第18話 すべての水音を重ねて
北の山へ向かう道は、昨夜の雨でぬかるんでいた。
リゼットは裾をたくし上げ、杖の先で崩れかけた土を確かめながら進んだ。肩から提げた箱には、音を写すための糸と小さな硝子瓶が入っている。隣を歩くエドガルは測量器具を背負い、王都の封印札を胸元にしまっていた。
町を出るとき、セシリアが二人を呼び止めた。
「山へ入るなら、これを持っていって」
渡されたのは、古びた真鍮の鍵だった。
「祖母の家に残っていたものです。水門の鍵かもしれないと、昔から聞かされていました」
鍵の頭には、三本の波線が刻まれている。リゼットが指で触れると、かすかな水音がした。遠い地下で、誰かが石の扉を撫でているような音だった。
「この音……」
「聞こえますか?」
セシリアが息を詰める。
「ええ。鍵が覚えている音です」
エドガルは鍵を受け取り、刻印を地図の印と見比べた。
「旧水路の第三分岐と同じ印だ。水門に使われていた可能性が高い」
「なら、源流へ行く道を開けるかもしれません」
二人はさらに山を登った。
昼を過ぎるころ、道は途切れた。古い石垣が崩れ、斜面から倒木がせり出している。エドガルは方位磁針と測量鎖を取り出し、周囲を歩いて距離を測った。
「地図の記録では、ここに道がある」
「道はなくても、水は残っています」
リゼットは目を閉じた。
霧の中から、幾つもの音が浮かび上がってくる。雨粒が葉を叩く音。岩の隙間を抜ける細い流れ。誰かの足音。そして、金属が石にぶつかる音。
ひとつだけ、音の流れに逆らっていた。
「こちらです」
彼女が斜面の奥を指すと、エドガルは黙って枝を払った。湿った土の下から、平たい石が現れる。その表面には、三本の波線が刻まれていた。
「水門の標識だ」
彼は周囲を測り、石垣の崩れた場所に目を止めた。
「入口は埋められている。だが、完全には塞がれていない」
二人で土を掘ると、半刻もしないうちに黒い穴が姿を現した。冷たい風が吹き出し、地下から低い轟きが聞こえてくる。
リゼットは箱から青い糸を取り出した。
「ここに音を写します」
「僕が先に入る」
「いいえ。危険を確かめるのは、二人で」
エドガルが彼女を見た。
「あなたは無理をする」
「あなたもです」
短い沈黙のあと、彼の口元がほんの少し緩んだ。
「対等ということか」
「そうです」
二人は並んで坑道へ入った。
内部は狭く、壁面には古い鑿の跡が続いていた。足元を水が流れている。かつて町へ向かっていたはずの流れは、途中で石積みに遮られ、細い溝へ押し込められていた。
リゼットは耳を澄ませた。
水はひとつではなかった。
遠くから来る澄んだ音。横道から混じる濁った音。閉じた門の向こうで、長い年月を待ち続ける音。
彼女は糸を三本、順に水へ触れさせた。
青い糸が震え、白い糸が低く鳴り、赤い糸が鋭く跳ねる。
「ここです」
「何が?」
「水を盗んだ分岐が、この先にあります。けれど、その奥に源流がある。もっと大きな水音が……」
そのとき、坑道の奥で石が崩れた。
エドガルがとっさにリゼットの肩を引き寄せる。頭上から小石が降り、灯りが揺れた。
「誰かいる!」
奥から人の走る音がした。
エドガルは灯りを掲げて駆けた。リゼットも後を追う。曲がり角の先に、濃紺の外套が一瞬だけ見えた。オルフェンの手の者だ。男は水門のそばに油壺を置き、火打石を手にしていた。
「止まりなさい!」
リゼットの声に、男が振り返る。
「ここを壊せば、証拠は消える。お嬢様も、伯爵家の許可なく立ち入った罪人になるぞ」
「王都の封印札があります」
エドガルが札を掲げた。
「お前のほうが不法侵入だ」
男は火打石を鳴らした。
だが、火花は水音にかき消された。
リゼットが赤い糸を水門へ投げる。糸は空中で弧を描き、男の手首に絡みついた。写し取った音が一気に弾け、かつて門を閉じた鎖の響きが坑道いっぱいに轟いた。
男は怯んで尻もちをついた。エドガルが火打石と油壺を取り上げる。
「町の水を燃やすつもりだったのですか」
「俺は命じられただけだ!」
男の叫び声が反響する。
リゼットは水門に手を触れた。冷たい金属の奥から、幾つもの水音が重なって押し寄せてくる。作業員たちの咳。怯えた子供の泣き声。閉じ込められた水が石を押す音。そして、門を閉じるよう命じた男の声。
オルフェンの父親だった。
記憶は音の糸となって、彼女の手の中へ集まった。
「証拠になります」
「なら、持ち帰る」
エドガルは水門の構造を確かめた。
「だが、ここを開ければ、下流へ一気に水が流れる。町の石樋が耐えられるか確認が必要だ」
「源流を見つけても、急に戻してはいけないのですね」
「水も、事実も、流し方を誤れば人を傷つける」
彼の言葉に、リゼットはうなずいた。
さらに奥へ進むと、坑道は広い洞窟へつながっていた。天井の裂け目から雨水が落ち、岩盤の奥から澄んだ流れが湧き出している。そこには古い石柱が立ち、町の紋章ではなく、開かれた手の印が刻まれていた。
源流だった。
リゼットは水辺に膝をつき、青い糸をそっと浸した。
これまで聞いたすべての水音が、ひとつに重なった。
山に降る雨。地下を走る流れ。閉じられた門。町の石樋。空になった井戸で泣く人々。水を待つ畑。そして、まだ誰にも奪われていない、泉そのものの音。
糸は淡い銀色に輝いた。
「聞こえます」
リゼットは涙を拭わずに言った。
「この水は、町へ戻りたがっています」
エドガルは水面に測量棒を差し込み、深さと流速を記録した。
「戻せる。段階を踏めば、町の貯水槽を満たせる」
「では、明日の審問で示せますね」
「ああ。地図の空白は埋まった」
彼はそう言ってから、源流ではなくリゼットを見た。
「あなたが聞き取ったものも、地図に記すべきだ」
「音まで?」
「水路は石だけでできているわけではない。人が守り、人が壊し、人が取り戻す」
静かな洞窟の中で、彼の声だけがまっすぐ届いた。
リゼットは銀色の糸を握りしめた。
「エドガル。審問が終わったら……この力を使う工房を、町に作りたいのです」
「僕も測量所を開く」
「では、隣同士にしましょう」
「最初から、そのつもりだった」
彼の手が、そっと彼女の手に重なった。
洞窟の奥で、泉が鳴っている。
二人の間に流れる沈黙もまた、ひとつの水音のようだった。




