第7話 工房の窓辺で聞く告白
市場へ戻る道すがら、リゼットは何度も振り返った。
丘の向こうには、昨夜の地下水路が眠っている。分水口を通った水は、今ごろ北側の共同井戸へ向かっているはずだった。けれど、地上からはその気配さえわからない。乾いた風が石畳を撫で、店先の空樽をからからと鳴らしている。
「水の音が聞こえますか」
隣を歩くエドガルが尋ねた。
「ええ。とても遠いけれど」
「私には何も」
「聞こえないことが、悪いわけではありません」
リゼットは微笑んだ。
「聞こえない人がいるから、私の力は役に立つのです。皆が聞けるなら、私など必要ありませんから」
エドガルは返事をしなかった。ただ、歩く速さを少しだけ緩めた。
市場の中央では、すでに噂が広がっていた。商会の倉に水が隠されている。子爵家が水路を独占している。地下へ入った者がいる。様々な言葉が人から人へ流れ、真実と偽りの境目を曖昧にしていた。
露店商の青年は、人垣の端で落ち着かなげに立っていた。彼の前には、古地図を売っていたという老いた男の露店がある。しかし、そこには粗末な木箱と空の布だけが残されていた。
「逃げたようですね」
エドガルが周囲を見回す。
「いいえ」
リゼットは木箱に手を置いた。
市場の音が、指先から一気に流れ込んできた。呼び込みの声、荷車の軋み、焼き菓子を包む紙の擦れる音。その奥に、木箱を引きずる音があった。老いた男は露店を畳んだあと、南の路地へ進んでいる。だが、途中で誰かと合流していた。
――今夜、工房へ持ってこい。
低い声だった。
――窓辺に置けば、あの娘は必ず触れる。そうすれば、聞かれたくないことまで聞かせられる。
リゼットは手を離した。
「どうしました」
「偽の地図を売った男は、工房へ来るつもりです」
「なぜ工房に?」
「私に地図を触れさせたいようです。地図に別の音を仕込んでいるのかもしれません」
エドガルの眉がわずかに動いた。
「罠でしょう」
「ええ。だから、待ちましょう」
市場の端から、マルタが駆けてきた。片手には水差しを抱え、頬を赤くしている。
「リゼット、共同井戸から水が出たよ!」
その知らせに、周囲の町人たちがざわめいた。
「ほんの少しだけど、濁っていない水だった。トビアスが井戸の底を見てくれている」
「水路が生きている証拠です」
リゼットが言うと、喜びの声が上がった。だがエドガルはその声を遮るように、静かに告げた。
「まだ、証拠としては足りません。井戸の水が一時的に流れ込んだだけかもしれない」
町人たちの表情が曇る。
「それでも、確かめる方法はあります」
リゼットは水差しに指を触れた。水面に銀色の糸が揺らめき、遠くからかすかな音が返ってくる。地下を流れる水が、三つの石壁にぶつかり、井戸の底へ落ちていた。
「水路は共同井戸へつながっています。けれど、途中に詰まりがあります。そこを取り除けば、もっと流れるはずです」
エドガルはすぐに測量道具を取り出した。
「位置を教えてください。詰まりの場所を地上から割り出します」
その横顔を見ていると、昨夜の暗い地下道で、彼が自分の腕を引いた感触が蘇った。濁流から逃げるためだった。わかっている。それなのに、胸の奥には別の熱が残っていた。
「リゼット」
突然、エドガルが呼んだ。
「顔色が悪い」
「少し疲れただけです」
「なら、無理をしないでください」
「あなたは、いつも無理をしている人にそう言うのですね」
「私は無理をしていません」
「しているではありませんか。昨夜も、梁が崩れかけたとき、私より先に水門へ近づいたでしょう」
彼は黙った。
「危険なら、私にも知らせてください。相棒なのでしょう」
リゼットがそう言うと、エドガルは測量杭を握り直した。
「……相棒だからです」
低い声だった。
「あなたを失えば、調査が続けられない」
「それだけですか」
問いかけた瞬間、エドガルの目が揺れた。
市場の喧騒が遠のく。リゼットの耳には、彼の外套に残った音だけが聞こえていた。王都の石畳。雪の降る夜。誰かが扉を閉める音。そして、ひどく幼い声。
――帰ってくるまで、ここで待っています。
その声はエドガル自身のものではなかった。
彼はリゼットの顔を見た。聞かれたことに気づいたのだろう。
「妹です」
「……妹さん」
「測量隊に入る前、故郷で水害がありました。水路が壊れたのに、役人は記録を改ざんした。助けを求める声は、誰にも届かなかった」
エドガルは遠くの丘を見つめた。
「妹は、私が戻るまで待っていると言いました。けれど、戻ったときには、家も村も流されていた」
リゼットは何も言えなかった。
「だから、音を記録します。地図に残らないものを、誰かが忘れても消えないように」
彼の告白は、乾いた風の中でひどく静かだった。
「あなたの力を利用したいわけではありません」
「わかっています」
「本当に?」
「ええ。あなたは、失われたものを探している。私と同じです」
リゼットが答えると、エドガルは初めて、はっきりと彼女を見た。
そのとき、工房の方角から木箱の倒れる音がした。
二人が戻ると、窓辺に古い地図が置かれていた。窓は閉めたはずなのに、紙の端が風もないのに震えている。
「触らないでください」
エドガルが制した。
だが、リゼットにはすでに聞こえていた。
地図の中から、重なり合う二つの音がする。一つは地下水路の本当の流れ。もう一つは、誰かが意図的に閉じ込めた声だった。
――領主の印があれば、子爵家を追い出せる。
――工房の窓から火を入れろ。
リゼットの背筋が冷えた。
「これは、地図ではありません」
「では何です」
「告白を閉じ込めた罠です」
彼女がそう言った瞬間、外の路地で足音が止まった。
エドガルは剣に手をかけ、リゼットの前へ立つ。
窓辺の紙が、かすかに鳴った。
その音は、誰かの罪が初めて自分から扉を叩く音に似ていた。




