第9話 消された測量記録
水門から噴き出した水は、谷底の石を白く濡らしながら、古い水路へ流れ込んでいった。
リゼットは霧の中を走った。足元には、逃げた者たちの音が糸のように浮かんでいる。三人は水路沿いへ向かい、二人は見張り小屋の裏へ回った。けれど、糸の先には一つだけ、不自然に途切れた場所があった。
「エドガル、止まって!」
彼の腕をつかむ。
直後、目の前の地面が崩れた。乾いた草に隠されていた穴から、鉄の杭が跳ね上がる。エドガルが身をひねり、リゼットを抱えて斜面へ倒れ込んだ。杭は彼の肩をかすめ、外套を裂いた。
「怪我は」
「ありません。あなたは?」
「浅い」
肩口から血がにじんでいる。
リゼットは指先を伸ばし、濡れた外套に残る音を拾った。金属が弾けた瞬間の音。仕掛けを置いた者の手が、布を押さえた音。その奥に、低い囁きが残っていた。
――小屋の地下へ追い込め。
「罠は小屋へ誘導するためです」
「では、裏へ回った二人が待っています」
「ええ。でも、地下には別の出口がある」
リゼットは霧に濡れた石を見回した。水の流れに沿って、細い糸が地中へ沈んでいる。古い石組みの一つだけ、周囲より冷たかった。
エドガルが測量杭の先で土を払う。石の縁から、かすかに空気が漏れた。
「隠し扉ですね」
押し開けると、地下へ続く狭い階段が現れた。湿った空気の中から、紙を破る音が聞こえてくる。
「記録を消している」
リゼットが言った。
二人は灯りを伏せ、階段を下りた。
地下室には、壁一面に木箱が積まれていた。中央の机では、灰色の髪の男が書類を火鉢へ投げ込んでいる。見張り小屋で見た先頭の男だった。その隣には、商会の紋章をつけた若者が立ち、入口には二人の男が剣を構えている。
「来たか、子爵令嬢」
灰色の髪の男が振り向いた。
「あなたは誰です」
「町の水利管理官だ。お前の父親が没落する前から、この谷を守ってきた」
「守っていたのではなく、隠していたのでしょう」
彼の手元で、紙が一枚燃え上がった。
「水路が使えれば、町の者は我々の倉庫を必要としなくなる。水を握る者が富を握る。それだけの話だ」
「だから測量記録を消し、古道を崩し、干ばつを長引かせた」
エドガルが言う。
管理官は笑った。
「王都の若造が、何を知っている。記録など紙切れだ。証人も買える。水門の鍵も、すぐにこちらへ戻る」
若者が懐から鍵を取り出した。
その瞬間、リゼットは机に置かれた黒ずんだ帳面へ手を伸ばした。鍵が落ち、金属音が地下室に響く。音が糸となって、彼女の指へ絡みついた。
帳面に触れる。
何年分もの音が一度に押し寄せてきた。役人たちが酒を飲みながら契約を交わす声。夜ごと水門を閉める鎖の音。測量士が抗議する声。そして、紙を削る音。
記録の文字を消すため、刃物で紙面を削っている。
しかし、完全には消えていない。
紙の下に残った筆圧が、音として生きていた。
「この帳面には、消された記録が残っています」
「触るな!」
管理官が叫び、男たちが襲いかかる。
エドガルの剣が一人の刃を受け止めた。狭い地下室に金属音が連続して響く。リゼットは帳面を胸に抱き、机の脇へ退いた。もう一人の男が迫る。逃げ道はない。
そのとき、階段の上から灯りが落ちてきた。
「伏せて!」
聞き覚えのある声だった。
リゼットが身をかがめると、光の中から短い弩矢が飛び、男の手元を打った。剣が床へ落ちる。
階段に立っていたのは、王都の外套を着た女だった。見張り小屋の屋根で合図を送っていた人物である。彼女の後ろには、数人の兵士が控えていた。
「王立水路監査局、臨時監査官セシリア。エドガル、遅いわ」
「あなたが来る予定は聞いていません」
「予定を漏らす者がいたから、知らせなかったのよ」
セシリアは管理官へ視線を向けた。
「火鉢から離れなさい。焼けた紙灰も証拠です」
管理官は逃げようとしたが、背後の水路から人影が現れた。老人だった。彼は濡れた鍵を拾い上げ、兵士へ差し出す。
「これで水門の鍵は戻った。わしも証言する」
管理官の顔から血の気が引いた。
リゼットは帳面を開いた。削られた頁に指を置き、残った音をゆっくり糸へ移す。紙の上に銀色の線が浮かび、消されたはずの文字が、筆圧の跡に沿って現れていく。
日付。
水門を閉じた時刻。
支払われた金額。
そして命令を出した者の名。
最後の頁に記されていた名を見て、エドガルが息を止めた。
「町長……」
帳面には、町長と商会が長年にわたり水を独占していた証拠が、すべて残っていた。
リゼットは顔を上げた。
「これを町の人々に見せます。誰にも書き換えられない形で」
セシリアが頷く。
「あなたの力で?」
「私一人ではありません。測量士の記録と、監査局の証明が必要です」
エドガルは裂けた外套の肩を押さえながら、彼女の隣へ立った。
「なら、測り直します。水路も、土地も、これからの町の未来も」
地下室の奥で、水が流れる音がした。
閉ざされていた水路は、長い眠りから目を覚まし、町へ向かって静かに走り始めていた。




