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雨音を編む令嬢は、辺境の測量士と明日の水路を描く  作者: 銀細工ナギ


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第5話 最初の一滴、最初の約束

 暗闇の奥から現れた男は、片手に油灯を掲げていた。


 光が揺れるたび、灰色の外套と泥に汚れた長靴が浮かび上がる。商会の人間だった。年は四十ほどで、頬に古い傷が走っている。


「聞こえなかったのか。ここは立入禁止だ」


 男の視線が、エドガルの短剣からリゼットの手元へ移った。鉄の鍵を見た瞬間、その顔から血の気が引いた。


「それをどこで手に入れた」


「あなたに答える必要はありません」


 エドガルが一歩前へ出た。


「王都測量局の調査官だ。ここで何をしている」


「測量官だと? 許可証はあるのか」


 男は強気に言い返したが、油灯を持つ手がわずかに震えていた。


 リゼットはその震えを見逃さなかった。男の袖口には、黒い泥が付着している。けれど泥の中に、青白い粉が混じっていた。昨日、町の水汲み場で見た石灰の粉と同じだった。


「水を流しているのですね」


 リゼットが言うと、男は口を閉ざした。


「ここから地下貯蔵庫へ水を引き、商会の倉へ送っている。町には水がないのに」


「黙れ!」


 男が怒鳴った。声が狭い通路に反響し、天井から細かな砂が落ちてくる。


 その瞬間、奥から激しい水音が響いた。


 男が振り返る。


「まずい」


 彼は油灯を壁際へ置き、通路の奥へ走り出した。エドガルも追おうとしたが、リゼットが腕をつかんだ。


「待ってください。右の道は乾いた砂がありました。罠かもしれません」


 男の足音が遠ざかる。続いて、何かを引きずる音と、金属が噛み合う音がした。


 リゼットは水の跡が続く左の道へ銀糸を伸ばした。糸は水音を拾い、彼女の指先へ冷たい記憶を運んでくる。


 大きな水門。二人の男。積み上げられた木箱。


――このままでは堤がもたない。


――壊れれば全部流されるぞ。


――だから今夜、上の水門を開ける。町へ流すしかない。


 別の声が割り込んだ。


――勝手に開けるな。領主様の印が要る。


――領主はもう商会の側だ。


 記憶の糸が急に切れた。


「水門が壊れかけています」


 リゼットは顔を上げた。


「このままなら、地下貯蔵庫だけではなく、丘の下の家々まで水が流れます」


 エドガルは短く頷いた。


「進みます」


「危険です」


「だから進む」


 彼の返事には迷いがなかった。


 マルタが杖を握り直す。


「私はここで待つよ。トビアス、お前もだ」


「でも……」


「お前は町へ戻って、鐘を鳴らしな。水路の異変を知らせるんだ」


 少年は悔しそうに唇を噛んだが、やがて頷いた。


「わかった。必ず鳴らす」


 エドガルは彼の肩に手を置いた。


「三度だ。三度鳴ったら、町の人を丘から遠ざける」


「うん」


 リゼットは鉄の鍵をマルタへ渡した。


「もし私たちが戻らなければ、これを町役場へ持っていってください。水守の鍵だと伝えて」


 マルタは鍵を見つめ、それからリゼットの手を包んだ。


「戻っておいで。水を見つけた者は、水を見届ける責任がある」


 その言葉を胸に刻み、リゼットはエドガルと奥へ進んだ。


 通路は次第に広くなり、壁面に古い石柱が現れた。柱には、波と麦穂を組み合わせた紋章が刻まれている。かつて町の人々が共同で水路を管理していた証だった。


 その先に、巨大な水門があった。


 鉄の扉の隙間から、濁った水が細く噴き出している。水門の前では、先ほどの男が歯車を押さえていた。だが歯車は錆びつき、彼の力では止められない。


「助けてくれ!」


 男が叫んだ。


「このままでは扉が外れる!」


 エドガルは周囲を見回し、折れた梁を見つけた。


「リゼット、あの支柱へ糸を」


「何をするのですか」


「歯車を固定する。あなたの力で、音の残った場所を探してくれ」


 リゼットは頷き、両手を水門へ向けた。


 雨の音。川の音。幾十年もの水音が、重なり合って押し寄せる。銀糸は奔流のように広がり、古い歯車の奥に一本だけ、まだ生きている音を見つけた。


 誰かがかつて、同じ水門を閉じたときの声だった。


――水は、売るものではない。


 リゼットはその声を頼りに糸を伸ばした。銀の糸が歯車の軸へ絡みつき、軋む金属を一瞬だけ押しとどめる。


「今です!」


 エドガルが梁を差し込み、男も必死に押した。


 歯車が止まった。


 だが、水門の隙間から流れ出る水は止まらない。床を走った水が、リゼットの靴先へ触れた。


 ほんの一滴だった。


 けれどそれは、長く閉ざされていた水路が初めて町へ返した水だった。


 エドガルがその一滴を見つめている。


「最初の水です」


 リゼットが囁いた。


「ああ」


「町へ流せますか」


「この水門を直せば。だが、証拠も必要です。商会は必ず隠そうとする」


 リゼットは銀糸を手のひらへ巻き取った。


「なら、隠せない形にしましょう。水の音を、町中へ届けます」


 エドガルは彼女を見た。いつもの無表情の奥で、かすかな光が揺れている。


「約束できますか」


「何を?」


「この水路を、誰か一人の手に渡さないことを」


 リゼットは水門に手を触れた。


「約束します。あなたも、隣にいてください」


 エドガルはしばらく黙っていた。


 やがて、梁を握っていた手を離し、彼女の手の上へ重ねる。


「約束します」


 そのとき、遠くで鐘が鳴った。


 一度。


 二度。


 三度。


 町へ知らせる音が、地下水路の天井を震わせる。


 水門の奥で、止まりかけていた流れが再び動いた。細い水は溝を満たし、石の間を走り、暗い地下道の向こうへ消えていく。


 リゼットには聞こえていた。


 水が、町の名を呼んでいる。


 そしてその声は、もう誰にも奪わせないと誓う二人の約束を、静かに運んでいた。

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