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ミシャは祭壇の前で膝をついて祈った。
昨夜は大切なご子息に怪我をさせてしまい、大変失礼いたしました。
今後はこのようなことを繰り返さぬように、よりいっそう精進いたします。
どうぞ愚かな子羊を見捨てることなく、その寛大な御心でお見守り下さい。
何度も祈って、丁寧に磨き上げる。
やはり、すべてが万事うまくいくなんてありえないのだ。
ついつい、この家の中では失敗が少ないから油断してしまっていた。
まさかラケシスに怪我をさせるだなんて──。
クロトに報告すべきなのだろうか。
弟に怪我をさせるだなんて! と追い出されたりするかもしれない。
そうなれば、今度こそ自分は男爵家のお荷物、厄介者、疫病神以外のなにものでもなくなってしまう。
いや、今でも充分その呼称に匹敵するのだが。
祭壇室をあとにする。
さて、そろそろ朝食が届く頃であろう──あ、クロトに台車の購入を要望しよう。
またひとりでは運搬が困難だからとクロトの執務室に向かった。
「クロト様、よろしいでしょうか」
「ああ」
ノックをして入室をする。
クロトはネクタイを締めているところだった。
鏡越しに目が合う。
「なにかあったのか」
「業務に必要なものを購入していただきたく参りました」
「なにが必要?」
「食事を運ぶ台車があると嬉しいです。4人分ですと籠も4つになりまして、一度で運べなくて」
「あー……なるほど。それは早めに購入したほうがよさそうだ。あとでアトロポスと買って来てくれて構わない。とりあえず朝食分は室内用の台車が厨房にあるはずだから、それを使ってくれ。汚れても気にしなくていい」
「畏まりました」
クロトがネクタイを締め終える。
察して、ミシャは傍にあったジャケットを広げて待った。
クロトと目が合う。
「……ジャケットはお召しになりませんか?」
「いや、着る」
着させてやった。
正面にまわり、背伸びして襟元を正し、ジャケットのボタンを留める。
埃を払い、ピンと袖を伸ばしてやった。
再度、クロトと目が合った。
「少し出掛けてくる。昼食までには戻る」
「馬車の手配はどうなさいますか?」
といっても、自分は御者にはなれないが。
「王室から迎えがくる。帰りも気にしなくていい」
「かしこまりました。お見送りします」
「……ああ。」
クロトの歩みに合わせて追従する。
今日の仕事を頭で整理した。
お見送り、厨房から台車の移動、朝食を並べる、食べる、片付ける、アトロポスを連れ出す、外用の台車を買って帰る、アフターヌーンティー、食べる、片付ける、掃除、夕食──よし、大丈夫そう。
屋敷の前に豪華な馬車が止まっていた。
御者の体が大きくて驚く。
王室の一員のようだ。
「王室は剛腕の神に愛されている。少しこの屋敷の敷地内に入っただけでは、彼らの体に影響はほとんどない。門番や塀の警戒も王室騎士団から派遣されている。しかし、素早く外に出てやらなければならない」
「なるほど」
「まあ、つまり君が異常なんだが」
「……はい」
なんと返事をするのが正しいのか。
自分としてはこの家の中にいるのが居心地がいいので、俄かには噂の類を信じられない。
「いってらっしゃいませ」
「ああ。必ずアトロポスを連れ出すように。首輪をつけて引き摺っても構わない」
「……善処します」
「俺のクローゼットに服を7セット用意しておいてくれ。毎日組み合わせを考えるのが時間の無駄だから」
「かしこまりました。今日のように外出されるご予定はございますか?」
「2、3度」
「かしこまりました」
そうして、ほとんど開けられる機会のない門から出て行く馬車を見送った。
◇
「アトロポス様、行きますよ!」
「いーやーだー!」
「クロト様よりご指示なのです!」
「それでも嫌なものは嫌だ!」
アトロポスの部屋で押し合い圧し合い引っ張り合いをして早くも数十分。
ミシャはぜーはーと荒く呼吸を繰り返した。
アトロポスはソファにしがみついて離れない。
「嫌だ。行きたくない。アフターヌーンティーは庭で食べるから、外は勘弁して」
懇願するように呟かれてしまうと、ミシャはもうなにもできなくなってしまった。
クロトから金は預かっているし、自分だけが出掛けたとて問題はないだろう。
アトロポスは頑張ってくれたが無理だった、もう少し時間を掛けて説得すると説明しよう。それに、これ以上強引に連れ出すのも気が引ける。
「……かしこまりました」
掴んでいたアトロポスの服を離す。
アトロポスが振り返ってきたが、彼の外を嫌う理由が理解できないほどミシャが社交的なわけでもない。
なんとなく、わかる。
傷の深さに差はあるかもしれないけれど、ミシャも外は嫌いだ。
とぼとぼと自室に寄り、上着を羽織る。
ひとりで外に出る。
大丈夫。
ただ家具店に行って、大きめの台車を買って帰ってくるだけ。何事もない。誰にも会わない。
失敗なんてしない。
不幸を呼び寄せたりなんか、しない。
ミシャは深く息を吐いて、ドアを開けた。
◇
門を出て、しばらく歩く。
石畳の道に沿って、足早に。
何人もの歩行者とすれ違うけれど、ミシャには見向きもしない。
これでいい。
きっと大丈夫。
物音が聞こえた。
振り返ると、先程すれ違ったばかりの高齢の男性の杖が折れて転んでいる。
──私のせい?
違う。ただの偶然。
しかし駆け寄るのに一瞬躊躇った。
その隙に違う誰かが男性に寄り添った。
ミシャはまた歩き出す。足早に。
ようやく目当ての家具店を見つけると、ほとんど小走りになってドアをくぐった。
壊れてしまわぬように後ろ手にそっとドアを閉じる。
何人かの客が悩ましい顔で家具を睨んでいた。
店員がミシャに気付いて、作り笑いを浮かべてくる。
「いらっしゃいませ」
会釈をして、その場で店内を見回した。
新品がたくさんある空間の中であまり歩き回りたくない。
厨房コーナーを見つけた。
目当てのものよりもやや小ぶりだが、2段式で上段にも下段にも籠が乗せられる。あれがいい。
「あちらを購入します」
「はいよ」
現金を手渡した。
大丈夫。あとは帰るだけ。
「まだ車輪がついてない商品なんだ。配送するよ。どちらまで?」
それは助かる。
早く帰りたい。
「モイラ公爵家までお願いします」
途端に、店内の一切の物音がぴしゃりと止まった。
その場にいる全員の視線が突き刺さる。
思わず、後退りした。
店員が般若の顔で突進してくる。
「出て行ってくれ。あんたに売るもんはない」
「え」
「関わりたくないんだ、早く出て行け! メイドか? なんてところで働いてやがんだ。悪いこたぁ言わねえ、早くやめろ!」
「あ、あの、でもお仕事にそれが必要で──」
店員の渾身の体当たりにミシャは耐えきれなかった。
ドアに背中を強かに打ち付けた。
蝶番が外れたのか、そのまま石畳道にドアごと尻餅をつく。
「一族の人間でもないくせに、この疫病神が……! 修理代を寄越せ!」
店員に馬乗りにされ、ミシャは反射的にさらに紙幣を差し出した。むんずと鷲掴みにされ、奪われていく。
入れ代わりに、台車が降り掛かってきた。
咄嗟に蹲るが、足と背中をさらに打った。
「とっとと失せろ! あの屋敷に家具を運んだせいで、わたしの娘は病気になって死んだんだ! 消えてくれ!」
消えろ! と、追い打ちを掛けるように水を浴びせられる。
ミシャはみっともなく四つん這いになって逃げようとした。
ああ、でもお金が無駄になってしまう。
せっかくお金を使わせてもらったのだから、持って帰らないと。
ミシャは重い台車を抱き上げるようにして逃げた。
しばらく歩いて、背中と足が鈍く痛むのを感じる。
台車は重いし、左足は痛いし、背中もずきずきする。
なんで一族の名前を出してしまったの。
本当に馬鹿。
ミシャの馬鹿。
失敗してしまった。
ああ、領収書。
収支報告をしなければならないのに。
でも戻る気にはなれない。
ミシャは唇を噛んだ。
悔しい。
買い物もまともに出来ないなんて。
なんでいつもこうなの。
不幸を呼び寄せるんじゃない。
自分はいつも失敗するから人を不幸にする。
そんなのとっくにわかってる。
ミシャは耐えながらも滲み流れ出る涙を拭く余裕もなく屋敷に戻った。




