第6話 市場で売られた偽の地図
鐘が三度鳴り終えると、地下水路の奥で、何かが大きく崩れた。
水門を押しとどめていた梁が軋み、床下から濁流のうなりが響く。商会の男が悲鳴を上げた。
「もう保たない!」
エドガルはすぐにリゼットの腕を引いた。
「戻ります」
「水門は?」
「今は閉じ込められません。上の排水溝へ流すしかない」
二人は男を連れて通路を駆けた。足元を水が追いかけてくる。曲がり角を抜けた先で、リゼットは壁に刻まれた古い紋章を見つけた。波と麦穂。その下に、細い溝が三本並んでいる。
「エドガル、ここです!」
「何が?」
「昔の分水口です。水を三つに分けて、丘の外へ逃がす仕組みがあります」
彼は油灯を掲げ、石壁を調べた。溝のひとつは土砂で埋まり、残りは錆びた鉄板に塞がれている。
「開けられるか」
「音を探します」
リゼットは濡れた壁に指を当てた。
幾十年もの水音が、冷たい石の中から立ち上がる。子どもたちの笑い声。鍬を振るう音。祭りの日に鳴らされた太鼓。そして、分水口を開けるために回された木の取っ手の音。
銀糸が壁の奥へ伸び、埋もれた溝の形を映し出した。
「右の鉄板です。その下に、古い留め具があります」
エドガルは短剣の柄で鉄板を叩いた。商会の男も力を貸し、三人がかりで錆びた留め具を外す。鉄板が跳ね上がると、水が細い溝へ吸い込まれた。
うなり声が、少しずつ遠のいた。
「町の家々へは流れないでしょう」
リゼットが息を整えながら言った。
「少なくとも、今夜は」
エドガルはそう答えたが、表情は硬いままだった。
「明日になれば、商会はこの水路を隠す。証拠を先に集める必要があります」
男が舌打ちした。
「証拠だと? お前たちが勝手に地下へ入り込んだことのほうが問題だ。立入禁止の場所だったんだぞ」
「では、なぜ水を流していたのですか」
リゼットが問い返すと、男は目をそらした。
「俺は命令された。水を貯めろと言われただけだ」
「誰に?」
男は黙り込んだ。
その沈黙が答えだった。
地下道を出たとき、夜明け前の空が白み始めていた。入口では、マルタとトビアス、それに何人もの町人が待っていた。三度の鐘を聞き、丘から避難してきたのだという。
リゼットが水門の異変を伝えると、町人たちは不安そうに顔を見合わせた。しかし、商会の男の袖口についた石灰と泥を見た途端、ざわめきが広がった。
「やっぱり、商会が水を隠していたのか」
「でも、地下水路の場所なんて誰も知らないぞ」
「地図がある」
人垣の後ろから、若い露店商が声を上げた。
「今朝、市場で売っていた。古い水路の地図だ。商会の倉へ水が流れる道まで描いてある」
「見せてください」
エドガルが言うと、露店商は懐から折り畳まれた羊皮紙を取り出した。
地図には丘の輪郭と町の道が描かれ、地下水路らしき線が赤い墨で示されている。だが、分水口の位置が実際とは違っていた。さらに、水門から商会の倉へ向かう線だけが、妙に新しい墨で上書きされている。
「偽物です」
リゼットは地図の端に触れた。
紙には市場のざわめきが残っていた。売り手の声。買い手の囁き。値段を交渉する音。そして、地図を渡す直前に聞こえた低い声。
――これを持って役場へ行けば、子爵家が水路を盗んだと証明できる。
リゼットは顔を上げた。
「この地図は、私の家を犯人に仕立てるために売られました」
町人たちの視線が一斉に彼女へ向いた。
「子爵家が昔の水路を管理していたのは事実です」
リゼットは逃げずに続けた。
「けれど、この地図に描かれた分水口は間違っています。実際に水路へ入った私たちが知っています」
エドガルは地図を受け取り、線を指でなぞった。
「測量の線としても不自然です。地形の傾斜と合っていない。水が流れるなら、ここではなく北側へ落ちる」
「つまり、誰かがわざと間違えた?」
マルタが尋ねた。
「ええ。真実の一部に偽りを混ぜた地図です。信じた者が地下へ入り、崩れた水路に巻き込まれるよう仕組まれている可能性もあります」
その言葉に、町人たちは息をのんだ。
リゼットは地図を両手で広げた。羊皮紙に残る音はまだ消えていない。露店の喧騒の向こう、売り手が別の男へ小声で言っていた。
――夜明け前に役場へ届けば十分だ。領主様の印があれば、子爵家の土地を取り上げられる。
領主。
その言葉を聞いた瞬間、リゼットの指先から銀糸が走った。地図の赤い線が淡く輝き、紙の上に本来の水路の音が浮かび上がる。
水の流れは、商会の倉へ向かっていなかった。
丘の北側、町の共同井戸へ続いていた。
「この地図を売った者を探します」
エドガルが言った。
「市場はもう始まっている。まだ間に合うかもしれない」
リゼットは頷いた。
「私も行きます」
「危険です」
「偽の地図が私を犯人にするなら、私自身が市場で真実を示します」
エドガルは一瞬だけ彼女を見つめ、地図を丁寧に折った。
「では、隣に」
二人が市場へ向かうと、朝の鐘が鳴った。乾いた町に、ひと筋の水音が重なっている。
それはまだ小さく、誰もが聞き取れるものではなかった。
けれどリゼットにはわかる。
偽りの線の下で、本物の水路が目を覚まし始めていた。




