第8話 霧の谷に残る足音
足音は、工房の外で途切れた。
エドガルは剣の柄に手を添えたまま、窓の脇へ身を寄せる。リゼットは机の上の地図から目を離せなかった。紙の中に閉じ込められた二つの音は、互いに絡み合いながら、かすかな震えを続けている。
「裏口を見ます」
エドガルが囁いた。
「待ってください。外へ出るなら、窓からは離れて」
「あなたは?」
「この地図を調べます」
「危険です」
「だからこそ、今しかありません」
リゼットは地図の端に指を触れた。
冷たい感触の奥から、無数の音が押し寄せてきた。紙を折る音。蝋燭の芯が爆ぜる音。誰かが息を殺す音。そして、遠い谷間を歩く足音。
一人ではない。
四人。いや、五人。
硬い靴底が濡れた石を踏み、霧の中を進んでいる。先頭の男が杖をつき、その後ろで誰かが小箱を抱えていた。彼らは谷の中ほどにある、崩れた見張り小屋へ向かっている。
小屋の中には、金属を擦る音がした。
「霧の谷……」
リゼットが呟くと、エドガルが振り返った。
「西の谷ですか」
「ええ。今夜、誰かがそこで何かを受け渡します」
「地図の音から?」
「足音が残っています。つい先ほどのものではありません。明け方までに、何度も同じ場所を歩いている」
エドガルは地図を見下ろした。
「商会の倉庫へ続く古道があります。水路の調査記録にも、谷の見張り小屋が中継所として描かれていました」
「では、偽の地図を持っていた老人もそこへ?」
「おそらく。ですが、罠を仕掛けた者が工房を見張っているなら、私たちが出たことを知らせる者がいるはずです」
リゼットは窓の外へ目を向けた。
霧が路地に流れ込んでいる。夕暮れにはまだ早いのに、白い靄は異様に濃かった。
「この霧も、自然ではありません」
窓枠に残った水滴へ指を伸ばす。そこには、谷の奥から流れてくる風の音が混じっていた。薬草を煮たような、甘く苦い匂い。そして、水門を閉じる重い鎖の音。
「誰かが谷の水路を塞いで、霧をこちらへ流しています」
「視界を奪うためでしょう」
「それだけではありません。霧に混ぜて、音を隠そうとしている」
エドガルは一瞬黙り、机の引き出しから黒い布を取り出した。そこには、測量杭と細い鉄線が包まれている。
「裏口からではなく、屋根を越えます」
「屋根?」
「見張りに気づかれにくい」
「貴族令嬢を屋根へ連れ出す測量士など、王都にはいないでしょうね」
「辺境にも、普通はいません」
珍しく冗談めいた響きがあり、リゼットは小さく笑った。
工房の裏手へ回ると、霧は膝の高さまで降りていた。エドガルは先に壁を登り、リゼットへ手を差し伸べる。彼女がその手を取ると、指先から彼の鼓動が伝わってきた。
速い。
自分のものかもしれない、とリゼットは思った。
屋根を渡り、隣家の物置へ降りる。路地には誰もいない。だが、霧の向こうから足音がした。
一つ。
二つ。
足音は工房の前を通り過ぎ、すぐに止まった。誰かが窓辺へ近づいたのだろう。紙をめくる音がして、低い声が漏れる。
――娘は地図を持ち出した。谷へ向かったぞ。
エドガルがリゼットの肩を押さえた。二人は物置の陰で息を潜める。
足音の主が去ると、彼は耳元で言った。
「先回りされました」
「いいえ。あの人は私たちが谷へ向かったと思っています」
「それなら、なおさら急ぎましょう」
西の谷へ続く古道は、霧に覆われていた。道標は倒れ、乾いた草が道の中央まで伸びている。エドガルは測量杭を打ちながら進み、リゼットは濡れた石や枝に残る音を拾った。
誰かが通った跡は、確かに五人分あった。
しかし、その中に一つだけ、妙な足音が混じっている。
「この人は歩いていません」
リゼットが言った。
「引きずっている?」
「違います。足音が、前から聞こえます」
霧の向こうで、枝が折れた。
エドガルは剣を抜き、リゼットを背にかばう。けれど、姿を現したのは、古地図を売っていた老人だった。白い髭に霧の水滴をつけ、息を切らしている。
「待ってくれ。わしは敵ではない」
「あなたは工房へ地図を置いた」
「置いたのはわしだ。だが、罠にしたのは別の者だ」
老人は懐から小さな金属筒を取り出した。
「これを見つけた。商会の倉庫で使われていた印が押してある。谷の小屋で、今夜、水門の鍵と一緒に渡されるはずだった」
エドガルが受け取ろうとしたとき、リゼットの耳に、筒の中から音が流れ込んだ。
鍵の触れ合う音。
紙幣を数える音。
そして、はっきりとした声。
――水が戻れば、我々の倉が空になる。あの娘と測量士を谷で消せ。
リゼットは筒から手を離した。
「小屋へ急がなければ」
「五人いる」とエドガルが言う。
「いいえ」
霧の奥を見つめる。足音が一つ、谷の底からこちらへ近づいてくる。ほかの四人とは違う、軽い足取りだった。
「六人です。けれど、最後の一人は味方かもしれません」
その足音は、霧の中で一度だけ立ち止まった。
次の瞬間、谷の奥から水門が開く音が響いた。
轟音とともに、地下から水が走り出す。霧が裂け、崩れた見張り小屋の輪郭が浮かび上がった。その屋根の上に、誰かが立っている。
逆光の中で、その人物は手にした灯りを掲げた。
灯りは三度、明滅した。
エドガルが息を呑む。
「王都の合図です」
小屋の中から怒号が上がった。複数の人影が飛び出し、谷の斜面を駆け下りてくる。
リゼットは地面に残る足音へ指を触れた。霧に沈んだ過去が、銀色の糸となって浮かび上がる。
五人の逃走経路。
隠された水門の位置。
そして、彼らが抱えている証拠の在りか。
「エドガル、右です。三人は水路沿いへ逃げます。残りは小屋の裏に隠れています」
「あなたはここに」
「相棒でしょう」
彼女が走り出すと、エドガルも並んだ。
霧の谷に残る足音は、もう過去のものではなかった。今、二人の足音が重なり、新しい道を刻んでいた。




