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楽しい。
こんなになにも失敗しないなんて、ミシャの記憶の限り、ない。
初めてこんなにいい1日を過ごしている。
お皿も洗ったけれど、1枚も割っていない。
なんの物も壊していない。
誰も怪我をさせていない。
もしかして、疫病の神があまりにもミシャの不運を見て同情し、この家の中では守ってくれているのかもしれない。
ミシャは勝手にそう判断して、お屋敷に向かって手を合わせて感謝の祈りを捧げた。
疫病の神様。
ありがとうございます。
誠心誠意、お仕えしますのでどうかこの家では不幸を呼びませんようにお見守りください。
お力をお貸しください。
どうぞお守りください。
誠心誠意、お仕えしますので──。
強く祈り、芝刈りに戻る。
今日1日で全面を終えるのは無理そうだけれど、見栄えは抜群によくなるはず。
楽しい。
結果が出るって、楽しい。
「痛っ!」
調子に乗ってしまった。
あまりにも事がスムーズに進むから油断していたのだろう。
鎌の切っ先がほんの少し小指を掠めた。
傷は浅い。洗って消毒さえしておけば放っておいて大丈夫だろう。
疫病の神様、ごめんなさい調子に乗りました。
気を付けます。ちゃんと集中して働きます。
◇
15時。
クロトの執務室のドアをノックすると、返事があった。
入室すると、デスクチェアに腰掛けるクロトが眼鏡を外した。
作業をするときは眼鏡をかけるらしい。
応接セットを目顔で示したので、そちらに紅茶と菓子を用意する。
なんとスムーズか。
紅茶さえ一滴も零していない。
なんだか誇らしくなって、胸を張ってドアの前に控えた。
(きゃー! 失敗してなーい! 誰にも迷惑かけてなーい! 嬉しいー!)
思わず頬が緩んでしまうのを、きゅっと唇を引き結んで耐える。
今この部屋を出たら廊下をスキップしてしまいそうだった。
「……なにしてるんだ」
クロトに言われ、へ、とクロトを見る。
逡巡して、答えを出した。
「失礼しました。外でお待ちします」
一礼をすると、だが否定された。
「違うよ。君の分も用意されていたんじゃないのか」
「ご用意してくださっていました」
「じゃあここで食べればいいよ」
「……いえいえいえ! 公子様と一緒に席に着かせていただくだなんて、そんな」
「この屋敷には俺達ふたりしかいないんだ。わざわざ時間をずらして食事をしなくてもいい。時間の無駄だ。効率が悪い。夕食も同席で構わない。ラケシス達も気にしないはずだ」
確かに、ミシャ以外の従者は誰もいないようだった。
屋敷の中はひっそりと静まり返っていて、メイドのひとり、執事のひとりもいない。
この屋敷にはモイラ以外にはいないのだ。
「ほら、紅茶が冷めるから早く」
「は、はい。ありがとうございます。」
本当に侍女が公子と同席するなんて許されるのだろうか。
ミシャは小首を傾げながら、自分のカップと菓子を並べた。
注ごうとして、クロトがその役目を代わってくれた。
「ひいいいい! こ、公子様! そそそそそのようなことは!」
「いいから。食べな。」
「ひえええ、ああああありがごうございますうう」
恐れ多い。
まさかのはるか目上の人間に紅茶を注いでもらえるとは思わなんだ。
両手でソーサーを受け取り、拝めるがごとく一口飲む。
緊張のあまり味はわからなかったけれど、その温もりは喉から胸に大きく広がった。
菓子はシンプルなクッキーだ。
美味しい。シンプルだからこそ、食べ飽きない。
「なにか要望は?」
「……要望、といいますと」
「仕事上、不便なことはない? 君の仕事着は何着か用意してあるから大丈夫。仕事用の靴も。」
「……特に困ったことは今の時点では……あ、それでは少し調べたいことがございますので図書室をお借りしてもよろしいでしょうか」
「図書室? 調べるって、なにを」
「実はお恥ずかしながら、夫人にお仕えするものとばかり思って、女性物の装飾品や髪型の勉強ばかりしてしまって……男性の装飾品や髪型、服の生地やマナーを調べたいのです。ほとんど知識がないものでして……」
「ああ、なるほど。自由に使ってくれて構わない」
「ありがとうございま──」
「ちょっと」
クッキーの残りを頬張ったところで、テーブル越しに伸ばされたクロトの手に手首を掴まれた。
驚いて目を見開く。
「へ」
クッキーの破片が口から零れて舞ったのが見えた。
慌てて口を抑えようとするも、クロトの力は強かった。
とりあえず、むしゃむしゃ。
「その傷は? なにをした。どこで怪我をした?」
「あ、これはさっき鎌で少し」
「落ちてきたのか。飛んできたのか」
「い、いえ」
やっと嚥下する。
「芝刈りが楽しくて、つい注意を怠りまして……。でも洗いましたし、消毒もしました。もちろん持参したものでです。」
「土や金属の傷は、ある病気の原因にもなる」
クロトは立ち上がり、壁にある棚のうちひとつを開けた。薬品の香りがする。
そこで粉末の薬を一包取り出し、ミシャに渡してきた。
「飲んで。病気の予防になるから」
「は、はい」
元気なのにな、と思いつつ指示通りに薬を飲む。
ようやくクロトは安堵したように向かいのソファに深く腰掛けた。
クロトが窓の外を見る。
ミシャは構わず自分の最後のクッキーを頬張った。
「君にもやっぱり影響が出てしまったのかと思った」
むしゃむしゃ。
影響とは、と聞けずにむしゃむしゃ。
「この部屋で菓子をばりぼり食べるのは幼かった頃のラケシスとアトロポス以外に君が初めてだよ」
ばりぼり、はしたないということか。
ミシャは慌てて紅茶で呑み込んだ。
「失礼しました、美味しくて、つい」
「構わない。そのくらいのほうが心地がいい。俺のも食べていい。俺には紅茶をもう一杯いれてくれ」
言われたとおりにした。
遠慮がちにクッキーを貰う。
クロトは物音を探すみたいに瞑目して、背凭れに大きく体を預けた。
深い嘆息が吐き出される。
「この家は静かすぎる。耳鳴りがするくらいだ。君は好きに過ごしたらいい。ばりぼり食べてくれ」
「……ありがとうございます」
なんだか食べにくい。
食べるけど。




