第17話 公開審問のための地図
北の山から戻った翌朝、町の広場には見慣れない机が並べられていた。
雨はやんでいたが、石畳にはまだ水が残っている。広場の中央には仮設の壇が組まれ、その正面に王都から派遣された監察官の席が置かれていた。町人たちは遠巻きに集まり、声を潜めている。
公開審問。
そう告げたのは、夜明け前に届いた王都の封書だった。
伯爵家の管理する水路と貯水池について、住民の前で事情を明らかにする。証人の申し立てを受け、記録を照合し、必要ならば現地の封鎖を解く――そこまで書かれていた。
リゼットは机の上に広げた地図を見つめていた。
それは、彼女が自分の手で描き直したものだった。
古い金属板の図をもとに、エドガルが測量した坑道の位置を重ね、セシリアが町の老人たちから聞き取った道筋を書き加えてある。北の泉から地下水路が山腹を下り、三つの分岐を経て町の石樋へ流れ込む。途中には、伯爵家の貯水池へ水を盗み出すための横道が赤い線で記されていた。
ただし、地図の右上には大きな空白が残っている。
泉そのものの正確な位置だけが、まだ確定していなかった。
「その顔は、地図に謝っている顔です」
隣でエドガルが言った。
いつものように、声は低く簡潔だった。額の傷には白い布が巻かれている。
「空白があるのです。公開審問で、この部分を問われたら……」
「わからない場所を、わからないまま示す。それも測量です」
「でも、伯爵家はそこを突いてきます。泉を見ていないなら、記憶を証拠にする資格がないと」
エドガルは地図の空白へ指を置いた。
「あなたは見たでしょう」
「雨の記憶を、ですか」
「あなたが見たものを、僕は測った。僕が測ったものを、あなたは音で確かめた。片方だけでは地図にならない」
リゼットは彼を見上げた。
エドガルは視線を地図から動かさなかったが、その指先は紙の上で彼女の指に触れそうなところにあった。
「だから、空白は二人で埋める」
その言葉に、胸の奥の不安が少しだけほどけた。
壇上では監察官が書状を読み上げていた。名はヴァレリウス。王都の水利局から来たという。隣には、町の代理人としてセシリアが座っている。彼女は緊張した面持ちであったが、背筋はまっすぐだった。
やがてオルフェンが姿を現した。
拘束はされていない。伯爵家の代理人として審問に出ることを許されたのだろう。濃紺の外套を着込み、後ろには二人の書記を従えている。
「このような場所で裁判ごっこをするとは」
彼は壇上を見て笑った。
「記憶だの、音だの、町人の噂だの。正式な文書がなければ、すべて戯言にすぎません」
ざわめきが広場を走った。
リゼットは地図を巻こうとした。しかしエドガルが首を横に振る。
「広げたままに」
監察官が机の前を見た。
「リゼット嬢。あなたが提出した地図について説明を」
リゼットは一歩前へ出た。
「この地図は、ひとつの資料だけで作ったものではありません。坑道の位置はエドガル測量士が測定し、古い水路の構造は金属板の記録と照合しました。町人から聞き取った古い道筋も、複数の証言が一致した部分だけを記しています」
「そして、泉の場所は空白だ」
オルフェンがすぐに口を挟んだ。
「つまり、源流を見つけたという主張そのものが未完成なのでは?」
リゼットは空白を見た。
そこには、雨の夜に聞いた少女の声が残っている。
源流を隠しても、水は忘れない。
「はい。泉の正確な位置は、まだ確定していません」
町人たちが息をのんだ。
「ですが、わからないことを隠して線を引くより、確かな部分と不確かな部分を分けて示すほうが、地図は正確です」
ヴァレリウスがわずかに身を乗り出した。
「では、確かな部分を述べなさい」
「北の山の中腹に、旧水路へつながる地下道があります。そこには、水の流れを町へ導くための刻印が残っていました。さらに、貯水池から地下道へ続く横道も確認されています。横道の入口は、伯爵家の帳簿に記された工事の日付と一致します」
エドガルが帳簿を差し出した。
監察官が頁をめくる。町人たちの間から、低い驚きの声が上がった。
「工事名は、南側排水路の補修となっています」
ヴァレリウスが読み上げた。
「しかし実際には、北の旧水路から水を引き込むための掘削だった、と?」
「水路の傾斜を測ればわかります」
エドガルが答えた。
彼は地図を壇上へ運び、青い糸を三本、紙の上に置いた。
「この糸は坑道内で採取した水の流れを示しています。第一の糸は北から南へ、第二の糸は貯水池へ、第三の糸は現在閉じられている分岐へ続く。自然の地下水なら、このような分岐は生じません。人工的に流れを変えた跡です」
オルフェンが鼻で笑った。
「糸を置いただけで、水路の歴史が証明できると?」
「糸は水の記録を写したものです」
リゼットが言った。
彼女は青い糸にそっと触れた。雨の記憶が、冷たい光となって指先に集まる。水が石を削る音。重い門を閉じる音。記録から消された人々の声。
「この糸には、閉じられた水門の振動が残っています。誰かが意図して水を止めた。その事実は、記録にも、地形にも、音にも残っている」
広場は静まり返った。
そのとき、後方から老人が進み出た。
「わしは覚えている」
白髪の男だった。かつて貯水池の番をしていたという。
「子供のころ、南の池へ水が増える夜だけ、北の山から鐘のような音がした。父親は誰にも話すなと言った。話せば仕事を失うとな」
続いて、別の女が手を挙げた。
「私の祖母は、昔の水路工事に参加していました。源流へ通じる道は、伯爵家の兵が石で塞いだと言っていました」
一人、また一人と証言が重なる。
オルフェンの書記たちは急いで筆を走らせたが、彼の顔から余裕が消えていった。
ヴァレリウスは証言を聞き終えると、地図の空白へ目を向けた。
「泉の場所を確定するには、現地調査が必要だ」
「私たちが行きます」
リゼットが答えた。
エドガルも同時にうなずいた。
監察官は二人を見比べ、封印のついた細長い札を取り出した。
「では、王都の権限で北の山への立ち入りを許可する。地図の空白を埋め、源流を確認しなさい。審問は三日後、続行する」
三日。
その間に泉を見つけ、流れを町へ戻せるかどうかを示さなければならない。
リゼットは地図を巻き直した。空白は消えなかった。けれど、もうそれは恐ろしい闇ではない。二人が向かうべき場所を示す、白い道標に見えた。
「行きましょう、エドガル」
「ああ」
「今度は、誰にも隠されない地図を作ります」
広場の向こうで、雲の切れ目から光が差した。
濡れた石畳に、北の山へ向かう細い道が浮かび上がっていた。




