なら、もう一人でやっていけるよ」


 僕が立ち上がり、手元の資料を鞄に収めようとしたその時だ。


 彼女が音もなく立ち上がり、机を回って僕の隣に並んだ。


「ねえ、先生。先生が教えてくれた『共感』って、とっても素敵な魔法ですね。……今なら私、先生が何を考えているか、手に取るようにわかるんです」


 彼女の手が、僕の肩に柔らかく置かれた。その指先が、わずかに震えていることに僕は気づかなかった。


「先生は今、『やり遂げた』って満足してる。私の心が自分から離れて、自由になったって信じてる。……でも、それは違うんですよ」


 耳元で囁かれる声が、ひどく甘く、そして凍りつくほど冷淡に響いた。


「私の心は、空っぽになったんじゃない。……先生で、いっぱいになったんです」


 視界が、火花を散らしたように揺れた。


 熱い、という感覚よりも先に、呼吸が上手くできなくなる違和感が襲う。


 見下ろすと、僕の脇腹には、鋭利な刃物が深く沈み込んでいた。


 それは彼女が、この日のために用意し、忍ばせてきたものだった。


 社会復帰を祝う言葉を交わした、その直後。僕が彼女を「一人の人間」として信頼し、警戒を解いたその瞬間に、彼女は数年待っていた唯一の隙を突いた。


「先生、一緒に死のう? 私、先生と一緒になりたいの」


 崩れ落ちる僕の体を、彼女は愛おしそうに抱きとめた。僕の血が彼女の白いブラウスを汚していくのを、彼女はうっとりと眺めている。


「外の世界なんて、行きたくない。先生のいない自由なんて、ただの孤独だもの。……ねえ、先生。今、どんな気持ち? 私に殺される気分は?」


 薄れゆく意識の中で、僕は自分の致命的な見誤りを理解した。


 僕は彼女の「欲望」を消したのではない。ただ、その全エネルギーを「僕」という一点に集約させてしまったのだ。


 彼女の瞳の中に映る僕は、ひどく滑稽で、絶望に満ちていた。


 それが彼女にとって、人生で一番美しい景色であるかのように。


「いってらっしゃい、先生。……すぐ、追いかけるからね」


 遠のく意識の最後、頬に触れた彼女の指の冷たさだけが、呪いのように刻み込まれた。


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